tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

パリのノートルダム大聖堂の夢解釈! ~7

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イタリア シエナ大聖堂

 シエナ大聖堂は、多色で構成された大理石のモザイク画の床が有名です。 その面積は3000㎡にも及びます。 56の宗教画で構成され、制作年代は1300~1800年。 床に描かれた大理石の絵は、カメラに収まりきれない大きさです!

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シエナ大聖堂の舗床の「ヘルメス・トリスメギストス」

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 ヘルメス・トリスメギストスは、神秘思想錬金術の文脈に登場する神人であり、伝説的な錬金術師である。「錬金術師の祖」とされ、錬金術は「ヘルメスの術」とも呼ばれる。また、中世の錬金術師は、賢者の石を手にした唯一の人物と考えていた。

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 パリ・ノートルダムの烏(カラス)の伝説 

 (聖母の入口) かつて、玄関のこの部分には実践における重要な表象が彫刻されていた。「烏」である。錬金術的紋章の主たる図柄であるノートル・ダムの烏のまわりには、いつでも物好きな「ほら吹き」たちがどこからともなく大勢集まっていた。古い言い伝えによれば、この烏こそは聖なる預託物の置かれた場所をしめすただ一つの手掛かりであった。実際、ヴィクトル・ユゴー曰く「玄関を除くすべての部分が声高らかに歌う聖なる永遠の詩に、これほど酷い表飾りをつけたからにはまちがいなく地獄に落ちたはず」のギョーム・ド・パリスは、この巨大な身廊のどこかの柱に賢者の石を隠したのだが、その秘密の在り処は烏の視線によってはっきりとしめされていたといわれているのだ・・・・・・。

 

エミール・マール氏の「哲学者の石」批判箇所の文章

序 言  中世は芸術を教育のように考えていた。人間にとって知るに価するすべてのこと、天地創造以来の世界の歴史、キリスト教の教義、聖人たちの模範、美徳の諸段階、多様な学問や技術や職業、これらはすべて教会のステンドグラスやポーチの図像によって教えられたのである。大聖堂はまさに、十五世紀の出版業者たちが彼らの最初の刊本の一つに与えた『貧者の聖書』という、あの感動的な名で呼ばれるに価する。素朴な人びと、無知な人びと、「神の聖なる貧しき民」と呼ばれるすべての人びとは、信仰について彼らの知る、ほとんどすべてを目から学んだのであった。これらの深い宗教性をたたえた図像は、教会の教えの真理性を証しているかのようであった。深い学識に基づく計画にしたがって配列されたこれら無数の図像の前に立つ時、聖トマスが観念の世界に打ち立てたあの驚嘆すべき秩序を目の前に見る思いがする。芸術のおかげで、神学と自然学の高度な概念さえも、漠然とながら無学な庶民にまで到達し得たのだ。
 しかしながら、これらの作品の持つ深い意味は忘れられてしまった。世界についてまったく異なったヴィジョンを持つ新しい世代の人びとには、もはやそれは理解し得なくなったのである。十六世紀の後半にはもう中世芸術は謎となった。フランス宗教芸術の魂であった象徴主義は、この時完全に死滅したのである。
 長い年月にわたってキリスト教世界をはぐくんできたあの親しみ深い伝説を、教会は恥じるようになった。トリエントの公会議宗教改革に対抗するため一五四九年から六三年にかけて開かれたこの公会議は、図像に関しても厳しい決定を行ない、以後の芸術に大きな影響を与えた)は古い芸術的伝統の息の根をとめるものであった。公会議の精神に忠実な神学者モラヌスの『聖画像論』は、彼がもはや過去の作品の本質を理解していないことを示している。
・・・・
 たんなる好事家たちに至っては、大聖堂の浮彫や彫像をまるでインドの遺跡かなにかのように語っている。夢想家たちはパリのノートルダム大聖堂扉口に「哲学者の石」(錬金術師が探し求めた卑金属を金に変化させるとされる万能の石)の秘密を読み取ることができると信じたし、十八世紀末にはデュピュイ※(1)が、すべての宗教の起源は太陽崇拝にありとする彼の有名な学説の論拠の一つとして、ノートルダム黄道十二宮図を用いている。彼の弟子のルノアールに至っては、聖ドニに捧げられた一連の浮彫をバッカス神話を描いたものだと主張してさえいるのだ。
 十九世紀は、エジプトの象形文字よりももっと不可解になってしまった中世の芸術作品の意味を、苦心の末に再発見しなければならなかった。なんの準備もなしにアミアン大聖堂の扉口やシャルトル大聖堂北口の前にやってきた者は、この閉ざされた世界の中に入ることはできない。それには案内人が必要なのである。一八三〇年以来、ディドロンやカイエのような人たちが、この神秘の世界の戸口を開けてわれわれを中へ入れてくれた。しかしその後もなお、解明しなければならない謎がたくさん残っている。その上にまた、これら先達の残したばらばらな成果を秩序立て、一つにまとめ上げることもしなければならない。
 本書が行なおうとしているのはまさに、彼らの残した仕事に体系的な形を与えることである。そしてまた、可能なところではそれをさらに補ってゆくように努めたい。
・・・・
 フランスにおいてはこれまで、こうした種類の著作は存在していなかった。キリスト教図像学を創始した考古学者たちからすれば、そのような総合的作業に取りかかるにはまだ時期尚早と思えたのであろう。
しかし、七十年以上も細部の研究が積み重ねられてきた今日においては、このような試みもおそらくそれほど無謀とは思われないであろう。大聖堂のほとんどすべては、そのそれぞれに捧げられた個別的研究を持っている。それらは完全というには程遠いにしても、多くの細かく観察された正確な事実を教えてくれ、そこからなんらかの一般的な概念を確実に導き出すことを可能にしてくれる。私自身もまた、実際にその場で、これらの事実がどの程度確実かを確かめてきた。他方また、一八三〇年以来、中世芸術を対象とする多くの専門誌も発刊され、多数の貴重な事実が明らかにされてきた。
 そのまず第一に挙げなければならないのは、二十数年前からディドロンが情熱を傾けて主宰してきた『考古学年報』であろう。ヴィクトル・ユゴーの熱烈な崇拝者であるディドロンはロマン派の時代に属している。それゆえ彼は、過去を研究するにあたって、豊かな学識とほとんど同じくらい彼の想像を持ち込んでしまった。しかし、彼の犯した多少の誤りにもかかわらず、彼の世代のすべての考古学者たちを彼の情熱に感化させたのである。
 また、コーモン氏によって発刊された『遺跡調査報告』と教会参事会員コルブレ氏によって創立された『キリスト教芸術誌』は、まさに無尽の宝庫と言えるだろう。

               [ゴシックの図像学(上)]より

 

ゴシック美術の研究家アンリ・フォションの夢解釈批判 

 十二世紀の図像体系は、旧約・新約両聖書の全般にわたって釈義を行なったこと、シュジェが復活させた両聖書の象徴的な対応関係がそこに見られること、聖人崇拝にも場を与えていることによって、ある程度までゴシックの図像体系を予告しているものということができよう。しかし十二世紀の図像体系は黙示録によって大きく占められていて、黙示録から畏怖すべきもろもろの幻想を借りて来ており、さらには、栄光のうちに坐し、人ならぬ姿の者たちに囲まれている裁きのキリストの図像そのものをも借りて来ている。十二世紀の図像体系は黙示録の豊かさのすべてとはいわないまでも少なくともその色調を受け継いでいる。この色調は叙事詩のそれにほかならない。この図像体系は「魂の闘い」(プシコマキア)を武勲詩に変貌させる。キリスト教的な詩情に東方的な色合いを与え、登場する英雄たちに並はずれた大きさを与える。混沌の中からおぼろげに浮かびあがり生の掟ならざる掟に服している怪物たちを、みずからの世界に迎え入れる。十三世紀の図像体系はこうした幻想や叙事詩や東方や怪物を一度に放棄する。この図像体系は福音書的で、人間的で、西欧的で、自然である。これはキリストをほとんど信者たちと同じ場にまで降ろし、すっくと立たしめ、毒蛇猛蛇を素足で踏みにじらせている。キリストを囲む使徒たちは、キリストに場所をあけるために、またキリストの姿がよく見えるようにするために、身を離しあっているかのようである。キリストは片手をあげ、面持は教師のように厳しくまた優しく、見守る眼差しは若き父のように暖かい。なるほどキリストは相変わらずタンパンの高みに座を占めて死者の目覚めや永遠の裁きを司りはしようが、その場合ですらも、彼は福音書のキリストのままであり、人間味溢れる優しさを保つ。このような優しさがあますところなく輝きを放つのは、聖母子を慈愛深く結びつける聖母戴冠の場面においてである。聖母の若い容姿を十三世紀は情愛のこもった熱烈さで包む。この熱烈さは女性の栄光の讃美を通して女性的なるものを尊ぶものであり、これはちょうど、天使たちの美しさのうちに人の子の幼少期の移ろい易い魅力が不滅の花のように再現されているのと軌を一にしている。受胎告知から戴冠に至るまで聖母は常に美の特権を保ち続ける、人間の現し身を借りて得た美しさではあるが……。聖母はもはや古き昔の石の偶像ではなく、世の母親たちの天に在ます姉君となる。芸術が、まだ定かではない若年の相形とすでに疲れが忍びこんでいる成熟との中間で、ぴたりと生のすがたを捕捉するあの完璧の刹那、ギリシア人のいう「アクメー(絶好機)」と同じようなあの均衡と最初の開花の瞬間、このような瞬間の詩情のあらんかぎりを十三世紀の図像体系は湛えている。こうした詩情は安らぎ若返った死者たちの顔立ちにまでも広がり、また、予言者・殉教者・信仰告白者たちの歳月を刻み込んだ相貌も、伝道活動に老いた教区聖人も、その詩情から生まれ出る静かな威厳を老いのうちにも保っている。
 しかし図像体系がこのような年齢、このような調子を示しているのを、偽りの理想主義であることのしるしと考えてはならない。大聖堂にみなぎる大いなる平安も図像体系が奏でる生命の調べを打消しはしない。大聖堂は至上の幸福にのみ捧げられたものではない。大聖堂には森羅万象のことごとくが豊満にあどけなく盛り込まれている。折しも大百科全書の時代であり、中世ははじめてここにみずからを自覚し、みずからの知的能力や知識を自覚しようとしていた。一言でいうならば、中世は世界と人間との把握を試みつつあった。このような時代に建てられ飾られた大聖堂は、これまた百科全書的たらざるを得ない。大聖堂に蓄えられているものの豊かさを示そうとしたときエミール・マールは、ヴァンサン・ド・ボーヴェーの筆になる『大いなる鑑』の骨子をそのまま借りながらも、決して外面的な調和を打ちたてようとはしなかった。彼は形象の秩序と思考の秩序とを一致させようとした。彼は被造物の位階秩序に関する十三世紀の基本的観念を発展させた。彼は、論述の枠組などではなく精神的生命の「統治区分」にほかならないあの厳粛なる区分を尊重した。精神の生命は、それぞれの「統治区分」の内部において秘められたる関係が生みだすひとつのリズムに乗って動く。芸術はこの秘められたる関係に音楽的特性を賦与し、秘められたる関係の象徴的意義を表わし伝えはするが、これを隈なく明らかにしはしない。すべての形体は数の定律および表徴の定律に服する。世界は神に在り、世界は神の想念である。芸術はこの想念を書き記したものであり、典礼はおそらくこの想念の身振り表現といってよかろう。それぞれの「鑑」が映し出しているのは、生なき形象の群ではなく、生あるもののすべて、姿あるもののすべてが神の許へと絶え間なく昇り続けてゆくさまである。十三世紀の図像体系が百科全書的であるというとき、それは単にこの図像体系が系統的であるとか、全体を包括しているとかいうだけの意味ではない。この図像体系の、神を中心とする広大な天球の中では。ひとつの秘められたる力が生命の諸相をことごとく連鎖させ、牽引させ合っている、という意味でもある。
 このような世界観は当時その詩的灼熱の最高潮に達していた。まるでこの世界観はみずからの全宇宙を創り出し、また創り出すかたわらそれを発展させるかのようであった。このように宗教的思考との深い一致が見られるからといって。大聖堂の図像体系を神学の一構築物であると考えるべきではない。たしかにこの図像体系は神学的であり、その成立には神学者たちの力が大いに与っている。しかしこの芸術は、この芸術をスコラ学や典礼や象徴論を解釈表現したにすぎないものとみなそうとするいかなる定義をもはるか超えるものである。この芸術は世界を発見してなおあまりに日浅く、発見した世界へのその讃嘆の念はまだあまりにも深い。超自然的なものが自然的なものの原理そのものとなるのであるが、しかし、それでもやはり自然は存在する。十三世紀の図像体系を象形文字のように不可解なものとみなしたのはロマン派の誤謬であり、おそらくはユイスマンの誤謬でもあろう。
 ギョーム・デュランやヴァンサン・ド・ボーヴェーが行なったような大聖堂の解釈は議論の余地なく正しいものではあるが、しかし同時に大聖堂は、すべての組織・体系を超えたところにあるひとつの詩的形体である。「象徴の森を分けて、人そこをよぎり行く」のであるが、しかしそれらの象徴は生命に具わる若い相貌を示している。この点についてはマール氏がうまく解き明かしている。「中世の彫刻家たちは……若き四月の花のうちに堕落や贖罪の玄義を読みとろうとは努めない。早春の日々、彼らはイル=ド=フランスの森に出かける。森ではささやかな草木が地中より萌え出でようとしている。力強いばねのように巻いている羊歯類はまだ綿毛に覆われているが、小川のほとりのまむし草はいまにも花を咲かせようとしている。彼らは蕾や幼い葉を摘む。そして、われわれが幼児の頃にしか抱かない、しかし真の芸術家ならば生涯抱き続けるところの、あの感じやすく夢中になりやすい好奇心を以ってそれらを見つめる。」かくして人の顔の若々しさに草木百花の若々しさが呼応する。教会堂の石の中でこの二つの若々しさが永遠の春を輝かせる。    『西欧の芸術──ゴシック』 [鹿島出版会SD選書] 

 

ジョリス=カルル・ユイスマンスの夢解釈のこと 

 他方、占星学者たちは、遠い昔から、この戸口を「占星学の戸口」の名で呼んできたのであって、戸口にあらわれた図像の中に、占星学の聖母マリア像だとか、弟子たちをともなったキリストにおいて、黄道十二宮にかこまれて地平線に昇る太陽の象徴だとかをつねに見てきたのだった。こういう見方に根拠があるのか否かは別として、この見方が生じてきたのには理由があった点は、認めざるをえない。なぜなら、そんなふうに見られてきたからこそ、ポーチの一部分がこうして保存されてきたのである。そして、実際、一七九三年、革命下の市当局が、こういう古い宗教的迷信の産物をいっさい破壊させよとの布告を発したのにもかかわらず、市民ショーメットは、この装飾は、占星学の講義の表現というべきもの、哲学者デュピュイ※(1)が惑星系の確立をするのに寄与したものであると強弁して、科学の名において保護を求めたのであった。──結果として、戸口は救われた。この「王の戸口」はこうして、過去もそして現在も、なお占星術の擁護者たち、ヘルメスの徒たちにとっては、権利保持の要求ができる場所なのである。──となりの戸口、サン=タンヌの戸口とサン=マルセルの戸口の方は、むかしも、今も、なお、錬金術師たちにとってのそういう場所である。
・・・・・・・
 ・・・・現代という時代を除いて、この聖堂は、ほかならぬ象徴表現による一文書とみなされてきたということ、おおわれた言葉で自己表現をし、キリストの模範にならって、讐えを用いて語っているということである。考古学者、建築学者は、まるで死体解剖でもするように、この聖堂の解剖をしてきた。なるほど、結構にも、以来その解剖学的構造は知られるようになった。ヴィクトル・ユゴーのような小説家は、この構造をもとにして、多少とも真実めいた飾りつけを創造し、全部が全部まったく想像に成る人物をそこに住まわせた。それにしても、当時、中世の象徴表現についてなにがしかの感受力を持っていた詩人は、かれひとりだった。たとえば、二つの小さな窓を両脇にはべらせた大きい窓のうがたれている、「王の戸口」に関して、空想に富んだ比較をおし進めて、ミサの間、祭壇上で両脇に助祭、副助祭をはべらせている司祭の例を持ち出しているなどである。あとはただ、そこにある霊的存在の数々、その内的生命、一言でいうなら、その魂を描き上げることが残されているだけである。わたしたちの大聖堂についての専門的研究とは、そのようなものでなくてはならないだろう。しかし、建築学上でも、実証主義は、いよいよさかんになるばかり、残念なことに、聖職者たちまでが、本来、なおざりにしてはならず、強い関心を持つべきはずの問題から、いよいよ遠去かるばかりの有様なのだから。

[ 三つの教会とプリミティフ画家 ]ユイスマンス著 1908年遺作として出版)
※ [大伽藍1898年刊行、[三つの教会]は最初1905年に発表されている。 エミール・マールの[ゴシックの図像学1898年刊です。

 

※(1) シャルル=フランソワ・デュピユイ──── 革命期の1794年に『あらゆる崇拝の起源、あるいは普遍宗教について』を出版。太陽神崇拝の内容とキリスト神話説(イエス・キリストは、歴史上の人物として実在せず、最初期キリスト教におけるイエスは後世になって実際のできごとと結びつけられた神話的な存在であるとする議論)の先駆者です。イエスの生涯を含めた数々の古代神話が黄道十二星座上の太陽の動きに基づいていると主張している。

 ※ ユイスマンス────フランス19世紀末の作家、自然主義から出発して、やがて中世的カトリシズムの神秘に憧れ、シャルトルを題材に『大伽藍』を著した。

 

結 論

 「12の美徳と悪徳」のこれらの図像を解説するために「ゴシックの図像学(上)(エミール・マール)を詳細に読んでいると、これらの図像の多くが、ひどく損傷されたり、年月による劣化のために、修復されていると言うことです。そのために、18世紀以降の模作や作り替えがあるために、そこに中世の図像の法則を探し求めることは愚かなことであるとしています。

 しかし「大聖堂の秘密」(フルカネリ)では、これらの図像の変遷については、特に述べられておらず、これらの図像は中世からのものであることを前提として「錬金術の鍵」を説いています。

「夢解釈!5」で解説したように、「錬金術に関する」象徴図像がそれらのレリーフに彫刻されて示されている場合は、それらの図像については「錬金術の鍵」が組み込まれて表現されていると言えますが、しかし、フルカネリによる一部の図像解説では自身の錬金術師としての「大いなる作業」に無理矢理あてはめて解説しているように感じます。建立時の「錬金術の鍵」としての「大いなる作業」とフルカネリの錬金術の「大いなる作業」には食い違いがあるからでしょう。 

 ここに結論として、「パリのノートルダム大聖堂」西扉口のレリーフ群は、ギョーム・ド・パリス※1の発案により、錬金術の大いなる作業に関する象徴図像表現をキリスト教象徴図像表現の中に組み込んであるということです。

 ※1  ギョーム・ド・パリス  ギョーム・ドーベルニュ。 オーリャック生まれの高位聖職者(1180年~1249年)。1228年から没年までパリ司教。聖王ルイ下で諸任務を果たす。摂政ブランシュ・ド・カスティーユの贖罪司祭。著作に「死と道徳について」やアルテフィウスやヘルメス・トートなどの錬金術文献に言及したものがある。

◎ 扉口プログラムの決定権は、大司教や司教などの高位聖職者が握っていました。

フルカネリの錬金術は最終的に「根底に卑金属を黄金に変えるという錬金術」ですが、ギョーム・ド・パリスの錬金術は、その根底に「肉体の栄化」の錬金術だと思われます。それはヘルメス・トリスメギストスの神秘学からくるものです。

( これらのコメントは当初の案ですので、後日修正の可能性があります。(^^;)

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