tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

ロマンス詐欺に合わないために(その2)

プーアル茶の真実

 

 ※ チャイナドリーム!プーアル茶で甘い夢を見る人々

    Written By 北城 彰(Akira Hojo)

   お茶のコラム-雑学-歴史-文化より

 

 台湾、香港、東南アジアでは投機対象としてプーアル茶に沢山のお金をつぎ込む人たちがいます。プーアル茶投資がどのような仕組みで行われているのかその実態を説明したいと思います。

アジアでは良くあるプーアル茶投資の話

 日本ではあまり馴染みのない話ですが、東南アジアには投資と称してプーアル茶を買う人が大勢おります。彼らがプーアル茶を買うのはお金を儲けるためで、飲むためではありません。実は本当にお金を儲けているのは、プーアル茶を買い込んでいる投資家ではなく、この手法を運営するお茶屋です。

投機対象のプーアル茶は飛び抜けて低品質のお茶で、投機対象のプーアル茶は、高品質のお茶ではありません。一般的に以下の3条件に合致するようなタイプのお茶が仕入れの対象となります。

茶園産の茶葉 大きな工場製 夏摘み茶

以上の3条件を満たすお茶は、業界では最低の品質で、当然、値段は非常に安く仕入れられます。357gの餅茶で200-500円くらいで売られるのが相場です。

「数年置いておけば必ず値上がりします」と言う、「今は新茶だからこのお茶は300円ですが、あと5年も保管しておけば3倍の値段になりますよ!」

「東南アジアは常夏だから、熟成が速く進み、中国のお茶会社がマレーシアでお茶を買いあさっているんですよ」

という話は良く聞きます。

ちなみに、お茶屋では5年前に仕入れたお茶は、5年後には言ったとおりの値段で売っております。

その販売価格を見ては、お客さんは、「5年前に買っておいて良かった、ホッ!」と思うわけです。

彼らの論理によると、保管期間が長いほど価値が上がり、値段も上がります。

値上がりしたお茶は誰が買い取ってくれるのでしょう?

「5年保管したお茶が3倍になったのは良いけど、誰が買い戻してくれるんだろう?」という疑問が生じます。

お茶屋は、「勿論、うちが責任もって買い取ります!全く心配はいりません」とお客さんに買取を保証しております。お客さんの多くは「本当に買い取ってくれるのかなあ?」と疑心暗鬼になりつつお茶を保管しますが、そのうちの何人かは本当に買取が成立するかどうか試そうとします。

値上がりしたお茶を買い取ることで、お客さんの信用を得る

「5年前におたくから買ったお茶ですが、3倍の値段で買い取ってくれますか?」とお茶屋に買取を迫るお客さんもおります。

その際、お茶屋はどう対応すると思いますか?

買い取ると思いますか、それとも、理由を付けて逃げると思いますか?

答えは、「買い取ります。」

お茶屋は買い取ります。

ただし、買い取ったという事実をその他多くの人に話し伝えます。

当然、お茶を売ることに成功したお客さんは、大喜びです。

元手が3倍になったのです。自分がお金を儲けたことを、多くの友人に話し、また、その人はお茶屋を100%信用し、お茶屋に入り浸り、また、お茶屋に来る人に口々に自分がお金を儲けたこと、このお茶屋が正直な点を話します。

こうして、信用を得たお茶屋は、数十キロ、数百キロ、数トン単位でプーアル茶をお客さんに売るようになります。

買い取ったお茶は別のお客さんに売りさばく

お茶屋としては、妙に高いお茶を買い取ってしまったものの、また他のお客さんにその値段で売り渡せば元では回収できます。

「既に5年経っているお茶ゆえに、希少価値が手伝って更に加速的に上昇しますよ」と言えば、多くの人が興味を示します。正に、不動産・株式市場と同じです。

お茶ではなく、夢に投資をし続ける中華系のビジネスマン

私の知っている人はプーアル茶をコンテナ単位で買っております。

彼は、お茶をテイスティングしません。お茶屋さんが「このお茶は将来値段が上がる」と言えば、それを信用して購入を決断します。

私が知っている人は、アパートを何カ所も借り、そこに大量のプーアル茶を集積しております。

たぶん私の何倍もの量のお茶を在庫しております。ちなみに彼はお茶屋さんではありません。自称「投資家」です。

東南アジアに保管されている多くのお茶はカビに汚染されている

私の知り合いが保管しているというプーアル茶を見せて貰ったところ、表面がカビでびっしりと覆われておりました。「こんな状態のプーアル茶は飲めませんよ!」と言ったところ、大変驚き、その場でお茶屋に電話をかけ相談しておりました。すると、お茶屋は「心配しなくても良いですよ。もしカビが心配なら現在の相場で全部買い取ってあげますよ」と言ったそうです。その瞬間、投資家のおやじは歓喜し、更に、数百キロ買い足しておりました……。

東南アジアで熟成したお茶を中国人が買いに来るというのは迷信

アジアで伝説のように語られている、中国のお茶会社がマレーシアのお茶を大量に買いあさっているというのはただの作り話です。雲南省の乾燥した気候の方が余程お茶の保存には適しております。中国の会社がお茶を買い戻しているというのは、昔、マレーシアに残っていた骨董価値のあるお茶を個人的に買った人がいたという程度の話です。高湿度のマレーシアではお茶は熟成どころか劣化し、終いにはカビだらけになります。

東南アジアにはプーアル茶を投機対象としているお茶屋が多く存在

プーアル茶の投機の仕組みはお茶屋が作りだしたもので、その仕組みはアジアの社会で実に上手く機能しており、ある意味立派な商売です。全容が見えたとき、仕組みの巧みさにとても感心してしまいます。全てのお客さんが売りに走ったら、お茶屋は一瞬で倒産します。でも、常に値段が上がっていることを仄めかすことで、買い行動を誘導していることで、常に買いたいというお客さんがおり、それで商売が成り立っております。プーアル茶に投資する人達にとって、プーアル茶は飲むためではありません。お金が儲かるという夢が見られたらその対象がプーアル茶でも、急須でも、絵画でも何でも良いのです。 」

 以上、プーアル茶は、ワインのようには、投資の対象となるものではないということです!

 

天目茶碗の真実

もともと投資に関わる品目ではありせん!

天目茶碗にはいろいろありますが、天目茶碗を選ぶには、工場区を見て、作る職人、生産技術、有名な職人が作った天目茶碗の方が収蔵価値があります。

アマゾンにも粗悪な天目茶碗がたくさんあり、数千円で購入できます。

日本にも3つある珍宝級天目茶碗、この3つの天目茶碗は国宝級の骨董品です。

ですから、この3つの天目茶碗は値段で計ることはできません。

と詐欺師のメールでは、述べていますが、

 特に日本のお茶の世界では、「 茶道 」があり、特別な茶碗を用います。それらの一つに「天目茶碗」があります。

※ 茶道の茶碗は、産地によって、大きく「唐物(からもの)」(天目茶碗を含む)「高麗物(こうらいもの)」「島物(しまもの)」「和物(わもの)」の4種類に分類でき、普通には、「和物」の、楽焼き、萩焼き、唐津焼きが利用されています。

 

 現在、天目茶碗は、ネットでは、数千円から数万円が販売されています。すべて模造品ですが、秀作であり完成されている綺麗な優れ物です。ですが、このサイトでは、初めから二十数万円で購入し、そしてすぐにも二十八万円となり、四十数万円になったら売りに出すという夢のような嘘の話ですすみます。

詐欺の投資話ですから、くれぐれも引っかからないようにね。 

ロマンス詐欺に(その3の1)

 ロマンス詐欺についての雑学
‌現在も進行形の一つの詐欺グループに「一心同体」というグループがあります。これは、以前の「一期一会」というグループです。 このグループチャット内で購入を希望する人は、日本名でも日本人を装ったアジア系のサクラです。(アジアの貧民層の方達のアルバイトです)
‌最初はたわいもない会話で、誰かが、問題提起をし、翔俊傑さんが回答すると、凄い、流石!みたいな合いの手が入り、そして翔さんを叔父とする、ロマンスの主役である黑澤美穗やヒダカ由美や沙耶さんなどと中国の雲南に飛び、茶碗を購入し、 翔さんへの投資の話へとなるのです。

‌この「一心同体」というグループのオープンチャットには100人位いて、その中でかなりの数を購入していて振込した証明書も添付されたりします。これらは、ほとんどが偽物や偽造されたものです。

【この天目茶碗やプーアル茶の茶葉の競売なども同じパターンで詐欺グループのものです】

※ そして、今もこのような流れが、繰り返し行われています。現在も、また始まっていました。

‌※ このロマンスの主役たちは、SNS(FB)で知り合います。そして、LINEでのメールのやり取りで、ほぼ毎日、寝る頃にも、子守り歌代わりの挨拶をしてきます。メールやボイスメッセージ(歌手のテレサ・テンのような発音の声です)や、また、そこには動画もあり、笑顔あふれるメッセージや、歌やハーモニカ演奏もあります。それは、大人でも子供の頃のような子守り歌として、感じられて、それが毎日、繰り返し行われます。そして、いつの間にか、ロマンスへの夢が誕生して行くのです。

そして、そのあと、投資話へと話が進んでいきます。

 これらは、どれもこれも似ていますから、ロマンス詐欺のマニュアル通りのようです。

詐欺ですから、出資して、お金を振り込んだ場合、ほぼ100%戻ってきません。銀行に話しても、振込先の口座には残高がだいたい1万円もなく、弁護士等に相談しても、相談料も費用が高く返って来ません。警察でも捕まえても、お金が戻ってくる可能性は0と言います


‌※ そして、この場合の振込先の銀行は、本物の一流銀行ですが、全て個人名になっています。これらの個人名の名義人は、実在しなければいけませんから、これは詐欺グループから、バイトで利用された(生活保護者など)ある一面、被害者でもあるのです。

‌振り込まれた口座から、グループは、ビットコインなどに変換するため、その後の金の流れがつきとめられなくなります。 

 簡単にお金が稼げる方法はないのですからね。

 騙されないように!!。

 

賢治の「春と修羅」

 賢治により生前出版されているのは、2冊だけです。『注文の多い料理店』の童話と。そして、この詩集とされている『春と修羅』なのです。 賢治自身の表現では、詩集ではなく、心象スケッチとして書いているといいます。

    法相宗大本山  興福寺の阿修羅像 

3つの顔はそれぞれ微妙に異なる表情をしており、戦いの神である阿修羅が、仏教に帰依して、悟りを開いていく様子を表していると言われています。また、上に差し上げられた腕はアスラのさらに原形である古代ゾロアスター教アフラ・マズダ(宇宙の創造と運行をおこなう生命と光の神)の性格を示し、もともとは月と太陽を持っていたと考えられています。

真ん中の腕は戦闘的だった頃の性格を表すもので、弓と矢を持っていたのではないかという説が有力。合掌する腕は仏教に帰依して守護神となった阿修羅です。 ※「春」とは長い冬に耐えた生命が一斉に芽吹き花開く明るい光に満ちた季節。 一方、「修羅」とは、仏教で死者が生まれ変わるとされる六道のうち、いさかいや争いに明け暮れる不穏な「阿修羅道」の世界。 一見、相反する概念を、賢治はなぜ並べているのか。 そこには、賢治のどのような人生の葛藤が秘められているのでしょう。 

 

  永 訣 の 朝

きょうのうちに

とほくへいつてしまふ 

わたくしのいもうとよ

みぞれがふつて おもてはへんにあかるいのだ  

  (あめゆじゆとてちてけんじや)

     (※ あめゆきをとってきてください)

うすあかく いつそう陰惨(いんざん)な雲から 

みぞれは びちよびちよふつてくる   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた 

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ  沈んでくる

ああとし子 

死ぬといふ いまごろになつて 

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを 

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたう わたくしのけなげないもうとよ 

わたくしもまつすぐにすすんでいくから   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱や あへぎのあひだから 

おまへはわたくしにたのんだのだ 

銀河や太陽 気圏などとよばれた せかいのそらから 

おちた雪のさいごのひとわんを……

ふたきれのみかげせきざいに

みぞれはさびしくたまつてゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち 

雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた  

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの 

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよに そだつてきたあひだ

みなれたちやわんの この藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

(Ora orade Shitori egumo)

     (※ あたしはあたしでひとりいきます)

ほんたうにけふ おまへはわかれてしまふ

ああ  あのとざされた病室の 

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく 燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも 

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ   

(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)

 (※ またひとにうまれてくるときは こんなにじぶんのことばかりで くるしまないようにうまれてきます)

おまへがたべる このふたわんのゆきに 

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食(じき)に変わって

やがてはおまえとみんなとに

聖い資糧(かて)をもたらすやうに

わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ 

            (宮沢家版) 

  宮沢賢治の手紙 

 前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

     1925年(大正14年)2月9日 森佐一(作家 森荘已池の本名)あて封書 

 

 賢治は、トシが末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。

 ※ この“ 南無妙法蓮華経 ” を大きな声で唱えるは、「青森挽歌」で「万象同帰そのいみじい生物の名」として表現されています。

 

 そして、賢治は押し入れに首をつっこんで、トシ子、トシ子と泣いた。そして、トシが亡くなった日に「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書いた。  

 

※ 五十年前は今よりずっと寒くても、ストーブ、はどこにもありませんでした。病気で体が弱ると蒲団が重くて、病人も看護する人も苦しみました。滋養食の知識なんて、なんと貧弱だったでしょう。 結核の療法はほとんどなかったようなものです。衣、食、住、比べてみれば、今は何と恵まれている事でしょう。ほんとに豊富になっていますね。それでもまた別の苦しい事、ひどい事がふえて、限りがありません。人の世とはそういう事なのでしょうか。

 大正11年の11月27日、花巻はみぞれでした。急いで病室を出て、賢さんについて、私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、そこに並べてあるみかげの土台石にのって緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶碗に受けて、そして松の小枝も折って、病室に入りました。 ほんとうにあの病室は何と貧弱だったでしょう。………

……空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、お茶碗の雪を少しづつさじですくって食べさせてあげましたっけ。いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などみて行かれました。父がお医者様とお話して来られたのか、静かにかやの中に入つてから脈を調べながら泣きたいのをこらえた顔で、「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんな苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。としさんは少しほほえんで、「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎつちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんはなくなったのです。その後は夢のようで、いつ夜になったのかどこで眠ったのか、夜中、賢治兄さんのお経の声を聞いていたようでした。夜明けに、袴をはいたとしさんが、広い野原で一人、花をつんでいるのがあんまり淋しそうで、たまらなく、高い声で泣いて目を覚ましましたら、賢さんがとんできて、 「何して泣いた?としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたので、また悲しくなって、「それだって、一人で黄色な花っことるべかなって言ったっけも」とまた泣きました。 

                 (『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』蒼丘出版) より

 

 ※ <宮沢賢治の体験談>

今日は君たちに幽霊の話をしよう。実は昨夜、死んだとし子が俺を訪ねてきたんだ。しばらく蚊帳の中で話をし、「迷いごとがあったらいつでも訪ねて来い」と言って、仏壇の前に連れて行き、法華経を唱えてやった。そして玄関を開け、支えるようにして帰してやったんだが、すぐそばに寝ていた父にも母にも、おれの姿しか見えなかったらしい。

 賢治がそう話すと、教室中がシーンとなり、みなつばをのんだと、教え子の松田浩一が語っています。

成仏できないで行く先を迷っている死者の霊が、幽霊になって現れるのですから、この話は賢治が「妹トシの霊が成仏できずにいる」と、思っていたということを示します。だからこそ賢治は霊界のトシからの通信をもとめて、かつて二人で語り合った霊界に似て、空も海も青く風も冷たく澄みきったサハリンへの一人旅に出たのでしょう。

※ 次の年の7月に、表面上は花巻農学校の教え子の就職の件で、樺太の豊原の王子製紙工場に盛岡高等農林学校時代の一年先輩を訪ねる旅でしたが、それは何よりも「トシとの交信を求める傷心旅行」だったのです。樺太の豊原に着いて、王子製紙の先輩を訪ねて、教え子の就職を依頼しています。その後に「オホーツク挽歌」へとなります。

亡くなったとし子が天国に行ったか、幽界でさまよっているのかを確かめると思ったようです。賢治は近隣の人が亡くなるとその状況や行き先がどうであるかなどわかっていたようですが、妹の死はあまりに悲しすぎて心の迷いが起こり行く先が皆目見えなかったようです。宮澤家では賢治の霊能力を世間に公言することはタブーとされていました。

  ※ 引用「素顔の宮沢賢治」 板谷栄城 著  平凡社刊 より

 そして、賢治はこのような結論に至ります。 

 どんなにトシのことで思い悩むのを止めようと思ってもその試みは脆く崩れ、トシに関する苦悩へと引き戻されます。そしてトシは、「どこへ堕ちようともう無上道に属してゐる」と語ります。つまり例え地獄界に堕ちようとも、トシなら、「勇んでとびこんで行く」と、賢治は、自分自身の心に言い聞かせています。最後に、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、トシ一人の為に祈るのではなく、全ての人たちの為に祈っていたと語ります。これは、『銀河鉄道の夜』の中のジョバンニの言葉、「みんなのほんとうのいわいをさがしに行く」にも通じる、宮沢賢治にとって理想の人物像、つまりは賢治自身の決意表明なのでした。

 

 

 ※  映画「シン・ゴジラ」冒頭シーン

………船の名は「GLORY MARU」。揃えて置かれた靴が残されており、テーブルの上には折鶴と詩集『春と修羅』が置かれている。船内の様子を映した数秒後、撮影している職員の悲鳴と衝撃とともに映像は途切れる――。……ゴジラ出現

  

 

 

岩手のトルストイ

 斎藤宗次郎は1877年岩手県花巻市に生まれた。小学校教諭をしていたが、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響を受け、クリスチャンとなりました。
 この頃の時代は、クリスチャンは世の人には歓迎されず、迫害されていました。生徒に聖書や内村鑑三の日露非戦論を教えたため、辞めざるを得なくなります。
 また、家に石を投げられたり、人から、うとまれたりしていました。

 そして、長女・愛子さんが、天長節祝賀式の式場で、「ヤソ教徒の娘だ」と男子生徒の肘で強く腹部を打たれ、これが原因で腹膜炎となります。 また、その後にも 隣家のろうそく工場より失火。そのおり、消防夫(養母の情夫が子分の消防夫に故意にやらせたもの。) により家を壊されたりしています。

 そして、その後愛子さんの腹膜炎が悪化し、九歳で亡くなりました。その亡くなる時、愛子さんは、父に、「賛美歌を歌ってほしい………」と言い、宗次郎は、泣きながら賛美歌を歌ったといいます。        

 さらに、賃貸中の水車小屋が賃借人の放火により全焼したり、養母・スミが斉藤の印鑑を盗用して作った多額の借金を整理するため、家屋敷・書店を処分するなどありました。              

 しかし、彼はこのような迫害にも関わらず、この村から離れようとはせず、この土地の人々のために尽くすことを選んだのでした。

 それから20年間、宗次郎は新聞配達をして清貧の暮らしを送りました。新聞配達を天職と感じ東京朝日や万(よるず)新報など十数種類、20キロ以上の新聞が入った大風呂敷を背負い、駆け足で配達したといいます。

 そして、くじけることなく神に祈り続け、子供に会ったらアメ玉をやり、新聞配達の仕事の合間には病人を見舞い、悩みや相談を聞き、人を励まし、祈り続けました。
 そうした斎藤の生き方を通して、まわりの人達からのキリスト教への偏見も、次第に尊敬へと変わっていきました。町の人たちはやがて「斎藤先生」と言って敬意をもってあいさつしてくれるようになり、ついに、町中の人達から尊敬されるようになったのです。
 後には「名物買うなら花巻おこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになったといいます。
 そのため、内村鑑三のもとで伝道者となるために上京する時には、駅に200人以上の人達が見送りに来ていました。宗次郎は、晩年、多くの弟子に裏切られた内村鑑三に終生つくして、その最後を看取っています。
内村鑑三全集』全二〇巻の編集にも尽力した人としても知られています。  
 宮澤賢次は日蓮宗の信者でしたが、宗派を超えた交流がありました。
 斎藤宗二郎が集金に行った時、招き入れられ一緒にレコードを聴いたりした話が宗次郎の日記にかかれています。そして、「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗二郎の姿を重ねる人も多くいます。宮沢賢治よりも19才上でした。
 宮沢賢治の父、政次郎が宗次郎とじっこんの間柄でした。賢治も、宗次郎のことを尊敬していましたし、彼から内村鑑三の話を聞き、『聖書之研究』など内村鑑三の著作もたくさん読んでいます。若い頃の賢治はよく教会にも行っていたと弟の清六はいいます。賢治の叔母二人も、宗次郎に導かれてか、内村鑑三の門下になっています。賢治はキリスト教との関わりにも深いものがあったのです。
 斎藤宗次郎さんはひとすじに、まっすぐに生きた方で、周囲と摩擦が生じることがあっても、自分の信念を曲げなかったが、と同時に、ただ自分の信念を相手に押し付けるということはしなかった方であったということです。宗次郎さんが周囲と摩擦を引き起こしつつ、最後は丸く収まることが多かったのは宗次郎さんに相手を思いやる心があったからだと児玉実英先生(同志社大学名誉教授で斎藤宗次郎さんのお孫さんの連れ合い) は述べておられました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)豊かな心を持ってらっしゃったのではないでしょうか。
 宗次郎の日記には、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、話をしている場面が描かれています。宗次郎は、その農学校へ新聞配達をしていて集金に行くのです。そしたら「宮沢賢治先生がいた」と書いています。実際は宗次郎の方が年上なんですが、賢治のことを「先生」と書いています。宮沢賢治先生がいて、中に入ってお話をさせてもらったと。そこで賢治と何を話したかというと、宗教の話などではなくて、二人で音楽を聴いたりしているのです。宗次郎は、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と日記に書いています。さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しています。そういう関係でした。
 宗次郎は、僕は宮沢賢治と宗教の事で話をした事はないと後に回想しています。でも、この二人は静かに交わっていたんですね。宮沢賢治はつねに熱烈な仏教徒であったのですが、斎藤宗次郎と交わる中で、次第に自分の宗教だけを主張してゆくだけではいけないと感じていったからでしょう。
 斎藤宗次郎と賢治の意外な接点を見てきた人の中には、「デクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイウモノニ、ワタシバ、ナリタイ」という雨ニモ負ケズのモデルは、実はこの斎藤宗次郎ではなかったかという人も出てきています。宗次郎がモデルと決めてしまうのはよくないのですが、キリスト者として花巻を歩いている、その姿を見ながら、こういう信仰者の生き方もあるのだということを賢治は肌で感じていたのだろうと思います。
 また、その心は賢治の『永訣の朝』を読んだ日の日記にも表れています。最愛の妹トシを失った賢治の悲しみを、まさに我が悲しみのようにして思いやっていたことが日記から汲み取ることができます。それはまた、宗次郎さん自身がその人生の歩みにおいて、様々な痛み、深い悲しみを経験されてきたからこそ、他者の痛みを我が痛みのように思いやることができていたということもあったのではないかと思います。
 内村鑑三氏の最期の日のエピソードです。宗次郎さんはずっと師のそばに寄り添いつつ、時間ごとに呼吸の数まで数え、記録していたそうです。そのエピソードを聞いて、私は宗次郎さんの内村先生に対するすさまじいまでの、燃えるような愛を感じました。
  また、かつて斎藤宗次郎はお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに宗次郎が回想しています。そんな二人は、お互いの信仰のことでは話をしなかったというのですが、でも宗次郎は「共に、それぞれに与えられた信仰を堅く守り、互いに信仰を生活し居ることを理解し、その人格に深き尊敬を払った」と後に書いています。自分の信仰する宗教、それだけを主張する生き方というのは本当は良くなくて、別の宗教で生きている人の姿と共鳴しながら生きていくのが大事なのではないか、ということを、おそらく二人とも考えていたのだと思います。その「思い」が最も反映されていたのがあの『銀河鉄道の夜』だったのです。そこでは、二つの宗教が対立しないように注意深く配慮がなされていたのですから。  
 今、私が斎藤宗次郎の日記を見ながら思った事は、時代はみたび、宗教対立の時代に入ってきているなあという感想です。とくに、イスラム教とキリスト教との激しい対立には、今までにない憎悪が生まれてきているのを感じます。そんな、悲劇的な対立があるのですが、
 でも、かつて宮沢賢治と斎藤宗次郎が出会い、宗教論争を交わすこともなく、共鳴し合うようにして互いの信仰を認め合った、そういう信仰のあり方があったということを、今の時代に見直してもいいのではないかなと思いました。
 ※ 参考 岩手県花巻市仲町5-4 
  日本キリスト教団 花巻教会 
      説教 鈴木道也牧師 より
 
※ 斎藤宗次郎と宮沢賢治との出会い 
 斎藤宗次郎というキリスト者岩手県の生まれで、宮沢賢治より18才年上の人です。彼は内村鑑三の愛弟子として有名な方でした。内村鑑三は教会に属さないで、戦争反対、非戦を唱えていく独特なキリスト者でしたので、それに共感した人達もたくさんいたのですが、あまりにも強烈な非戦者、戦わないという人でしたから、お弟子さんたちは一人去り、二人去りしてゆき、その中でも最後まで彼についていった人が、この斎藤宗次郎という人だったといわれています。 この熱烈なキリスト者・斎藤宗次郎と、熱烈な仏教徒宮沢賢治とが、共に東北・岩手県の同時代に生まれていたんですね。そして、そんな個性的な二人が現実に出会っていたというのですから、驚かないわけにはゆきません。 最初の出会いはどういうものであったのか、確かなことは分からないのですが、高等農林学校時代、友人を誘って週1回タッピング牧師の教会に通っていたという証言もあり、学生時代には友人たちのそれぞれの関心が共鳴し合い、キリスト教への関心に、つながっていたのだと思われます。ただ、賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれていますから、ずいぶん早くから、賢治は宗次郎のことを知っていたことはうかがわれます。 こんど出版された斎藤宗次郎の日記『二荊自叙伝』を見て、賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せているところが日記に書かれていて、それにはびっくりしました。『春と修羅』は、妹トシが亡くなったことがきっかけで書かれているのですが、そのゲラを、宗次郎が読んで、深く感動した感想を書いているんですね。妹のトシさんは、東京の日本女子大学家政学部、本校で言う生活科学部に入学しているのです。大正10年頃ですから、そんな時代に花巻から娘さんを東京の大学に行かせたお父さんはすごいですね。この日本女子大学創立者成瀬仁蔵キリスト者ですから、仏教を熱心に信仰する家からのキリスト教的な学校への入学は、父親の英断だったんだなと思います。でもトシは、東京で結核に倒れてしまい、賢治が駆けつけて彼女を看病しています。その後、トシは花巻で亡くなるのですが、その頃には賢治と宗次郎は、親しい間柄になっていて、詩集のゲラを見せる間柄になっていたというわけです。
 

※ 斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』より、『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せている箇所より………!
 青年は不図思い付いた様に、卓上の原稿の半ば頃を開いて予の膝に托す。軽き一言はこれであった。『これは私の妹の死んだ日を詠んだもの』、アゝ死の日を詠んだものか!予は心臓の奥の轟きを覚えた。何を休めても見ましょうと手に執れば、あの頃の彼女を想像せる姿。… 癒えんものなら癒ゆる様にと酸素を吸入する面影、そして作者の妹を愛しむ優しき心、霙降る朝であったと詠み始むる前に、予の心には色々の光景は浮び出でゝ」……
……青年の掻き集めし一椀の雪、これが兄妹の手と手の間を伝うて、切なる愛情の交換ともなった、清冽舌に触るゝ一刹那、兄さんの胸より溢るゝ愛の記念よ、内なる声は無声の詩ともなった。…此雪よ妹が天に帰り行かば其処にて、美味なるアイスクリームとなれよとも祈った。黙読反復

若き兄妹の永訣の朝の真情濃かなる場面に、我と我身を投じて堪えられぬ感に入った、青年は側より〝善し悪しは別です只其通りです〟と語った。予には発すべき言葉は無かった。茲に対話は一段落を告げた、二人は更に農村の疲弊と宗教家の軋轢と教育の不振に思いのまゝの批判を投げた、それでも我等には行くべき道があるとて悲憤より脱し、屈託より踊り出で素朴正信の態度を持して、老青年の奮励を促した………。

 

 ※ 「銀河鉄道の夜」より
 銀河鉄道」を走る列車は、死者ばかりが乗る列車なのですが、その列車に、タイタニック号の沈没で死んだ姉弟と、その家庭教師の青年が乗り込んで来ます。主人公のジョバンニは、彼らと親しく話をしていくわけですけども、だんだん時間が経つにつれて、姉弟らは列車から降りなければならない時間がやってきます。その時、ジョバンニは別れが寂しくて、女の子達にもう少し乗っていたらどうか、と言う場面があります。でも、十字架が見えてきて、賛美歌(「主よ、みもとに」)の音楽が流れてきます。その時に、ジョバンニが女の子達にもうちょっとここに居てくれと言うわけですけれども、女の子は、実はあそこにお母さんがいる(女の子達のお母さんが亡くなっているわけです)んだ、そこへ行かなくちゃいけないと神様もおっしゃっているんだ、とジョバンニに言うのです。その時にジョバンニは、そんな神様は嘘の神様だい、というふうに言います。すると、女の子は、嘘の神様じゃない、あなたのいう神様の方が嘘の神様だわ、と言い返します。列車でのそういうやりとりを聞いていた家庭教師の青年が、ジョバンニに向かって、あなたの言う「本当の神様」というのは何なのですかと尋ねることになります。その時にジョバンニは考えて、「よく分からないのです」と答えてしまうシーンが描かれます。 実は「銀河鉄道の夜」というのは、何度も書き直されているのです。始めの頃は、仏教の教えを広める使命を感じて、その手段として童話を書き始めているのですが、作品を書き改めてゆく中で、しだいに仏教の色を薄めるようになってゆきます。そして他の宗教を否定することもしないようになってゆきます。そのきっかけになったのが、実は斎藤宗次郎というキリスト者との出会いであったことが、今回の資料で具体的にわかってきたことがあるのです。先ほどの「銀河鉄道の夜」の少女とのやりとりでも、結局は自分の信仰する神様を「本当の神様」と押しつける発言を慎んでしまって「よく分からないのです」というふうに、主人公に言わせているのも、この斎藤宗次郎との出会いがあったからなんですね。
 ※ 「出会い」と「銀河鉄道の夜の引用
  村瀬 学  ブログ「じゃのめ見聞録」より
 
しかし、スウェーデンボルグキリスト教法華経の精神とには、矛盾はないのです。今後解説していきます。

賢治の「雨ニモマケズ」の世界

 この写真は、クラシック好きの宮沢賢治が、新しいカメラを買った友人にベートーヴェンの真似をして撮ってもらった写真です宮沢賢治は、ベートーヴェンの「運命」や「田園」が好きでした。

 

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』は、もともとはカタカナと漢字で記載されていますが、ひらがなと漢字で紹介します。
 
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫な体を持ち
欲はなく
決していからず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きしわかり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さなかやぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば  (※ 行って)
つまらないからやめろと言い
日取りのときは涙を流し(※日照り)
寒さの夏はオロオロ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう者に
私はなりたい
     南無無辺行菩薩
    南無上行菩薩
   南無多宝如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
   南無釈迦牟尼仏
    南無浄行菩薩
     南無安立行菩薩

 

 ※ 「私はなりたい」の後の複数の菩薩の名前は、日蓮の文字曼荼羅によります。賢治はこの「雨ニモマケズ」を書き止めた頃は病気のため入院していたときでしたので、その病床で国柱会から授与された曼荼羅の前に座って拝礼できない時に、その代わりに手帳に書き写された手帳で拝礼し、この「雨ニモマケズ」の全編をとおして、自身の祈りの祝詞としていたのでしょう。

 

 ※ 行って  この「行って」は、前のページの最後の左上に赤文字で記されています。(東西南北にそれぞれに「行って」は、法華経にとっても、実践するという意味あいでも必要な言葉なのです!)

 

 ※ 宮澤清六氏の孫である宮澤和樹さんは、東日本大震災以降、全国各地で「〔雨ニモマケズ〕」について講演をされていますが、その際によく取り上げて話をされるのが、この「行ッテ」に込められた意味です。和樹さんは、たとえば次のように語られます。
 祖父は私に「この作品は後半が大事なんだ」と教えてくれました。「東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ...」と東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事だと言うのです。活字になると「行ッテ」は三ヶ所ですが原文だと四ヶ所書かれています。「北ニケンクワヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ」には「行ッテ」が入っていません。ところが原文の手帳を見ると「北ニ...」の前のページに赤鉛筆で「行ッテ」が書かれているのです。おそらく祖父は四ヶ所目に「行ッテ」を入れるのを前ページに書かれていたために躊躇したのではないかと思うのです。この事とは別にしても、「行ッテ」が何故大事なのかというと、賢治にとって、法華経をこの世で実践することがなにより大事であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからです。行動こそ「行ッテ」なのだと思います。宮沢賢治記念館における宮沢賢治生誕120年記念「雨ニモマケズ」展パンフレットより)

 

 ※ 「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」が原文であり、「ヒデリ」の書き間違いなどではなく「ヒドリ=日取り=日雇い労働」のことだと思われます。農家が不作によって、日雇い労働をしなければならない状況を見て涙を流すということで、農業指導が本業であった賢治にはぴったりの情景だと思われます。

 これは、原本のレプリカの手帳で左上に赤字で「行ッテ」とあります。
【原文のまま】として、「ヒドリ」としています。(花巻市南城中学校50周年記念に2003年に建てられた詩碑)
 

岩手県花巻市の「羅須地人協会」跡地に立つ詩碑。碑文は高村光太郎の揮毫による。

(一部に脱漏があったので、昭和19年に追刻)。碑の地下には、法華経の経文、文圃堂版の宮澤賢治全集、詩碑建立の由来を記した文書とともに、賢治の遺骨の一部も収められおり、賢治ファンにとっては聖地のような場所になっています。300程ある宮澤賢治の詩碑のなかでも、「賢治詩碑」というと、この「羅須地人協会」跡の雨ニモマケズ詩碑を指します。

  手帳に記された、「雨ニモマケズ」末尾「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」につづいて「南無妙法蓮華経」の題目と釈迦・多宝の二仏、上行菩薩地涌の四大菩薩の名 ( 地涌の四菩薩の名前は、「上菩薩=卓越した善をなす者」、「無辺菩薩=際限なき善をなす者」、「浄菩薩=清らかな善をなす者」、「安立菩薩=よく確立された善をなす者」となっています。全てに「」の字が入っているところに、「動」を尊ぶ『法華経』の精神が表れています ) が書かれている。これは日蓮曼荼羅本尊のなかで「二尊四士」の形式である。

 左に見える鉛筆差しに押し込まれた紙片には、「 塵点劫 」の短歌が書き込まれていた。

この「雨ニモマケズ手帳」の他の個所にも、「南無妙法蓮華経( ※ 追記としてコメントあり) の題目、道場観の経文( ※ 筆ヲトルヤマヅ道場観、奉請ヲ行ヒ所縁仏意ニ契フヲ念ジ、然ル後ニ全力是ニ従フベシ。断ジテ 教化ノ考タルベカラズ!タダ純真ニ法楽スベシ。タノム所オノレガ小才ニ非レ。タダ諸仏菩薩ノ冥助ニヨレ )、「二尊四士」( ※ 追記としてコメントあり) の名が多く書き付けられている。(写真の上二枚の手帳は林風舎の復刻版より)

※ 「塵点劫」

 塵点(じんでん)の劫(こう)をし 

 過ぎていましこの        

 妙(たえ)のみ法(のり)に 

 あひまつりしを

 ◎ 塵点劫 [じんでんこう] という途方もない長い長い時を経て法華経に出遇うことができたという無上の喜びを歌いあげています。

※ 国柱会所定の妙行正軌によって御修行をするその順序が、まず『道場観』で、次に『奉請』を唱えて本仏の来臨を念じ奉るのです。ですから、宮沢賢治にとっては、創作に従事するのは、妙法曼荼羅に対し奉り御修行するのと同じ心地に住して筆をとるということになるのでしょう。

 国柱会より授与される日蓮曼荼羅は、ほとんどの日蓮曼荼羅とは、大きく異なる特色があります。上部に、左右振り分けの形で「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」(法華経薬王菩薩本事品出)※ と書き込まれています。「もし人が病あって、この経を聞くことを得れば」「病はただちに消滅し不老不死ならん」
 ※ 「銀河鉄道の夜」の銀河の天空を走る列車のモデルは、岩手軽便鉄道の原風景なのですが、賢治の「心象スケッチ」した原影は、
(賢治が所有する国柱会のご本尊では、中央の題目、その他の諸仏諸尊の名もみな縦書きで並んでいる中に、この文字列だけが横並びで目立っている。また、病弱な賢治自身にとって、この経文の内容それ自体が気にかかる存在であって……) 
当時の岩手軽便鉄道の写真区間を往復運行するために、機関車はバック運転している)
 この、ご本尊の文字マンダラが表示する「一念三千」の世界の大宇宙を、この経文の文字列が、疾駆する銀河鉄道の列車のイメージとして連想されたのではないか………つ 
 
 日蓮曼荼羅の経文について 

 ※ 一例として、創価学会の御本尊の場合は、御本尊の一段目の左右に功徳と罰の2つの経文が書かれています。
「有供養者福過十号」「若悩乱者頭破七分」です。
正法を護り供養する者には「福十号に過ぎる」であり、正法に有害な働きをするならば「頭を七つに破る」、罰が出るとの意味です。これは、妙楽大師の『法華文句記』に説かれた文によります。これと同じ経文は、日蓮宗村松海長寺の御本尊(文字マンダラの基準モデル)にもあります。

    日蓮宗村松海長寺の御本尊

(本尊上の経文・要文は、法華経やその註釈書類からの抜粋であり、全十九種が数えられています。)

※ 現在、日蓮の真蹟本尊は、130幅ありますが、そのうち上部に経文・要文があるのが、4、5点あります。また、諸仏諸尊の配置にも、左右の入替えがされていたり、菩薩の名前がなかったりと違いがあります。  
 日蓮聖人の教示にみられる本尊の形態には、首題本尊、釈迦一尊、大曼荼羅、一尊四士、一塔両尊四士など5種程あります。

 (引用 「宮沢賢治と文字マンダラの世界」 桐谷征一 コールサック社より) 

 

 宮沢賢治は、1896年(明治29年)に岩手県稗貫郡花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に生まれ、1933年(昭和8年)に37歳の若さで結核の肺の病により亡くなりました。質古着商の長男として生まれた宮沢賢治は、浄土真宗の信仰の中で育ちましたが、中学卒業後に法華経(日蓮宗)の熱心な信者となります。詩人や童話作家、教師、科学者、農業研究家、宗教家など複数の顔を持っていました。
 宮沢賢治は現在では、信仰に基づく壮大な宇宙観、農業や自然に対する思い、人間愛などから成る独自の作風が、多くの人に評価されています。しかし実は、生前に発行された著書は2冊だけ( 大正13年[1924]に詩集『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』) を刊行しただけです。

それで、当時は作品が認められることはほとんどありませんでした。

 『雨ニモマケズ』は、宮沢賢治の死後に発見された詩です。1931年(昭和6年)の11月の手帳にあったこの詩は、病床に伏し、自らの死を覚悟した宮沢賢治が記したものでした。 
 『雨ニモマケズ』で語られる人物は、自分を律し真面目で、他人に対し優しい気持ちを持つだけでなく、実際に行動できて、時に挫折しそうになりながらも、前を向いて歩いて行く人です。  
 「そういう者に私はなりたい」というフレーズには、「本当の幸せとは何か」を考え続けた宮沢賢治の、生涯の願いが込められているのです。

 

 ※ 止まれ、これに詠われた人物には、モデルがいました。内村鑑三の第一弟子の斎藤宗次郎という人です。

次回以降に書き込みします。 

 

 

 国 柱 会 館

 ( 昭和43年1月まで上野桜木町1番地に所在 )
※ 国柱会(こくちゅうかい 國柱會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる。戦前の右翼に大きな影響を与えた

  国柱会の高知尾智耀(田中智学の高弟)の賢治への「法華文学ノ奨メ」についての話

 雨ニモマケズ手帳には、「 高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作 名ヲアラハサズ 報ヲウケズ  貢高ノ心ヲ離レ 」と記されています。
 これを高知尾は、「農家は鋤鍬をもって、商人はソロバンをもって各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修業のあり方である。詩歌文学を得意とするならば、その詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようにしなければならぬ」と話されたのです。

 

 日蓮曼荼羅について

 御本尊の中央には「南無妙法蓮華経 日蓮」と大書され、その周囲に仏や菩薩、種々の境涯を示す衆生が並んでいます。 

【南無妙法蓮華経とは、南無=帰依する、妙法蓮華経=法華経のことであり、我は、法華経に帰依するを表します。

 このことは、すべての衆生が仏の智慧と慈悲の光に照らされて、生命本来のありのままの尊い姿になるとの意義をも表しています。 

 

 ※ 二十四文字の法華経(にじゅうよんもじのほけきょう)

 法華経常不軽菩薩品第20で、不軽菩薩が一切衆生に仏性があるとして人々を礼拝して説いた経文のこと。「我深敬汝等、不敢軽慢、所以者何、汝等皆行菩薩道、当得作仏

(我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり)(法華経)と、漢字の字数が24あり、万人成仏という法華経の教理が略説されていることから、「二十四文字の法華経」という。

 

 ※「唱題行」は、お題目を繰り返しお唱えすることで、「からだ」と「こころ」を調和させて、時間・空間を超えてお釈迦さまと一体となることのできる、日蓮宗の伝統的な修行法です。 《ヨガの瞑想の行動的・積極的瞑想とも言えます!》

 

 ※「知者は読調に観念をも並ぶべし。愚者は題目ばかりを唱うとも此の理に会すべし」 (天台大師) 

 

 ※ 題目専唱を瞑想の視点から見た場合

 お題目を唱えるという行為に注目すると、これは、一つの行為に専心していることになり、これは瞑想の基本的な要素である「心一境性」を確保していることであり、すなわち心を一つの対象に結びつける訓練になっているのです。お題目を唱えることに心を集中させていることであり、これは、瞑想の「止」のための訓練なのです。私達は日常的に止の訓練をすることは容易ではありませんが、お題目を唱えることが簡単な止の訓練になっているのです。
 

 

  以下、[まんだら絵解図鑑10] 

    絵 小島サエキチ  文 大角 修                      葉社刊より

  

 

 

 

 

 宮沢賢治法華経 最期の生き方

 ※ 晩年、衰弱した身体で「もう大循環の風の中に溶け込んでしまいたい」と明るい顔でつぶやいていました。

 ※ 宮沢賢治最後の日々

 臨終前後、9月17日から21日まで

昭和8年)9月17日から三日間は鳥谷ヶ先神社の祭典であった。この年は岩手県は空前の大豊作で米の収量が百三十二万石とも 言われた。前年も次の昭和9年も冷害による凶作であったから、なぜか天地も賢治の死を悼むかのようであった。

花巻は周辺の農村を相手にする商人の町であるから、農民が豊かになれば町も賑わうのである。近隣の農村の老若男女は、 久しぶりの豊作に喜んで町に出て来て、大いに賑わいをみせた。

9月17日(祭典第一日)

神輿が神社を出て町を練り歩いた。山車も町内から賑やかに繰り出した。賢治は裏二階の病室から店頭に降りてきて、 終日祭礼を楽しんだ。また門口にも足を運び、農民たちの喜びを肌で感じたようだった。

9月18日(祭典第二日)

この日も、門の所まで出たり、店先に坐ったりして、収穫を喜ぶ人出や、鹿踊りを見たりして楽しんだ。

9月19日(祭典最終日)

この日の夜は神輿が神社に還御することになっていた。賢治はそれを拝むために門の所に出て待っていた。東北地方では 九月も半ばを過ぎると夜は冷気が迫ってくるので、寒さと疲れで、病状が悪化することを心配した母イチは「賢サン。夜露 がひどいんちゃ、入って休んでいる方がいいだんすちゃ」と賢治に言ったが賢治は「大丈夫だんすじゃー」と答え、夜八時 頃に練ってきた神輿を拝んで二階の病室に戻って床についた。

この日、日中の気分の良いときに、半紙に毛筆で二首の短歌を書いた。賢治の絶筆とされている。文学的には盛岡中学校 時代に短歌で出発し、絶筆が短歌というのも奇しき因縁である。

方十里 稗貫(ひえぬき)のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる

(歌意)稗貫郡の十里四方に稲が登熟し、昨年の冷害に比べて、大豊作となった。それを寿ぐように、 祭典の三日間は晴れ渡った。

と、賢治が農民のために半生を捧げたのが報われたという喜びが伝わってくる。(稗貫は、音読みで彼岸に通じる)

病(いたつき)の  ゆゑにくもらん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし

(歌意)今病気で失う命であるが稲の稔りの役に立つならば、嬉しいことだ。

「みのり」は「稔」と「御法」にかかる言葉で、一方では仏教の教え、ここでは法華経のために生命を棄てることも 喜んでいる。最後まで法華経の行者としての賢治の姿をうかがうことができる。

9月20日

病床にあった賢治が祭典中に三日間も店先や門の所に出ていたのを見て、賢治の病状が大分回復したと考えた農夫が、 宮沢家を訪れて、起きてきた賢治に、営農の相談をした。それを見て母イチは安心して外出したが、賢治は急に容態が変わり 呼吸が苦しくなったので呼び返され、花巻病院から医師がかけつけた。「急性肺炎」という診断であった。

政次郎も最悪の場合を考え、賢治に死の心構えをさせようと親鸞日蓮の往生観を語りあった。

夜七時頃農夫が賢治を訪ねて肥料のことで相談に来た。賢治の容態が切迫していることを知らない店の人が、賢治に伝えた。 賢治は家人が止めるのも聞かず、衣服を改めて玄関の板の間に正座し、まわりくどい話をていねいに聞いた。一時間ほどして やっと帰った。家人は止めることもできず、いらいらしていた。賢治を二階に抱えあげた。その夜は心配した弟清六が傍らに寝た。 賢治は「今夜は電燈が暗いなあ」と呟いた。もう視力が衰えていたのであろう。また「おれの原稿はみんなおまえにやるから、 もしどこかの本屋で出したいといってきたら、どんな小さな本屋でもいいから出版させてくれ。こなければかまわないでくれ」と 告げた。

原稿については、ある時母に「この童話は、ありがたい仏さんの教えを、一生懸命に書いたものだんすじゃ。だから いつかは、きっと、みんなでよろこんで読むようになるんすじゃ」と告げていたという。

9月21日

朝の往診の医師に母が容態を尋ねると、医師は「どうも昨日のようでない」と答えた。それは危険な状態である ということである。

母は実家の父に電話して熊の胆を届けるように頼んだ。賢治には祖父にあたる善治が自分で持参して孫に飲ませた。様子が 落ち着いているようなので祖父は帰った。

午前十一時過ぎに、二階の賢治の病室からりんりんとバリトンで「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経・・・」と唱題の声が 聞こえてきた。

階下の家族は、びっくりして階段を駆け上がった。賢治は蒲団の上に端座して合掌し、お題目を唱えていた。これを見て 家族も最悪の場合を思った。

父政次郎は、賢治に声をかけた。「賢治、今になって、何の迷いもながべな」賢治は、「もう決まっております」 と答えた。父は、「何か、言い残したいことはないか、書くから、すずり箱を持ってくるように」と云った。

母は、それは賢治に死の宣告をするようなものだと思い「いま急いでそんなことをしなくてもー」と夫を非難するような口調 で呟いた。父は、はっきりと「いいや、そんなものではない」とはっきり答えた。巻紙と筆を持った父に、賢治はゆっくりと 静かに花巻弁で語り始めた。「国訳の法華経を千部印刷して知己友人にわけて下さい。校正は北向さんにお願いして下さい。 本の表紙は赤に―。『私の一生のしごとは、このお経をあなたのお手もとにおとどけすることでした。あなたが仏さまの心に ふれて、一番よい、正しい道に入られますように』ということを書いて下さい。」

父は「法華経は自我偈だけかまたは全品か」と聞いた。賢治は「どうぞ法華経全品をお願いします」と答えた。また あとがきは「合掌、私の全生涯の仕事は此経をあなたのお手許に届け、そしてその中にある仏意に觸れて、あなたが無上道 に入られんことをお願ひするの外ありません。昭和八年九月二十一日 臨終の日に於いて 宮澤賢治とし、父は賢治に読み聞かせ 「これでいいか?」と問うた。賢治は「それで結構です。」と答えた。「あとはもうないか」と重ねて父が問うた。そばで聞いて いた母は「あとは、今でなくてもいいでしょう。」と賢治に代わって答えた。賢治は「あとは、またおきて書きます。」と 答えたが再び起きて書くことは無かった。

息子の臨終に際して、この父の毅然たる態度には、驚嘆せざるを得ない。確固たる信念が無ければ、こういう行動は取れない と思う。この父にして、この子ありの感を深くするのである。

続いて父は「たくさん書いてある原稿はどうするつもりか?」と聞いた。賢治はそれに「あれは、みんな、迷いのあと ですから、よいように処分してください」と答えた。父は賢治に「おまえのことは、いままで、一遍もほめたことがなかった。 今度だけはほめよう。りっぱだ。」賢治は生まれて始めて死の直前に父から褒められ、心から嬉しそうに弟清六に「お父さんに、 とうとう、ほめられたもや。」と語った。

父は階下に降り、家族も昼食のため下に降り、傍には母だけが残った。賢治は母に便器を入れてもらって排尿した。母に礼を 言った。母は「そんなことはない、それよりも早く良くなっておくれ」と告げた。

賢治は「お母さん、また、すまないども水コ」と言った。母は吸口にいっぱい入った水を渡した。賢治は、おいしそうに コクコクとのどを鳴らしてそれを呑んだ。「ああ。いい気持ちだ」と言った。

それから枕元のオキシフルを浸した脱脂綿で手、首、体を拭き、又「ああ、いいきもちだ」と繰返した。母は病状が落着いた と思い蒲団をなおしながら、「ゆっくり休んでじゃい」と言って、そっと立って部屋を出ようとして、ふり返って賢治を見ると、 賢治の様子が変わり、すうっと眠りに入るような賢治の呼吸が潮のひくように弱くなり、手にした脱脂綿が手からポロリと落ちた。 母は「賢さん、賢さん」と強く叫びましたが、もう答えは無かった。その時一時半であった。

従容たる賢治の死は、さながら高僧の死のように、嬉々として、御仏の元に帰っていったようであった。

それにしても、賢治は最後まで、法華経の行者であった。残された者に「国訳法華経」を届けて、無上道に入ることを 願ったのである。そして父には全作品を、適当に処分してほしいと述べたことは、賢治の全作品も、法華経と引き替えてもよい ということであろう。これ程まで法華経に帰依した生涯であったということである。

遺言は実行された。印刷所は盛岡市の山口活版所、発行者は宮沢清六、昭和9年6月5日の発行で、通し番号を付けられ、 友人知己に配られた。

 ※( 刊記追加のことば

以上は兄の全生涯中最大の希望/であり又私共に依托せられた/最重要の任務でもありますので/今刊行に当りて/謹んで兄の意志によりて尊下に/呈上致します/

          宮沢清六  

 筆者は、以前から、賢治の散文作品は、法華経の長行(じょうごう)にあたり、詩等は偈(げ)にあたる のではないか、と考えていた。賢治が原稿について母に言った言葉にもそれは示されている。賢治は妙法蓮華経の精神を伝える ために多くの作品を書き、また法華経の教えにより菩薩行を実践したと言うべきである。

 ※ 『宮沢賢治入門 宮沢賢治法華経について』田口昭典著 でくのぼう出版より

 

  父母あての遺書

  この一生の間のどこのどんな子供も受けないやうな厚いご恩をいただきながら、いつも我儘でお心に背きたうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでした。ご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします。/どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私をお呼びだしてください。そのお題目で絶えずおわび申しあげお答へいたします。
  九月廿一日       

              賢治

 父上様/母上様

   この九月廿一日の日付は、遺書を書かれた2年前の九月廿一日であり、亡くなる日時を知っていたようです?

 

 弟妹あての告別のことば

 たうたう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。/どうかこの我儘者をお赦しください。
            

            賢治

清六様/しげ様/主計様/くに様

【  ※ 賢治の友人で、彼の霊的能力について明かした森荘巳池氏(モリ ソウイチ : 盛岡市出身で宮沢賢治と深い親交がある作家)が古い著書(『宮澤賢治』杜陵書院、昭和二二年)の中で明らかにしていることだが、賢治が中学を出て一年浪人したのは、父親が上の学校には行かせてくれないだろうと邪推して勉強を怠ったためであった。この頃褝寺に下宿したのも、実は気持ちが荒んで大騷ぎをし、寄宿舎から追い出されたためだった。卒業後すぐに発疹チフスにかかって療養生活を余儀なくされることになるのだが、この時賢治は「白い立派な髭を生やした岩手山の神様(霊山の岩手山には、小さい頃からの鉱物採取などで30回程、登山しています) が降りてきて、ぴかぴか光る剣を腹にぶすっと刺した夢」を見た後で病気がすぐに快方に向かう、という神秘体験をもっている。そして近くの川で「みそぎ(禊)」をして「あけがたの烏にまじり みそぎをれば ねむの林に 垂るる白雲」という歌を詠んでいる。賢治がその人生を決定づけた『法華経』と出会うのはその直後のことであり、その後勉学の意欲が湧き、父親の許しを得て翌年盛岡高等農林学校に入学することができた。 もう一つ、賢治が東京に家出する直接的なきっかけになったのは、彼が店番をしながら火鉢にあたって考え事をしていた時に突然ひらめいた「宗教的啓示」、具体的には頭上の棚から彼の背中に『御書』(日蓮上人遺文集)が落ちてきたことであったという。つまり、彼はそれを偶然の出来事としてではなく、上京と「国柱会」入会を促す神意の表れであると感じ取ったのである。 家出の旅の最後に行き着いたのが、父に連れられて訪れた伊勢神宮だった。その日は雨で、賢治は「ありがたい玉のような雨」と言って父とともに神前に拝礼し、「かがやきの雨のいただき大神のみ前に父とふたりぬかづかん」という歌を詠んでいる。前述の森氏は「これ以後、賢治は両親に宗教上のことで改宗を迫ったりすることはなくなった」と書いているが、この時から賢治は日蓮宗を絶対視する考え方を改め、宗教の普遍性に目覚めたと見ていいだろう。その翌年に妹トシの死という人生最大の試練を与えられた賢治は、以後、農民たちと苦楽をともにしながら独自の宗教的思索を深めていくことになる。 このように、彼の人生の節目節目に働いていたのは仏教の「悟り」やキリスト教の「啓示」とは別の、古神道のシャーマン(巫女)が受ける「神託」や「霊示」のようなものだった。……………

 ※ 森氏がつい最近になって、賢治が実はきわめて鋭い霊的能力をもっていた人であったことを明らかにしている。

 森氏の語るところによれば、賢治の詩集『春と修羅』に対して好意的な評論を書いた森氏の家を賢治が訪れて、二人で文学談義をする機会がしばしばあった。その際に、賢治が木や草や花の精が見えたり、どこからか声が聞こえたり、早池峰山でお経を唱える仏僧の亡霊の姿を見たり、ある時には賢治が乗ったトラックを崖から落とそうとした小人(妖精)を見たりしたこともあったという話 を森氏にだけ明かしてくれた、というのである。そして、この事実について宮沢家の人々も知っているが、世間を憚って彼らはけっして語ろうとはせず、宮沢家のきついタブーになっている、と森氏は言うのである。 それでなくともやること為すこと「良家の坊ちゃんの道楽」とやっかみ半分の目で見られ、花巻の街中を太鼓を叩きながらお題目を大声で唱え歩いた賢治である。花巻というところはいい所だが、世間体を重んじる田舎でもあった。賢治自身、教師あるいは農業指導者としての立場もあった。賢治自身も、彼の家族も、そうした一面を表に出そうとしなかったのは、考えてみれば当然のことであった。 現に、今でも花巻の地元では賢治のことを「キツネ憑き」と呼んで敬遠する人がいるという話を、筆者自身も聞いたことがあるし、彼のそうした一面に気づきながらも、そのことを白日のもとに曝すことは賢治の作品のイメージを損ない、その文学的価値を引き下げることになるとして、このことに触れたがらない研究者たちが多い。 しかし「賢治が霊的な能力をもっていた」という森氏の言葉に触発されてあらためて賢治の人生や作品を読み直してみると、「なるほど、そうだったのか」と思い当たることは枚挙にいとまがないのである。

 ※  賢治がその人生最後に玄関先で見た外の景色、それもまた彼の死の二日前に行われた、花巻にある鳥谷崎神社の賑やかな「秋祭り」の行列だった。彼がその死の床で詠んだ二つの辞世も、神様からの豊かな恵みに感謝する日本人の素朴な宗心を表現したものである。 賢治が亡くなった昭和八年、岩手は八年ぶりの豊作だったという。

 振り返れば、「みんな昔からの兄弟なのだから決して一人を祈ってはいけない」、そして「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と語った宮沢賢治スウェーデンボルグ鈴木大拙とも響き合うこうした賢治の心こそ、私たち日本人が求めてやまない「心の故郷」だったのではないだろうか。
 ここは銀河の空間の太陽日本、

 陸中国の野原である。 

 青い松並、 

 萱の花、

 古いみちのくの断片を保て。 

    (『農業芸術概論綱要』より)

宮沢賢治スウェーデンボルグ : 日本仏教の未来を見つめて 瀬上 正仁

     (22世紀アート)より]   

 〘 〈盛岡高等農林学校時代の知人の小森彦太郎が宮澤賢治から聞いた話〉
賢治は後ろから来たトラックに乗せてもらった。
間もなくなにか危険な予感に襲われた。
というのは、体の小さな青鬼だの赤鬼だの白鬼だのが、目先にチラチラうかんできたからである。
そこで運転手にトラックを止めてくれるように頼んだが、大丈夫だといって止めてくれない。
鬼どもは大きくなったり小さくなったりしながら、ますます踊り狂っている。
その時ひょいと谷底を見ると、三メートルばかりある大きな掌がさんさんと白光を放って、トラックを支えているようである。
「お観音さまのお手だな」と思った途端それがスッと消え、「危ない!」とどなった。

運転手と間髪を入れずトラックから飛び降りると、トラックだけ谷底に落ちて行った。

 

  ※ 父 政次郎翁は賢治末期の願いとしていた国訳法華経の印刷頒布を進んで実行したばかりでなく、賢治の没後18年を経た1951年(昭和26年)7月、法華宗に改宗して菩提寺を従来の眞宗安浄寺から法華宗身照寺に移した。…………私は先年安浄寺の墓に詣った時の翁の言葉「家では賢治を特別扱いにはしません」を思い出し、何れ墓を移すであろうが、賢治の墓は作らず、別につくるなれば、供養塔にせよと進言し、帰ったら五輪塔の設計図を贈ると約束した。

………1957年(昭和32年)4月15日に身照寺墓地の宮沢家先祖代々の合葬墓の左に並んで建立され、同月18日に法要が行われた。身照寺の墓地にまいる者が多くなり、供養塔である多宝塔を「宮沢賢治の墓」と誤解する者が多くなったので…………。

     日蓮宗身延別院身照寺

宮澤賢治氏悲願建立の寺で「法華堂建立勧進文」を創案しています。

《左の五輪塔は賢治の供養塔、

   右の骨堂が宮澤家の墓石

 身照寺のこの五輪供養塔は賢治の墓

 にはあらず。

  ※ 参考  鈴木 守

「ブログ みちのくの山野草」より

 

 ※ 法華経信仰と言っても浅いものから深いものまで、さまざまあります。天台宗、禅の道元禅師、日蓮宗国柱会創価学会など多くの在家教団でも法華経を信奉していますが、まるでちがった宗教となっています。 

 ※ 宮沢賢治が十九世紀アメリカの思想家・詩人として知られるエマソン(Ralph Wald Emerson 一八〇三〜八二)の著書を介して、スウェーデンボルグの思想に触れていたことを示す事実が、次々と明らかにされています。 賢治の農学校教師時代の教え子だった照井謹二郎氏は、最期の病床に臥していた賢治から、傍らの書棚にあった戸川秋骨訳『エマーソン論文集』上巻(大正二年、玄黄社刊の第五刷本)を譲り受けたという。その中には亡妹トシの署名と加筆があり、賢治とトシの共通の愛読書であったことは間違いありません。

 また、宮澤賢治が、中学三年(15歳1911年)の頃、真宗大谷派の仏教学者で賢治の父の友人であった暁烏敏(明10〜昭29)の著書『歎異抄講話』(明44)に親しんでいた賢治は、その中で賞讃されていたエマソンの思想に大きな関心を抱いていたという。

 ※ 盛岡中学校時代の賢治の同寮生であった藤原文三氏の証言(『校本宮澤賢治全集』の年譜)によれば、明治四四年二学期の頃の賢治は、学校の教科書には目もくれず、『中央公論』とエマソン哲学書を読み耽っていたといいます。

 このエマソン、実はスウェーデンボルグ神学の枢要部分を取り入れて「ユニテリアニズム」(ユニテリアン教会のことではなく、思想としてのユニテリアン主義)を確立した人物であり、その「大霊」あるいは「詩人論」といったものの中に明らかなスウェーデンボルグからの影響を確認できるし、「神学部講演」や著書『代表的人間像』でもスウェーデンボルグについての直接的な言及があります。 すなわち、明治〜大正期にエマソンの著書を介してスウェーデンボルグ思想の感化を受けたわが国の文化人は相当数いて、賢治もその一人であったと思われます。

 そして、その後18歳頃、島地大等編[漢和対照妙法蓮華経]を読み、感銘を受け、それがきっかけとなり生涯の法華経へと帰依することになったのです。 

 

 ※ 賢治の父政次郎は、浄土真宗の熱心な信仰者で、毎年、京都から暁烏 敏(あけがらす はや)などを呼んで夏期講習を開いていました。この暁烏敏が書いた『歎異抄講話』があり、当時のロング・ベストセラーです。当時、賢治は小学生でしたが、暁烏敏が花巻にくると、その身の回りの世話をしていました。食事の世話、お風呂、床の上げぬ下げなど。そして、講話をするときは、末席にひかえ、膝をそろえて、座って聞いていたと言う。
 そして、その後バプテスト派の教会やカトリックの教会に通っています。その後盛岡高等農林時代に盛岡市にある浄土真宗のお寺、願教寺の夏期講習に通い、この願教寺の住職が島地大等師で『法華経』の講義を聞き、日蓮宗の『法華経』へとつながって行くのです。

 

 ※ 追 記 

 手帳に記されたマンダラについて

 

 左は、宮沢賢治国柱会から授与された曼荼羅です。左端に宮沢賢治ニ之ヲ授与スルモノナリ 」と明記されています。

 ※ この国柱会より、授与された、「ご本尊」は、国柱会の主宰者田中智学師が始顕本尊を臨写したと伝承されていますが、始顕本尊じたい明治八年に身延山にて、焼失していて、その二種の臨写本 とは一致していませんが、田中智学が佐渡始顕本尊の一点から臨写したものとされています。

  本満寺所蔵の日乾上人による
  身延山の始顕本尊の臨写本です。 
 上部振り分けの経文は、
「此経則為。閻浮提人。病之良薬。若人有病。得聞是経。病即消滅。不老不死。」
(この経は則ち為れ 閻浮提の人の 病の良薬なり。若し人 病あらんに 是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して 不老不死ならん。)とあります。法華経薬王品出)
 

 ※ 親戚の関徳彌(賢治とは従弟同士であり、信仰的にも同時期に国柱会へ入信している)によれば、国柱会から届いた大曼荼羅本尊を賢治は経師屋に注文した掛け軸で賢治自身が表装し、仏壇に勧請した。「その日の読経や式の次第は実にりっぱで、後に控えている私はそのりっぱさに感動したものです」(関『賢治随聞』)ということだが、そのりっぱな読経の声は、階下の家族を困惑させた。

 また、賢治は十二月には寒修行と称して花巻の夜の街を「南無妙法蓮華経」と高らかに唱題して歩いた。ある夜、政次郎が関の家に来ていたときに雪道を歩いてくる賢治の「南無妙法蓮華経」が聞こえてきた。政次郎は「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くしたという(関『同』)。
 

 ※ これらは、手帳に記された「南無妙法蓮華経」と「菩薩」のページです。それは、単にメモ書きされたものではありません。それぞれが略式マンダラなのです。日蓮自身の曼荼羅も時によって変遷があるように、賢治はその霊的な感性により、日蓮のマンダラについて、それぞれを知り、その理解と解釈により、独自のマンダラ像を書き記したものなのです。その感性の理解のそれぞれのマンダラのちがいについては、私達には知るよしもありませんが?
 ここで、思うのは、「雨ニモマケズ」の後に続いて、マンダラがあることは、雨ニモマケズ」が経文であり、祝詞である と思う次第です!(しかし、当初からマンダラを追記して発表していたなら、これは、一宗教の文書として、今のようには、一般にも広まることはなかったものと考えられます………。 )
 

 スウェーデンボルグは、「宗教の生命は善をなすことである」と言い、法華経の根本精神とは「利他行の実践」なのです。これが宗教の本質なのではないでしょうか!!

エマソンとスウェーデンボルグ・・夢解釈!13

 写真左は、エマーソンの墓 (スリーピーホロウ墓地)     右は、 1940 年発行の米国切手

 ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。超絶主義の先導者。
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、ユニテリアン派の牧師になるが、ユニテリアンの合理性に満足できず、また教会の形式主義に疑問を感じて辞職し、渡欧。ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。

 エマーソンはスウェーデンボルグ神学の強い影響を受け、次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836年に汎神論的象徴主義による評論「自然」(Nature)を発表し、これが彼を中心とする超絶主義運動のバイブルとなった。続いて草分け的な仕事として、1837年に「アメリカの学者」(The American Scholar)と題した演説を行い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独立宣言」であると評した]。

 1826年に出版されたサンプソン・リードの『心の成長に関する観察』を読んで、リードに決定的に傾倒するようになる。エマーソンはリードの著作を繰り返し読んで座右の書とし、これを基礎に執筆活動を始めた。そこに説かれていた「相応」というスウェーデンボルグ神学の独特の概念が、彼の思想の中心概念となり、スウェーデンボルグ神学は、のちの超絶主義の重要な概念となった。
  エマーソンの宗教観は、当時しばしば過激とみなされた。彼は万物は神とつながっていて、そのため万物は神聖であると信じた。神によって創造された自然の営みの効用を重視すると同時に、人間の言語活動は神によって創造されたものであり、人間にのみ与えられた第二の天地創造であると考えて重んじた。超絶主義の基礎となる彼の見解は、神は真理を明らかにする必要はなく、人間は自然から直接、直観的に真理を体得することが出来ると示唆している。そして、人間は自然同様に神秘である言語活動・文筆によって、直観によってとらえた自然の神秘を表現できると唱えた。超越主義思想は、ドイツ・ロマン主義運動と呼応し、文学運動から始まっており、エマーソンは、ドイツの詩人たちの人智を超えた詩才の湧出に触発されている。部分的に、ドイツ哲学と聖書批判学に影響を受けている。次元の高い立場からの神意識について語ったが、これはユニテリアン派の教義から導き出される帰結であると指摘されており、「相応」という中心概念は、スウェーデンボルグ神学の影響を受けている。『自然』において宗教的超越を説いたが、スェーデンボルグのように自分自身が神秘家になることはなかった。
  
          

      エ   マ   ソ   ン
                入 江 勇起男 ( 哲学系の著訳者 )
 エマソン (Emerson, 1803-82)が生れたのはアメリカ独立後わずかに28年目であったが、そのころは独立当時までまだ強かったピューリタニズムの高潔な気風はいつのまにか薄れていって、ぼう大な国土の開拓と国力の充実とともにいたずらに物慾は増大し、合理主義・機械主義は猛威をふるっていた。十年一昔と言うが、かつて権力を憎み自由を礼讃した人々も、今は自分たちの造り上げた教会と社会の制度と伝統に権威の衣を着せ、弱者・新参者に権力をもって臨む番となり、ただ学問・芸術だけは欧風の輸入と模倣に忙しかった。
 「アメリカは、戸外はいたるところ市場、屋内は密閉した因襲のストーブのようである。家に入って来る者はみんなこのやんごとない習性の匂いがする。男は市場の、女は風習の。Jiとはエマソンの皮肉な社会批評のことばである。エマソンは初期ピューリタンのように改めて偉大な人間的自覚に立ち、こうした社会と文化に峻厳な批判を加え、アメリカの精神界に覚醒を与え、アメリカにルネッサンスの花を開かせるように運命づけられていた。
 エマソンの精神を培った文化資源は、ハ-ヴァード在学中、またその後に学んだ古典文学・古代哲学・ネオプラトニズム・ドイツ哲学・エリザベス朝文学・東洋思想などで、その領域は非常に広い。しかし彼の心情を養った根深いものは、自然の力を除いては、キリスト教そのもの、とくに二ユー・イングランドのそこここに不死鳥の灰のように潜んでいた清教徒的雰囲気、あるいは彼の魂の友であったクェイカーや、トランセンデンタリスツとの交友であった。 
     ──略──
 エマソンの神は彼の信ずるイエスの教えに一致していた。神はイエスの教えるように、イエス以前より在り、いわゆるキリスト教を信ずる者にも信じない者にも、善い人の上にも悪い人の上にも、陽光・慈雨のようにいのちを恵む万人の愛の神で、一切の人間のことばによる教義も教理も、いかなる教会の伝統も組織もどうすることもできないいのちと叡智の大元(Over-Soul)であった。世界はこの神の刻々創造し維持する神秘であって、聖書その他いかなる聖典に記録する神秘・奇蹟も、この生ける無限の神秘の流れの中にかつて起った神秘のごく僅かな一部に過ぎない。イエスその他の予言者を生かし啓示を与えた神と同じ神が今も厳然と生き、刻々われわれを生かし、刻々無限の手段をつくして真理を示している。すなわち世界は神が刻々創造し刻々維持している生けるCreationである。これがエマソンのNatureであった。
 エマソンの世界はそれゆえ神を象徴する至高の芸術であり美の世界であった。万象は神の中にあり、神を象徴している。個々のものはその全的立場にあって初めて真の個であり、真の美をあらわした。’Each and All’(「どれもこれも」)、‘Woodnotes’(「森の調べ」)、‘The Sphinx’(「スフィンクス」)などすべてこの秘密を説いていないものはない。個、自我を解き放て、そこに全の世界が展開される。半神を捨て去ってこそ真の神の訪れはある、純情・直感こそ最高の叡智であると彼は叫ぶ。
 しかしそれと同時にエマソンの世界は峻厳な法と倫理の世界でもあった。世界構成の原理に二つあった。一つは ‘likeness’(似つかわしさ、一致)、もう一つは

‘compensation’(むくい、つぐない)ということであった。前者はスウェーデンボルグ(Swedenborg,1688-1772)の‘correspondence’の思想をさらに進めたもので、心とその認める世界は一致し、内容と形式、目的と手段も一致すると見る。むくいは行為・思いそれ自身にも伴う厳しい掟で逃れようはなかった。それは彼の世界観が甘い楽天主義ではなく、現実・事実のきびしい理解に立つことを示した。しかしそれはその法を知りそれに従う人にとっては絶対安住の世界観であった。
 こういう世界をエマソンは何によって知ったか。直感であった。一種の直咸的洞察力によるのである。それは理智・理性(reason)、あるいは良心(conscince)ではなく、もっと根本的な、人間精神のどこかにある万人が本来恵まれている人間最高の感受性である。それは人間が恵まれたものではあるが、人間の意志によって左右することのできる人間の所有物ではなく、その最も純一の姿においては、それは神的特質であり、神の最高の恵みである。しかし多くはこれを無視し、曇らせてしまっていて、これを輝かしている天心の人はめったにない。多くは頭だけ、手だけ、あるいは足だけの怪物に堕してしまっている。しかし、この特質のみが、人を真理と美にみちびく神の光であり、学芸の泉であるとエマソンは説いている。彼はこの特質を「宗教的感受性」(the religious sentiment)、「絶対理性」(Reason)、絶対良心(Conscience)などと呼んでいる。また、彼は思想的目覚めのころクェイカーから一生を支配する深い影響を受け、後日自分の信仰の立場について「自分は何よりもクェイカーだ」と告白しているほどであるが、クェイカーらしくこの特質を「内なる神」、「内なるキリスト」、あるいは「内なる光」とも呼んでいる。
 この神と人間とを直結させる「内なる神」の思想は、人の内心に直接感ずる神的な直感に宗教の絶対の権威を認め、外的な教会組織や信条に権威を認めず、人間の自由と尊厳を外的制約から解放しようとする思想であるが、この精神の聖なる事実は東西古今の聖賢によって共通に立証されていると見ている。この信念からエマソンは東洋・西洋を一つに結び、宗教宗派間の障壁、宗教・文学・科学間の一切の人為的障壁を打破している。
        ──略──
   

  以下は、エマソン論文集(上) アメリカの学者 酒 本 雅 之 訳 岩波文庫より

 詩や芸術を通して、哲学や科学を通して、教会や国家を通して、すでに仄かな光を放ち始めている未来の日々のめでたい兆を読みとっては、わたしはいささか喜びを感じます。
 これらの兆のひとつは、国家のなかで最下層と呼ばれていた人びとの向上を実現したのとおなじ動きが、文学の分野でも、少しも劣らぬ好意をたたえ、しかも非常にはっきりした相貌を帯びたという事実です。崇高で美しいものの代わりに、身近なもの、卑近なもの、平凡なものが、さまざまに探られては詩に歌われました。いままでは、遠い異国へ長旅に出ようと旅装をととのえ食糧を調達している人びとにいとも無造作に踏みつけられていたものが、とつぜんいっさいの異郷の土地よりも豊かだとされるのです。貧者の文学、子どもの感情、巷の哲学、家庭生活の意味が、現代では話題になります。たしかに大きな前進です。手足が活気を帯び、暖いいのちの流れがその手と足に流れこむとき、たしかにこれは新しい活力の兆です────そうではありませんか。偉大なもの、遥かなもの、ロマンティックなもの、イタリアやアラビアの事情、ギリシャ芸術とかプロヴァンスの吟遊詩人などというものを、わたしは欲しくありません。わたしは平凡なものを抱擁し、見慣れたもの、卑近なものをあれこれとまさぐり、その足もとに坐ります。わたしが欲しいのはただ現代を洞察する力だけ、古代や未来の世界は喜んでお譲りいたします。わたしたちが本当に意味を知りたいと思っているのはどういうことでしょう。小桶のなかのひき割り麦、鎬のなかのミルク、街頭にひびく俗謡、船に関する便りヽ投げかけられる訴訟、体の姿態と歩きぶり、 ゛こういうことの窮極の理由を教えてほしい、これら自然の外縁や末端に一瞬の例外もなく潜みつづける至高の霊なる根源の荘厳な姿を教えてほしい。あらゆる些細なものが、それをたちどころに永遠の法則に一致させる磁性のゆえに。ことごとくいきり立っているさまを、商店が、鋤が、帳簿が、光を波動させ詩人を歌わせるのと同様な根源に帰せられるさまを見せてほしいのです、──そうすれば、世界はもはや無意味な寄せ集めやがらくた置き場ではなくなって、形式と秩序を持つようになります。些細なもの、理解に苦しむようなものはひとつもなく、もっとも遠い高峰ともっとも低い海溝をすら、ひとつの構想が結びつけ、活気づかせるようになります。
 ゴールドスミス、バーンズ、クーパーの、そして時代がくだって、ゲーテ、ワーズワス、カーライルの天才に霊感を与えたのはこの理念です。この理念のあとに彼らはそれぞれのやり方でつきしたがい、さまざまに成功を収めましたる。彼らの著作と対照させますと、ポーブ、ジョンソン、ギボンの文体は、冷たくて衒学(けんがく)的なものに思えます。ところがこちらの著作は血のぬくもりを感じさせます。身近なものが、遠く遙かなものに比べて、その美しさや不思議さがいささかも劣ぬことを知って人間は驚きを感じます。近いものが遠いものを説明してくれます。水滴は小さな海です。ひとりの人間が自然全体にかかわりを持っています。卑俗なものにそなわるこの価値の認識は、さまざまな発見を産み出してくれます。ゲーテは、まさにこの点で新しい人間のなかでもっとも新しい人間であり、しかも何びとの追随も許さぬほどに、古代人の精神をわたしたちに教えてくれました。
 このような人生哲学のために大きな貢献をしながら、かつて一度もその著作に正当な評価を与えられたことのない天才がひとりいます、──つまりエマニュエル・スエーデンボルグです。抜群の想像力をそなえながら、しかも数学者さながらの正確さで著述に励みつつ、彼は彼の時代の民間キリスト教信仰に純粋に哲学的な「倫理学」を接木しようとつとめました。むろんこうした試みは、どんな天才にも克服できそうにないほどの困難をともなっているに違いありません。しかし彼は、自然と魂の情感とのあいだの連関を理解して、人びとに教えました。目に見え、耳に聞こえ、手で触れることのできる世界の象徴的な、つまり霊的な性質を洞察しました。とくに、暗きを愛する彼の詩神は、自然のなかの劣等な部分の頭上を舞いつつ、その意味を解明するのです。彼は、醜い物質の形態に精神上の悪をつなぎ合わせる不思議な絆を教えてくれました。そして、狂気について、野獣について、不潔で恐ろしいものたちについて、壮大な寓話の形をかりつつ、論理的な説明をしてくれたのです。   ──略──   

     

 以下は、エマソン論文集(下) 詩 人  酒 本 雅 之 訳 岩波文庫より
   近代に生をうけたすべての人びとのなかで、スエーデンボルグは、自然を想念に翻訳する者として抜群の人物だ。彼ほど一様にものが言葉を表わしていると考えた人物を、わたしは史上ひとりも知らない。彼のまえでは変身劇がひっきりなしに演じられる。彼の目がとまるものは、どれもこれも、精神的本性の衝動に従っている。いちじくも、彼が食べればぶどうとなる。彼の天使たちのなかに何かの真理を確言する者がいると、彼らが捧げる月桂樹の小枝は、その手のなかで花をつけた。はなれていると歯ぎしりや殴打の音と思えたひびきが、近づいてみると議論し合う者たちの声だと知れた。彼の幻覚のひとつに現われた人びとは、天来の光で見ると、竜のように思え、闇に包まれているように見えた。しかし彼らはおたがい同士の目には人間だと思え、天からさす光が彼らの小屋の内部を照らすと、彼らはまわりの闇について不平を言い、外を見るには窓をしめざるを得なかった。
 スエーデンボルグには、こういう理解がそなわっていた。つまり同一の人間あるいは人間の社会が自分自身や仲間たちにある相貌を見せながら、もっと高い知性に対してはべつの相貌を帯びることもあるという理解がそなわっているが、だからこそ詩人や予言者が畏敬と恐怖の対象になる。おおいに学識を披露しつつ話し合うさまを彼によって語られる聖職者たちは、いくらかはなれている子どもたちには死んだ馬だと思えたし、これに似たような錯覚は多い。するとたちどこちに精神が問いかける、橋のしたのこの魚たち、牧場で草を食むあの牛たち、中庭にいるその犬たちが、はたしていつまでも変わることなく魚や牛や犬のままでいるのか、それともただわたしにそう思えるだけで、たぶん彼ら自身には直立する人間だと見えるのではないか、そしていったいわたし自身は誰の目にも人間だと見えるのかどうか・バラモンたちやピュタゴラスもこれとおなじ疑問を持ち出したし、誰であれ、もしも変態のさまを目撃したことのある詩人がいれば、きっとその変態がさまざまな経験と調和していることを悟ったにちがいない。われわれは誰でも、小麦や毛虫にさえ同様に重大な変化を見たことがある。流動する衣裳をとおして安定した自然を見ぬき、そのことを明言できるひとこそ詩人であって、きっとわれわれを愛と恐れの糸で引き寄せることになるはずだ。
   ──略──  

  

◎ 19世紀のエマソンの哲学は、現代でも支持されています。そして、その背後の教えには、スウェーデンボルグの神学があったのです。

 エマソン論文集の「代表的人間像」には、

第一章 哲人に生きる人ープラトン
補 説 あたらしいプラトン説にせっして
第二章 神秘に生きる人ースエーデンボルグ
第三章 懐疑に生きる人ーモンテーニュ
第四章 詩歌に生きる人ーシェイクスピア
第五章 世俗に生きる人ーナポレオン
第六章 文学に生きる人ーゲーテ

 として、スエーデンボルグを紹介しています。哲学における神秘主義から世俗世界への諸問題に対処して、英知にあふれる生活指針を示してくれています。

 

※ 後日加筆しますので!

夢は霊によって・・・12

【コラム】11‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥       

                                       蒸 留 水 健 康 法

   

 地球の水循環の雲となる水蒸気は、元々は純水の蒸留水ですね・・・・・・。

 生物界におけるエネルギー代謝は、光合成を行う植物の独立栄養生物とその独立栄養生物が同化した有機物を栄養として取り入れる従属栄養生物に分けられます。人は従属栄養生物で在り、独立栄養生物とその食物連鎖の流れの中で栄養をとり、生きていくのです。では、無機物のミネラルの場合はどうでしょうか? ミネラルを栄養として取り入れるには、地中の鉱物性ミネラルを穀物や野菜・果物などの植物が、根から吸収したミネラルを、光合成によって吸収・分解した植物性ミネラルとしたものが利用効率は良いのです。ですから、私たちは、穀物や野菜、海藻、果物を食べることでミネラルを体内に吸収利用するのです。この植物性ミネラルは鉱物性ミネラルの約1000分の1の大きさであり、これがまた吸収率の違いを生んでいます。また植物性ミネラルはミネラルをバランスよく含んでいますから、ミネラルを補給するだけでなく、かつ体内の有害ミネラルを排出する作用もあります。これに対し、鉱物性ミネラルは、岩・石灰岩・牡蠣の殻・塩などを粉砕、加工することによって作られますが、粒子が大きいため体内にはあまり吸収されません。ですからミネラルウォーターのミネラルも同じであり、吸収されたとしても栄養バランスが悪いため過剰摂取となったり、身体に悪影響を及ぼしたりします。かつ市販されているミネラルの多くは鉱物性ミネラルがほとんどです。

 自然の循環・摂理を見てみると雪解け水は、鉱物ミネラルも含まれない純水に近いものですが、(都会では空中の浮遊物を含んでおり、問題ですが、自然環境の綺麗な山の上とかでは綺麗な純水に近い水分であり、この純水に近い雪解け水は、植物の種実に対しても吸収も良く発芽率の効率性にも貢献します、それで春の芽吹きの季節に、新春の豊かな生命力の芽生えへとつながります。芽吹いた植物はその後は、地中からの鉱物性ミネラルの水分を取り入れ、かつ光合成を行い有機物を合成し、そして従属栄養生物への食物連鎖へとつながり生態系が維持されていくのです。
そこで、人の飲食する水は何が最良かということです。それは、純水です。水は軟水・硬水・純水・超純水とに大まかに区分できます。今まで述べたように水に含まれる鉱物性ミネラルは人体には効率よく利用されませんし、過剰の場合は悪影響さえあります。スポーツ選手が海外に遠征するとき、海外はほとんどが硬水の場合が多いため、下痢をしてしまいます。これは身体には異物であるから反応しているためです。慣れると身体でそれなりの代謝となって落ち着きますが! 
結論として、ミネラルは、植物から取り入れるもので、ミネラルウォーターなど鉱物ミネラルでは有益に利用されないということです。(但し食塩は、生命発生の段階でその環境にありましたから、他のミネラルより効率よく利用されるようです!。)
手軽には、家庭用蒸留水製造装置の純水がベターのようです。(大メーカーが取り扱いしないのはその利益率が少ないからです。水道直結の高額の機器もありますが!)
 この純水は自然のサイクルに合わせたものですから。三回ほど蒸留したものは、より吸収がよくデトックス作用もいいようです。但し十回以上蒸留すると、これはもう超純水となり、飲用ではなく、皮膚も荒らす薬品となり、精密機器やICチップなどの洗浄用途となります。手軽には、スーパーでRO水の純水がありますので、これを利用するといいでしょう。ところでネットでは、水博士といわれる藤○博士と言われる方が、純水と超純水とを一緒にして、純水も身体に悪く薄めて利用するようになどと述べていますが、この方はフランスの硬水を推薦する人でもありますから、呆れてしまいますね。
 かつネットで言われている水に関する常識も間違って伝えられています、それは浄水器やミネラルウォーターを売る為のメーカーによってです。「水で死ぬ」「水道水を飲むとガンになる」とか、過激なほど水道水に対して恐怖心を煽っていたり、浄水器を付けなさいというものや、または、ミネラル不足のためにミネラルウォーターを飲用しなさいというものです。

 健康法として、身体にいい水の取り方は、純水が良いということです。ミネラルは穀物や野菜・果物からとるということです。より詳しく知りたい方は、ネットで蒸留水を推奨した『「ブラウン・ランドーン博士』と検索するとその理論体系が解りますよ!!!。  

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥11【コラム】      

      『聖言の講解』(アドヴァーサリア)より
            スウェーデンボルグ夢日記から 鈴木泰之訳  たま出版

 夢は霊によって引き起こされること(注1)
 1893 特に夢について、ここで述べておきたいことは、人の夢がもっぱら霊によって引き起こされ、神メシアの霊によって引き起こされる夢は将来の出来事そしてまた真理を明らかにし、それ以外の全部の夢は神メシアの霊でない霊によって引き起こされている、ということである。人が欺かれてしまう夢は悪霊によって、そうして悪魔の一味によって引き起こされるが、このことは生きた声により、たいていの場合は無数の表象による。これらの表象に無知な者は表象的な夢が何を意味するのは決して分からない。天界の事物の表象は地上で行なわれているのと同じ事物、特に見られる事物によって、このように自然界の事物によって生み出される。しばしば、それらがあまりに複合されているので、人が何種類かの表象を知らないのなら、そのもつれをほぐすのはほとんど不可能である。そうした性質のものであることは、ヨセフの夢〔創世記37章〕、おなじくパロの夢〔同39章〕から非常に明らかである。これは預言書の中でも明らかであり、そこでは夢が多く語られており、人がすっかり目覚めているときの幻だけでなく、そしてこれは同様の表象である夢とまさにそっくりなのであるが、あたかも白日の下にあるように、完全に生命へと働きかける。それらは眠りの前後の目覚めのときにも起こり、またさらに違うふうにも起こる。さらにまた、ある霊が他の人に一人の人間として実際に現われる(注2)といった現実の表象もある。しかし、このことは私には私が別の状態にいるときに〔霊界で〕起こったのである。ある人にとって、霊たちの夢はたんに幻覚であり、ほとんど意味のないまがいものであり、そうしたものをつかみ取ってしまうのは気質や過去の観念によってもたらされる。(注3)
 1894 詳細が今述べたようなものであったことを、私自身が証明できる。そして、それらについてほんの少しの疑問点もない。それで、神メシアの神的慈悲によって、それらはまったく違和感のないほどに、私に頻繁に起こったのである。それらはまた夢によっても親しみあるものとなり、またこのことは最初に私が夢の意味をある程度学んでいる数年の間に起こったことであった。その他の啓示も、またさらにもっと他のこともあった。例えば、私の目の前で手紙が書かれ、読まれた。等々。しかし、こうした事柄をこれ以上述べるのはまだ許されていない。
 1895 特に夢について、すでに述べたように、それらは霊によってもたらされる(1893)。
これは私に明らかになったことである、私がこれを知っているからである。
 疑いの余地なく。いや、頻繁に私は、目の前に現われ夢をもたらした霊たちと語り、こうしてこれ以外の源泉から夢が流入してくるものでないことを十分に知らされた。しかし、前述(1893)のように、夢を引き起こすのを許された霊たちと同じく──このことはメシアお一人しだいである──夢には二つの、いや、三つの種類がある。(注4)

 原注(1)この標題は著者の『メモラビリア(霊界日記)』の「索引」から取られたものである。
(このことに注釈が必要だと思います。『霊界日記』とは英訳者の付けた名前であり、スウェーデンボルグ本人は『メモラビリア(記憶すべき事柄)』と呼んでおり、これは霊的な経験を日付をつけて記したものですが、初めのうちは『聖言の講解』の本文中に字下がり記事として霊たちとの接触を記録しておきました。ここで引用した文もそのうちの一つです。その後「メモラビリア索引」を作成したので、その索引には現在の『霊界日記』と「聖言の講解の中の霊的経験」が含まれことになりました。訳者)
 (2)(次の文が消されている)人がこれらのものを見るだけでなく、触覚や聴覚で認めることが起こるとき。
 (3)自筆原稿には、「ある人にとって……もたらされる」の文章は追加するかのように欄外に書かれている。
 (4)1893~95番は、「メモラビリア索引」の中で「夢」の項目に含まれている。

※ これらの表象に無知な者は表象的な夢が何を意味するのは決して分からない。天界の事物の表象は地上で行なわれているのと同じ事物、特に自然界の事物によって生み出される。しばしば、それらがあまりに複合されているので、人が何種類かの表象を知らないのなら、そのもつれをほぐすのはほとんど不可能である。 
 ここで、思い出すのが、ブログ〔パリ・ノートルダム大聖堂の夢解釈!11コラム⑤その2〕のことで、予言の夢を見る方達の理解の仕方でした。表象されたことの理解を師より受けていない方であり、自己判断による理解であったからで、2、3割は正確と言われる事柄でしたが、残りの事柄については、トンデモな事柄であり、周りの人達を迷わす情報でした。夢が表象であり、その夢は見た事柄がそのままでないと言うことです。その表象の夢をどのように解釈するかと言うことでした。そうであることを迷わず学んで、正しく理解するには本人の謙虚さと人の意見を受け入れる素直さが必然だと思われます。

 (笑い話ですが! 前世のリーデングをしていて、牛が象徴され、あなたの前世は牛であったとか、聖書が象徴として現れたので、あなたは聖書で在ったと言われ、有料であり、それを言われた本人が憤慨していました!)←この個所は後日削除しますので・・・・。

 ですが、これらの霊感のある方達は、皆さん、自己顕示欲の強い方達ばかりで、正しく象徴を理解してくれるには難しいですからね・・・!。そんなことには拘わらず知らない方がいいですから・・・・!。

             新   教   会  機関誌      鳥 田 四 郎 主筆より引用    

       

本『創世記霊解』は、もっとも忠実な客観的紹介でなく、私自身の主観的理解に

     よる紹介で自由な解釈をしている所も多いと思いますから、あらかじめご了承下さい。       

        『 創 世 記 霊 解 (4) 』                         

   

        堕 罪【紳の言より人間の言へ】(3・1─8)
        霊の糧は何処よりか(1─3) 
 1 エホバ紳の造りたまいし野の生物の中に 蛇最も狡猾し 蛇女に言けるは、神 真に汝ら園の諸の樹の果は食うべからずと言いたまいしや 2 女 蛇に言けるは、我ら 園の樹の果を食うことを得 3しかれど園の中央にある 樹の果実をば、神 汝ら之を食うべからず、叉之に、さわるべからず おそらくは汝ら死なんと言給へり
【野の生物】 原文は「野の獣」で、「外なる人」の凡ての情動
【蛇】 蛇は人間の感覚的方面を表徴し、多くは悪しき意味に用いられて人間を真理から遠ざける皮相的感覚的知性や感覚的情動を表すが、善き意味においては感覚的知性の用意周到さを表す(マタイ10・16)。また感覚上の論拠により信仰問題の秘儀を論ずることを「蛇の毒」と云う(詩14・3、58・4)。人は往々かくして真の信仰を失い霊的死を招くに至るからである。
【女】 「人間有」(創世記2・22)「女」で、活かされて清められた人間有を象徴している。
【園の樹の果を食う】「食し得る樹の果」とは啓示より受ける信仰の善と真であり、禁じられている「善悪を知る樹の果」とは之に反し、主によらずして自己に発している感覚的知識による信仰ならざる信仰で〔(生命の樹と反対に、主によらぬ自己による感覚的知識の信仰(創世記2・9)〕で、「食する」とは「受け容れる」ことである。「之にさわるべからず」とは、かかる態度は心の衷に想うことさえ悪とすること。
霊 義 最古代教会の人々の霊性は第2章前半に録されている天的人の状態において最高頂に在ったが、その後第18節以下に録されあるごとく、自己愛と世愛とに原因する「人間有」即ち神に対立する自己を立てんとの欲求生ずるに及んで、一段と低下した。しかし主の憐憫により、彼らはなおも潔められた人間有にあり得たから、主の前に幼児の如き無垢にとまり得て「裸体にて恥じざりき」の状態に在り得たのである。併しこの霊性の低下は、天的人の転落第一歩となったことは、第3章に入って明かとなった。
第1章の記録による堕罪前、彼らはすでにその霊性低下の様に在ったことは、以下の聖言による事実によっても明かである。即ち、第2章9節において「園の真中に」在ったのは「生命の樹」であったのが、本章3節による女の言によれば「善悪を知る樹」となって居るのである。第2章9節の註に在る如く「生命の樹」は主より来る愛と信仰を、「善悪を知る樹」は之と反対に自己による感覚的知識による信仰を、そして「園の真中」は心の最内部を意味する(邦訳聖書では一つは単に「園の中に」と訳され、他は「園の真中に」とされているが原語は同じで共に「園の真中に」の意味である)から、これにより、彼らの内なる心を支配していたものは、内的なものより外的感覚的なものに、しかし第3節によれば、「神 汝ら……べからず……と言い給えり」と神による戒禁命令を守り、悪と闘いいる点、危機に在るとは云え、未だ堕罪には至らなかったのである。
 1節より3節までの大意はそれ故以下の如くなる。即ち、神と共にのみ歩むことを喜ぶ「独り居る」生活に満足せずして、主によって潔められこそすれ、自已愛と世愛とをその真相とする「女」なる「人間有」の霊的弱点に向って巧みに囁きかけたサタンの声とそれに対する人間有の態度である。蛇のささやきの第一声は、「霊的糧は何処よる摂るべきか」の問題について、従来の啓示信仰のみによる態度は、ここに更めて考え直し見る必要はないかとの誘いである。これに対する人間有の答えは、一応は伝来の啓示信仰による内なる声に自らの立場を保持して、感覚的記憶的知識による信仰論を罪と認めるものであった即ち、感覚的なるものに大たる魅力を覚えつつも、神による戒禁命令を未だ信じおる点、堕罪にまでは至っていなかったのである。   
  (2)人の言を選択す(4─6)
4 蛇女に言けるは、汝等かならず死る事あらじ 5 神汝等が之を食う日には、汝等の目開け、汝等の紳の如くなりて善悪を知るに至るを知りたまうなりと 6女樹を見ば食に良く、目に麗しく、かつ智慧からんが為に慕わしき樹なるによりて、遂にその果実を取りて食い、また之を、已と共なる夫に与えければ彼食せり。
【目開け】目は理解力を表すから、真理を悟ること
【神の如くなる】神は彼を信ずる者を導き給う。それ故「人が神の如くなる」とは、人が神に導かれないで自らによって自らを導く状態。
【己と共なる夫に与えければ彼食せり】」「女」は人間の心の愛の方面を表すのに対して、「夫」はその知性の方面を表す。「食う」とは受容れること。それ故全体の意味する処は、人間の愛が先ず悪を受容れ、次でその知性が之を受容れたことを表す。
霊 義 人がその霊性低下し堕落するのは、主に向けられていた彼の愛が、自己とこの世に向けられるようになるからであって、愛が先ず誘惑され、次で知性がその愛の働きかけにより之を承認し、或はそれを正当化する為の理由や口実を設け、しかして之を行為に表す必要ある場合は、知性が之を達成する方法手段を案出するのが普通である。
 一応は感覚的知識による信仰論を否定する立場に立った人間の愛には既に昔日の天的人の霊性から人間有を愛する状態にまで低下している今、蛇の第二の言は極めて甘美に響いた。「神汝等が之を食う日には汝等の目開け汝ら神の如くなりて善悪を知るに至るを知り給うなり」との言は、先ず神に対する疑惑心を起さしめ、次でそれが、従来の神による封建的隷属状態から自らを解放し、真実を知り、自己によって自由に生きる喜びを満喫せしめることを約束するかの如くに響いた。女は魅せられた如くに禁断の樹に近づいて行った。人間の愛は感覚的知識即ちこの世の哲学や人間による神学に想をはせた。そしてかくなせばなす程、彼の人間有、即ち彼の自己愛と世愛とを満足せしめるものなるかの如くに思えて来た。遂に彼は「触るべからず」とさえ厳禁されていた人間所産の神学を受容れたが、それは人間の理性によっても受容れられ、確認せられる処となった。

 (3)人の言の与えるもの【道徳的善】(7―8)
 7 これにおいて独等の目、共に開けて彼等その裸体なるを知り、即ち無花果樹の葉を綴りて、衣を作れり 8 彼ら園の中に日の清涼き時分、歩みたまうエホバ神の声を聞しかば、アダムとその妻即ちエホバ神の面を避て園の樹の間に身を隠せり。
【裸体なるを知る】 「裸体」とは善と真を欠き、ために悪に在る状態を意味することは、以下の聖言によっても知られる(黙3・18、16・15、エゼキエル16・22、23・29)。2章終りの「裸体にて恥じず」は、本来は悪なる人間有に主が注入し給うた無垢の故に、主に受け入れられ得る状態を表すが、「裸体なるを知る」とはその反対に、悪に在る自らを認めることを意味する。
【「無花巣樹の葉を綴りて衣を作れり】 「葡萄の樹」は霊的善を、無花果樹は自然的善を表す。主がマタイ21・19において無花果樹を呪い給うたのは、霊的善は勿論、自然的善をさえ欠いている教会を呪い給うことを教えられたもの。全体の意味は、今や霊的善を失った彼らが、自然的道徳的善を以って僅かに自らを被うこと。
【日の清き時分】 教会に未だ神の囁きを覚知し得る状態が残されていたことを示す。
【園の中に歩みたまうエホバ神の声】 心中に往来する信仰の良心的声
【園の中の間に身を隠す】 「樹」は2・9の註(第五号六頁)にある如く「覚知」を表すが、それは極めて微々たるものであったことは、「樹」が単数で表わされていることによって知られる。自然的善の覚知によって心中に囁き給う神の声に対し、自らを守り弁護しようと努めたことが全体の意味である。
霊 義 天的人の状態から霊的人の状態に低下したとは云え、未だ無垢に留まり得た彼らではあったが、今や神の言よりも人の言を選択し之を受け入れた彼らは、ここに完全に無垢なる状態を失って残るぱ醜悪な人間有のみとなった。自らの真相を知った彼らは、その醜さを覆うために自然的善である道徳を身に纏った。しかしあえて信仰に生きた当時の神の言による反省が全く心中から失われたのではなかった。特に、「日の清冷き頃」彼らの心中に静に反省を促し給う神の御声を感ずるとき、貧弱ではあるが、彼らにとって唯一の砦である自然的道徳的善で自らを(鎧)うのだった。