国柱会の高知尾智耀(田中智学の高弟)の賢治への「法華文学ノ奨メ」についての話
雨ニモマケズ手帳には、「 高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ 報ヲウケズ 貢高ノ心ヲ離レ 」と記されています。
これを高知尾は、「農家は鋤鍬をもって、商人はソロバンをもって各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修業のあり方である。詩歌文学を得意とするならば、その詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようにしなければならぬ」と話されたのです。
日蓮曼荼羅について
御本尊の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と大書され、その周囲に仏や菩薩、種々の境涯を示す衆生が並んでいます。
【南無妙法蓮華経とは、南無=帰依する、妙法蓮華経=法華経のことであり、我は、法華経に帰依するを表します。
このことは、すべての衆生が仏の智慧と慈悲の光に照らされて、生命本来のありのままの尊い姿になるとの意義をも表しています。
※ 「二十四文字の法華経(にじゅうよんもじのほけきょう)
法華経常不軽菩薩品第20で、不軽菩薩が一切衆生に仏性があるとして人々を礼拝して説いた経文のこと。「我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏」
(我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)(法華経)と、漢字の字数が24あり、万人成仏という法華経の教理が略説されていることから、「二十四文字の法華経」という。
※「唱題行」は、お題目を繰り返しお唱えすることで、「からだ」と「こころ」を調和させて、時間・空間を超えてお釈迦さまと一体となることのできる、日蓮宗の伝統的な修行法です。 《ヨガの瞑想の行動的・積極的瞑想とも言えます!》
※「知者は読調に観念をも並ぶべし。愚者は題目ばかりを唱うとも此の理に会すべし」 (天台大師)
※ 題目専唱を瞑想の視点から見た場合
お題目を唱えるという行為に注目すると、これは、一つの行為に専心していることになり、これは瞑想の基本的な要素である「心一境性」を確保していることであり、すなわち心を一つの対象に結びつける訓練になっているのです。お題目を唱えることに心を集中させていることであり、これは、瞑想の「止」のための訓練なのです。私達は日常的に止の訓練をすることは容易ではありませんが、お題目を唱えることが簡単な止の訓練になっているのです。
以下、[まんだら絵解図鑑10]
絵 小島サエキチ 文 大角 修 葉社刊より
宮沢賢治と法華経 最期の生き方
※ 晩年、衰弱した身体で「もう大循環の風の中に溶け込んでしまいたい」と明るい顔でつぶやいていました。
※ 宮沢賢治最後の日々
臨終前後、9月17日から21日まで
(昭和8年)9月17日から三日間は鳥谷ヶ先神社の祭典であった。この年は岩手県は空前の大豊作で米の収量が百三十二万石とも 言われた。前年も次の昭和9年も冷害による凶作であったから、なぜか天地も賢治の死を悼むかのようであった。
花巻は周辺の農村を相手にする商人の町であるから、農民が豊かになれば町も賑わうのである。近隣の農村の老若男女は、 久しぶりの豊作に喜んで町に出て来て、大いに賑わいをみせた。
9月17日(祭典第一日)
神輿が神社を出て町を練り歩いた。山車も町内から賑やかに繰り出した。賢治は裏二階の病室から店頭に降りてきて、 終日祭礼を楽しんだ。また門口にも足を運び、農民たちの喜びを肌で感じたようだった。
9月18日(祭典第二日)
この日も、門の所まで出たり、店先に坐ったりして、収穫を喜ぶ人出や、鹿踊りを見たりして楽しんだ。
9月19日(祭典最終日)
この日の夜は神輿が神社に還御することになっていた。賢治はそれを拝むために門の所に出て待っていた。東北地方では 九月も半ばを過ぎると夜は冷気が迫ってくるので、寒さと疲れで、病状が悪化することを心配した母イチは「賢サン。夜露 がひどいんちゃ、入って休んでいる方がいいだんすちゃ」と賢治に言ったが賢治は「大丈夫だんすじゃー」と答え、夜八時 頃に練ってきた神輿を拝んで二階の病室に戻って床についた。
この日、日中の気分の良いときに、半紙に毛筆で二首の短歌を書いた。賢治の絶筆とされている。文学的には盛岡中学校 時代に短歌で出発し、絶筆が短歌というのも奇しき因縁である。
方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる
(歌意)稗貫郡の十里四方に稲が登熟し、昨年の冷害に比べて、大豊作となった。それを寿ぐように、 祭典の三日間は晴れ渡った。
と、賢治が農民のために半生を捧げたのが報われたという喜びが伝わってくる。(稗貫は、音読みで彼岸に通じる)
病(いたつき)の ゆゑにくもらん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし
(歌意)今病気で失う命であるが稲の稔りの役に立つならば、嬉しいことだ。
「みのり」は「稔」と「御法」にかかる言葉で、一方では仏教の教え、ここでは法華経のために生命を棄てることも 喜んでいる。最後まで法華経の行者としての賢治の姿をうかがうことができる。
9月20日
病床にあった賢治が祭典中に三日間も店先や門の所に出ていたのを見て、賢治の病状が大分回復したと考えた農夫が、 宮沢家を訪れて、起きてきた賢治に、営農の相談をした。それを見て母イチは安心して外出したが、賢治は急に容態が変わり 呼吸が苦しくなったので呼び返され、花巻病院から医師がかけつけた。「急性肺炎」という診断であった。
政次郎も最悪の場合を考え、賢治に死の心構えをさせようと親鸞や日蓮の往生観を語りあった。
夜七時頃農夫が賢治を訪ねて肥料のことで相談に来た。賢治の容態が切迫していることを知らない店の人が、賢治に伝えた。 賢治は家人が止めるのも聞かず、衣服を改めて玄関の板の間に正座し、まわりくどい話をていねいに聞いた。一時間ほどして やっと帰った。家人は止めることもできず、いらいらしていた。賢治を二階に抱えあげた。その夜は心配した弟清六が傍らに寝た。 賢治は「今夜は電燈が暗いなあ」と呟いた。もう視力が衰えていたのであろう。また「おれの原稿はみんなおまえにやるから、 もしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんな小さな本屋でもいいから出版させてくれ。こなければかまわないでくれ」と 告げた。
原稿については、ある時母に「この童話は、ありがたい仏さんの教えを、一生懸命に書いたものだんすじゃ。だから いつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」と告げていたという。
9月21日
朝の往診の医師に母が容態を尋ねると、医師は「どうも昨日のようでない」と答えた。それは危険な状態である ということである。
母は実家の父に電話して熊の胆を届けるように頼んだ。賢治には祖父にあたる善治が自分で持参して孫に飲ませた。様子が 落ち着いているようなので祖父は帰った。
午前十一時過ぎに、二階の賢治の病室からりんりんとバリトンで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と唱題の声が 聞こえてきた。
階下の家族は、びっくりして階段を駆け上がった。賢治は蒲団の上に端座して合掌し、お題目を唱えていた。これを見て 家族も最悪の場合を思った。
父政次郎は、賢治に声をかけた。「賢治、今になって、何の迷いもながべな」賢治は、「もう決まっております」 と答えた。父は、「何か、言い残したいことはないか、書くから、すずり箱を持ってくるように」と云った。
母は、それは賢治に死の宣告をするようなものだと思い「いま急いでそんなことをしなくてもー」と夫を非難するような口調 で呟いた。父は、はっきりと「いいや、そんなものではない」とはっきり答えた。巻紙と筆を持った父に、賢治はゆっくりと 静かに花巻弁で語り始めた。「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。 本の表紙は赤に―。『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心に ふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい。」
父は「法華経は自我偈だけかまたは全品か」と聞いた。賢治は「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えた。また あとがきは「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意に觸れて、あなたが無上道 に入られんことをお願ひするの外ありません。昭和八年九月二十一日 臨終の日に於いて 宮澤賢治」※とし、父は賢治に読み聞かせ 「これでいいか?」と問うた。賢治は「それで結構です。」と答えた。「あとはもうないか」と重ねて父が問うた。そばで聞いて いた母は「あとは、今でなくてもいいでしょう。」と賢治に代わって答えた。賢治は「あとは、またおきて書きます。」と 答えたが再び起きて書くことは無かった。
息子の臨終に際して、この父の毅然たる態度には、驚嘆せざるを得ない。確固たる信念が無ければ、こういう行動は取れない と思う。この父にして、この子ありの感を深くするのである。
続いて父は「たくさん書いてある原稿はどうするつもりか?」と聞いた。賢治はそれに「あれは、みんな、迷いのあと ですから、よいように処分してください」と答えた。父は賢治に「おまえのことは、いままで、一遍もほめたことがなかった。 今度だけはほめよう。りっぱだ。」賢治は生まれて始めて死の直前に父から褒められ、心から嬉しそうに弟清六に「お父さんに、 とうとう、ほめられたもや。」と語った。
父は階下に降り、家族も昼食のため下に降り、傍には母だけが残った。賢治は母に便器を入れてもらって排尿した。母に礼を 言った。母は「そんなことはない、それよりも早く良くなっておくれ」と告げた。
賢治は「お母さん、また、すまないども水コ」と言った。母は吸口にいっぱい入った水を渡した。賢治は、おいしそうに コクコクとのどを鳴らしてそれを呑んだ。「ああ。いい気持ちだ」と言った。
それから枕元のオキシフルを浸した脱脂綿で手、首、体を拭き、又「ああ、いいきもちだ」と繰返した。母は病状が落着いた と思い蒲団をなおしながら、「ゆっくり休んでじゃい」と言って、そっと立って部屋を出ようとして、ふり返って賢治を見ると、 賢治の様子が変わり、すうっと眠りに入るような賢治の呼吸が潮のひくように弱くなり、手にした脱脂綿が手からポロリと落ちた。 母は「賢さん、賢さん」と強く叫びましたが、もう答えは無かった。その時一時半であった。
従容たる賢治の死は、さながら高僧の死のように、嬉々として、御仏の元に帰っていったようであった。
それにしても、賢治は最後まで、法華経の行者であった。残された者に「国訳法華経」を届けて、無上道に入ることを 願ったのである。そして父には全作品を、適当に処分してほしいと述べたことは、賢治の全作品も、法華経と引き替えてもよい ということであろう。これ程まで法華経に帰依した生涯であったということである。
遺言は実行された。印刷所は盛岡市の山口活版所、発行者は宮沢清六、昭和9年6月5日の発行で、通し番号を付けられ、 友人知己に配られた。
※( 刊記追加のことば
以上は兄の全生涯中最大の希望/であり又私共に依托せられた/最重要の任務でもありますので/今刊行に当りて/謹んで兄の意志によりて尊下に/呈上致します/
宮沢清六 )
筆者は、以前から、賢治の散文作品は、法華経の長行(じょうごう)にあたり、詩等は偈(げ)にあたる のではないか、と考えていた。賢治が原稿について母に言った言葉にもそれは示されている。賢治は妙法蓮華経の精神を伝える ために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。
※ 『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』田口昭典著 でくのぼう出版より
父母あての遺書
この一生の間のどこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、いつも我儘でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでした。ご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。/どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしてください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
九月廿一日 ※
賢治
父上様/母上様
※ この九月廿一日の日付は、遺書を書かれた2年前の九月廿一日であり、亡くなる日時を知っていたようです?
弟妹あての告別のことば
たうたう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。/どうかこの我儘者をお赦しください。
賢治
清六様/しげ様/主計様/くに様
【 ※ 賢治の友人で、彼の霊的能力について明かした森荘巳池氏(モリ ソウイチ : 盛岡市出身で宮沢賢治と深い親交がある作家)が古い著書(『宮澤賢治』杜陵書院、昭和二二年)の中で明らかにしていることだが、賢治が中学を出て一年浪人したのは、父親が上の学校には行かせてくれないだろうと邪推して勉強を怠ったためであった。この頃褝寺に下宿したのも、実は気持ちが荒んで大騷ぎをし、寄宿舎から追い出されたためだった。卒業後すぐに発疹チフスにかかって療養生活を余儀なくされることになるのだが、この時賢治は「白い立派な髭を生やした岩手山の神様(霊山の岩手山には、小さい頃からの鉱物採取などで30回程、登山しています) が降りてきて、ぴかぴか光る剣を腹にぶすっと刺した夢」を見た後で病気がすぐに快方に向かう、という神秘体験をもっている。そして近くの川で「みそぎ(禊)」をして「あけがたの烏にまじり みそぎをれば ねむの林に 垂るる白雲」という歌を詠んでいる。賢治がその人生を決定づけた『法華経』と出会うのはその直後のことであり、その後勉学の意欲が湧き、父親の許しを得て翌年盛岡高等農林学校に入学することができた。 もう一つ、賢治が東京に家出する直接的なきっかけになったのは、彼が店番をしながら火鉢にあたって考え事をしていた時に突然ひらめいた「宗教的啓示」、具体的には頭上の棚から彼の背中に『御書』(日蓮上人遺文集)が落ちてきたことであったという。つまり、彼はそれを偶然の出来事としてではなく、上京と「国柱会」入会を促す神意の表れであると感じ取ったのである。 家出の旅の最後に行き着いたのが、父に連れられて訪れた伊勢神宮だった。その日は雨で、賢治は「ありがたい玉のような雨」と言って父とともに神前に拝礼し、「かがやきの雨のいただき大神のみ前に父とふたりぬかづかん」という歌を詠んでいる。前述の森氏は「これ以後、賢治は両親に宗教上のことで改宗を迫ったりすることはなくなった」と書いているが、この時から賢治は日蓮宗を絶対視する考え方を改め、宗教の普遍性に目覚めたと見ていいだろう。その翌年に妹トシの死という人生最大の試練を与えられた賢治は、以後、農民たちと苦楽をともにしながら独自の宗教的思索を深めていくことになる。 このように、彼の人生の節目節目に働いていたのは仏教の「悟り」やキリスト教の「啓示」とは別の、古神道のシャーマン(巫女)が受ける「神託」や「霊示」のようなものだった。……………
※ 森氏がつい最近になって、賢治が実はきわめて鋭い霊的能力をもっていた人であったことを明らかにしている。
森氏の語るところによれば、賢治の詩集『春と修羅』に対して好意的な評論を書いた森氏の家を賢治が訪れて、二人で文学談義をする機会がしばしばあった。その際に、賢治が木や草や花の精が見えたり、どこからか声が聞こえたり、早池峰山でお経を唱える仏僧の亡霊の姿を見たり、ある時には賢治が乗ったトラックを崖から落とそうとした小人(妖精)を見たりしたこともあったという話※ を森氏にだけ明かしてくれた、というのである。そして、この事実について宮沢家の人々も知っているが、世間を憚って彼らはけっして語ろうとはせず、宮沢家のきついタブーになっている、と森氏は言うのである。 それでなくともやること為すこと「良家の坊ちゃんの道楽」とやっかみ半分の目で見られ、花巻の街中を太鼓を叩きながらお題目を大声で唱え歩いた賢治である。花巻というところはいい所だが、世間体を重んじる田舎でもあった。賢治自身、教師あるいは農業指導者としての立場もあった。賢治自身も、彼の家族も、そうした一面を表に出そうとしなかったのは、考えてみれば当然のことであった。 現に、今でも花巻の地元では賢治のことを「キツネ憑き」と呼んで敬遠する人がいるという話を、筆者自身も聞いたことがあるし、彼のそうした一面に気づきながらも、そのことを白日のもとに曝すことは賢治の作品のイメージを損ない、その文学的価値を引き下げることになるとして、このことに触れたがらない研究者たちが多い。 しかし「賢治が霊的な能力をもっていた」という森氏の言葉に触発されてあらためて賢治の人生や作品を読み直してみると、「なるほど、そうだったのか」と思い当たることは枚挙にいとまがないのである。
※ 賢治がその人生最後に玄関先で見た外の景色、それもまた彼の死の二日前に行われた、花巻にある鳥谷崎神社の賑やかな「秋祭り」の行列だった。彼がその死の床で詠んだ二つの辞世も、神様からの豊かな恵みに感謝する日本人の素朴な宗心を表現したものである。 賢治が亡くなった昭和八年、岩手は八年ぶりの豊作だったという。
振り返れば、「みんな昔からの兄弟なのだから決して一人を祈ってはいけない」、そして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と語った宮沢賢治。 スウェーデンボルグや鈴木大拙とも響き合うこうした賢治の心こそ、私たち日本人が求めてやまない「心の故郷」だったのではないだろうか。
ここは銀河の空間の太陽日本、
陸中国の野原である。
青い松並、
萱の花、
古いみちのくの断片を保て。
(『農業芸術概論綱要』より)
[宮沢賢治とスウェーデンボルグ : 日本仏教の未来を見つめて 瀬上 正仁
(22世紀アート)より] 】
〘 ※〈盛岡高等農林学校時代の知人の小森彦太郎が宮澤賢治から聞いた話〉
賢治は後ろから来たトラックに乗せてもらった。
間もなくなにか危険な予感に襲われた。
というのは、体の小さな青鬼だの赤鬼だの白鬼だのが、目先にチラチラうかんできたからである。
そこで運転手にトラックを止めてくれるように頼んだが、大丈夫だといって止めてくれない。
鬼どもは大きくなったり小さくなったりしながら、ますます踊り狂っている。
その時ひょいと谷底を見ると、三メートルばかりある大きな掌がさんさんと白光を放って、トラックを支えているようである。
「お観音さまのお手だな」と思った途端それがスッと消え、「危ない!」とどなった。
運転手と間髪を入れずトラックから飛び降りると、トラックだけ谷底に落ちて行った。〙
※ 父 政次郎翁は賢治末期の願いとしていた国訳法華経の印刷頒布を進んで実行したばかりでなく、賢治の没後18年を経た1951年(昭和26年)7月、法華宗に改宗して菩提寺を従来の眞宗安浄寺から法華宗身照寺に移した。…………私は先年安浄寺の墓に詣った時の翁の言葉「家では賢治を特別扱いにはしません」を思い出し、何れ墓を移すであろうが、賢治の墓は作らず、別につくるなれば、供養塔にせよと進言し、帰ったら五輪塔の設計図を贈ると約束した。
………1957年(昭和32年)4月15日に身照寺墓地の宮沢家先祖代々の合葬墓の左に並んで建立され、同月18日に法要が行われた。身照寺の墓地にまいる者が多くなり、供養塔である多宝塔を「宮沢賢治の墓」と誤解する者が多くなったので…………。
宮澤賢治氏悲願建立の寺で「法華堂建立勧進文」を創案しています。
《左の五輪塔は賢治の供養塔、
右の骨堂が宮澤家の墓石
身照寺のこの五輪供養塔は賢治の墓
にはあらず。
※ 参考 鈴木 守
「ブログ みちのくの山野草」より
※ 法華経信仰と言っても浅いものから深いものまで、さまざまあります。天台宗、禅の道元禅師、日蓮宗、国柱会、創価学会など多くの在家教団でも法華経を信奉していますが、まるでちがった宗教となっています。
※ 宮沢賢治が十九世紀アメリカの思想家・詩人として知られるエマソン(Ralph Wald Emerson 一八〇三〜八二)の著書を介して、スウェーデンボルグの思想に触れていたことを示す事実が、次々と明らかにされています。 賢治の農学校教師時代の教え子だった照井謹二郎氏は、最期の病床に臥していた賢治から、傍らの書棚にあった戸川秋骨訳『エマーソン論文集』上巻(大正二年、玄黄社刊の第五刷本)を譲り受けたという。その中には亡妹トシの署名と加筆があり、賢治とトシの共通の愛読書であったことは間違いありません。
また、宮澤賢治が、中学三年(15歳1911年)の頃、真宗大谷派の仏教学者で賢治の父の友人であった暁烏敏(明10〜昭29)の著書『歎異抄講話』(明44)に親しんでいた賢治は、その中で賞讃されていたエマソンの思想に大きな関心を抱いていたという。
※ 盛岡中学校時代の賢治の同寮生であった藤原文三氏の証言(『校本宮澤賢治全集』の年譜)によれば、明治四四年二学期の頃の賢治は、学校の教科書には目もくれず、『中央公論』とエマソンの哲学書を読み耽っていたといいます。
このエマソン、実はスウェーデンボルグ神学の枢要部分を取り入れて「ユニテリアニズム」(ユニテリアン教会のことではなく、思想としてのユニテリアン主義)を確立した人物であり、その「大霊」あるいは「詩人論」といったものの中に明らかなスウェーデンボルグからの影響を確認できるし、「神学部講演」や著書『代表的人間像』でもスウェーデンボルグについての直接的な言及があります。 すなわち、明治〜大正期にエマソンの著書を介してスウェーデンボルグ思想の感化を受けたわが国の文化人は相当数いて、賢治もその一人であったと思われます。
そして、その後18歳頃、島地大等編[漢和対照妙法蓮華経]を読み、感銘を受け、それがきっかけとなり生涯の法華経へと帰依することになったのです。
※ 賢治の父政次郎は、浄土真宗の熱心な信仰者で、毎年、京都から暁烏 敏(あけがらす はや)などを呼んで夏期講習を開いていました。この暁烏敏が書いた『歎異抄講話』があり、当時のロング・ベストセラーです。当時、賢治は小学生でしたが、暁烏敏が花巻にくると、その身の回りの世話をしていました。食事の世話、お風呂、床の上げぬ下げなど。そして、講話をするときは、末席にひかえ、膝をそろえて、座って聞いていたと言う。
そして、その後バプテスト派の教会やカトリックの教会に通っています。その後盛岡高等農林時代に盛岡市にある浄土真宗のお寺、願教寺の夏期講習に通い、この願教寺の住職が島地大等師で『法華経』の講義を聞き、日蓮宗の『法華経』へとつながって行くのです。
※ 追 記
手帳に記されたマンダラについて
※ この国柱会より、授与された、「ご本尊」は、国柱会の主宰者田中智学師が始顕本尊を臨写したと伝承されていますが、始顕本尊じたい明治八年に身延山にて、焼失していて、その二種の臨写本※ とは一致していませんが、田中智学が佐渡始顕本尊の一点から臨写したものとされています。
※ 本満寺所蔵の日乾上人による
上部振り分けの経文は、
「此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病即消滅。不老不死。」
(この経は則ち為れ 閻浮提の人の 病の良薬なり。若し人 病あらんに 是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して 不老不死ならん。)とあります。(法華経薬王品出)
※ 親戚の関徳彌(賢治とは従弟同士であり、信仰的にも同時期に国柱会へ入信している)によれば、国柱会から届いた大曼荼羅本尊を賢治は経師屋に注文した掛け軸で賢治自身が表装し、仏壇に勧請した。「その日の読経や式の次第は実にりっぱで、後に控えている私はそのりっぱさに感動したものです」(関『賢治随聞』)ということだが、そのりっぱな読経の声は、階下の家族を困惑させた。
また、賢治は十二月には寒修行と称して花巻の夜の街を「南無
妙法蓮華経」と高らかに唱題して歩いた。ある夜、政次郎が関の家に来ていたときに雪道を歩いてくる賢治の「南無
妙法蓮華経」が聞こえてきた。政次郎は「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くしたという(関『同』)。
※ これらは、手帳に記された「南無妙法蓮華経」と「菩薩」のページです。それは、単にメモ書きされたものではありません。それぞれが略式マンダラなのです。
日蓮自身の
曼荼羅も時によって変遷があるように、賢治はその霊的な感性により、
日蓮のマンダラについて、それぞれを知り、その理解と解釈により、独自のマンダラ像を書き記したものなのです。その感性の理解のそれぞれのマンダラのちがいについては、私達には知るよしもありませんが?
ここで、思うのは、「
雨ニモマケズ」の後に続いて、マンダラがあることは、
「雨ニモマケズ」が経文であり、祝詞である と思う次第です!
(しかし、当初からマンダラを追記して発表していたなら、これは、一宗教の文書として、今のようには、一般にも広まることはなかったものと考えられます………。 )
スウェーデンボルグは、「宗教の生命は善をなすことである」と言い、法華経の根本精神とは「利他行の実践」なのです。これが宗教の本質なのではないでしょうか!!