16世紀初期に建てられたサ『サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会』、フランス革命の時壊され鐘楼だけが残った。サンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼のパリの基点。
サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会 ガルナレの素描(1784年)
◎ このブログは、主に次の書籍を参考に引用し、編集しています。
翻訳 小池寿子 初版1993年 白水社より
死後200年後の17世紀のことです。
『象形寓意図の書』は、初め1612年にアルノー・ド・シュヴァルリーなる人物によって、パリで出版された論集に含まれていたものです。この17世紀は錬金術熱の高まりを受け、錬金術文書の黄金時代でした。
また、この時代は神秘学の流れの中で「薔薇十字運動」の時代でもあります。
いわゆる『黄金製造』をもくろむいかさま師(ふいご吹き)と化学実験を本願とする化学者と、化学実験に基礎を置きながら哲学的思弁を展開する、自然哲学者に大きく分けられ、錬金術論争を繰り広げていました。
左の図像はニコラ・フラメルの墓石、 この墓石は、現在クリュニー美術館に所蔵されています。ニコラ・フラメルは1418年3月22日に亡くなっており、「遺言書」に表明された意思にしたがって、サン・ジャツク・ド・ラ・ブーシュリー教会身廊の端、聖母の十字架像の前に埋葬されました。
右の図像は、サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会正面入口の彫像にもとづくニコラ・フラメルの銅版画です。 以下は墓石の詳細図です。
サン・ジノサン墓地 建築家ベルニエの素描(1786年)
左の図は、ランジュリー通り沿いの墓地景観
右の図は、レ・フェール通り沿いの納骨堂全景
※ このジノサン墓地は、フランス革命後に、破壊されました。墓地の数百万にのぼる骸骨も全て移設され、今では、パリの地下にあるカタコンベ(ダンフェール=ロシュロー広場1番地)におかれています。
『 象 形 寓 意 図 』とベルニエによる素描の比較
左は、1612年の『象形寓意図』で、右は上の図の建築家ベルニエの素描を左右反転したもの。(なぜ左右を入れ替えなければならないかは、以下にあるように「錬金術作業の順番のためである」とする。)
※ 『象形寓意図の書』の著者は、金属編成のさまざまな過程を順序よく語らねばならないという絶対的な理由から、わざとこのような現実と異なる配置にしたのである。図像を左から右へと解読させていくためにふたりの聖人の位置の入れ替えであり、またその下の浅浮き彫りの小パネルも右端の二匹の龍を、錬金術の伝統的な実験過程を明らかにするために左端にもってこなければならなかったからである。
◎ アーケードの主要画面の下にある、五画面の奇妙な一連の浅浮き彫りについて、『象形寓意図の書』の「神学的な」説明によれば、「からみあった二匹の龍」は「本性上互いに支え合っている罪」であり、一組の男女は「男も女もこの世に希望を託すことを一切許されない」ことを意味しているという。またふたりの男とひとりの女は、「うちひとりは墓から、ふたりは地中から蘇った」ところであり、伝統的に最後の審判の日を示す。「起て、死者たちよ、わが主の審きの庭に来たれ」という銘文が記された巻物をもったふたりの天使も然りである。また「哀れな罪人」に襲いかかる赤紅色の獅子は、おそらく悪魔を表し、彼を「呑み込みさらってゆこうとしている」。そして、これら一連の小パネルの二番目に表された男女の表現に対する「哲学的」解釈として、『象形寓意図の書』は、実に間の抜けた説明を与えている。
ここに描かれた男は私に酷似し、一方、女はペルネルの姿をそのままかたどっている。私たちふたりに生き写しの肖像がここに描かれたのに特別の理由はない。・・・・ただ彫刻家が、当時若かった私たちの姿をここに描きたいと思ったにすぎず、・・・・。 (などと哲学的な解釈をしている???!!!)
左の『象形寓意図』は、『象形寓意図の書』の別葉であった錬金術のシンボルの図を上部に組み合わせた図像となっています。[ほとんどの錬金術関連の本では、この組み合わせた図が元々の図であるとしている!]
(カラー版は作成者により、いく種類もあります。これは単なる彩色ではなく、錬金術的な解釈による彩色だからです。)
このアーケードには、神の両側に寄進者とその妻が跪くという伝統的な宗教画像が彫られている。そこには、神の左手側にニコラ、右手側にペルネルが配され、それぞれが巻物を持っている。さらにニコラには聖パウロが、ペルネルには聖ペテロが付き添っている。神の足元にはふたりの奏楽の天使がいる。また神の頭部には、三人の天使が吹き流しを持っていて舞い、ふたりの天使がそれぞれ左端と右端にいて、やはり吹き流しを持っている。
ニコラとペルネルの頭部のうしろには、書生という職業のシンボルであるインク壺に、「N」と「F」の文字がそれぞれ記されている。下方には、五つの小さな浅浮き彫りからなる一連の図像がある。『象形寓意図の書』によると、それらは、二頭の龍あるいは悪魔、巻物に取り囲まれた男と女、復活の場面、隣の区画に表された有翼の獅子の口から出る巻物を持ったふたりの天使、そして、聖マルコの象徴であるその有翼の獅子であり、獅子はその足のあいだの地面に横たわる男を守っているように見える。
巻物の銘文は次の通りである。
Ⅰ 神の頭部のまわりの天使が持つ巻物──おお全能の父よ、おお善きイエスよ
Ⅱ 左手側の天使が持つ巻物──おお永遠の王よ
Ⅲ ニコラが持つ巻物──我が犯せし悪を除き給え
Ⅳ ペルネルが持つ巻物──キリストよ、我に慈悲を垂れ給え
Ⅴ 右手側の天使が持つ巻物──天使たちの主よ、我、汝を讃う
Ⅵ 下方のフリーズの男が持つ巻物──人は神の審きの庭にいたらん
Ⅶ 下方のフリーズの女が持つ巻物──まさにその日は恐怖の日とならん
Ⅷ 脇に天使を伴う聖マルコの象徴たる獅子の口から出る巻物──起て、死者たちよ、我が主の審きの庭に来たれ
これらはすべてキリスト教の伝統にのっとっている文である。しかし、龍は『象形寓意図の書』の著者によって、次のように解釈されている。
「・・・・・・」二頭の龍をよく見ていただきたい。なぜなら、これこそ、賢者たちが我が子にさえ明かそうとしなかった真の「哲学の原質」であるからである。[・・・・・・]前者〔下の無翼の龍〕は「硫黄」あるいは「熱質」「乾燥状態」と呼ばれ、後者〔上の龍〕は「水銀」ないし「冷質」「湿潤状態」と呼ばれる。この両者は、「水銀の泉」と「硫黄の源」より出た、「太陽」と「月」で、絶えざる火に熱せられて王者の衣を着、結合されて第五元素に変われば一切の堅固で硬く強い金属物を征服する力を持つにいたるのである・・・・・・。
しかし、この二頭の龍は、「錬金術的」な説明に頼ることなく、キリスト教的にも解釈できる。たとえば、ピサ大聖堂の、チマブーエによるモザイク画を例にとってみよう。そこでは、父なる神の両足のそれぞれの側に、滅ぼされるべき悪の象徴である龍が描かれているのである。
五つの浅浮き彫りからなる一連の図像の下には、ベツレヘムでヘロデ王の命により虐殺される罪なく聖嬰児のを描いた三つのパネルがある。
上部の人物たちのうしろには、額縁状装飾モティーフの中に「N」「F」の文字があり、左端には、インク壺を握った手が表されている。
この上部の図について 七つの区画の中に、寓意的な図が描かれています。これらIからⅦまでの番号の付せられた図は、フラメルによれば、彼が入手したユダヤ人アブラハムの著すところの書物の、七葉めごと及び第四・五葉に描かれた図の転写であるといいます。それらはたとえば、山頂に咲く花と、そのまわりを烈風を衝いて飛ぶ龍とグリフォンの図であったり、互いに相手を呑み込もうとする二匹の蛇であったりする。アブラハムなる著者によれば、それは金属変成の最初の「動因」を示すものとしています。
以下の図は、現代物理学の父、アイザック・ニュートンの未発表の手稿の一枚です。
1939年、ニュートンの未発表手稿が競売にかけられました。この文書は「ポーツマス文書」(Portsmouth Papers) として知られ、329冊のニュートンの草稿からなり、錬金術関する内容が三分の一を占めていました。そのため最後の錬金術師とも言われたりします。その手稿のなかに『象形寓意図の書』に関する資料がありました。
『象形寓意図の書』が1612年にフランス語で出版された後、テキストは他の言語(1624年に英語、1681年にドイツ語)に翻訳されました。このニコラ・フラメルの自伝の熱狂的な読者の一人だったのです。ニュートンは手で本を要約し、象形文字と呼ばれている神秘的なプレートを含むパリの墓地の彫像のグループを描いた絵をコピーしました。この原稿は、ニュートンの他の錬金術の著作と共に、イスラエル国立図書館のシドニー・M・エーデルシュタイン・コレクションにあります。
※ ニュートンは、「プリンキピア」の中で、万有引力の運動法則を発表したが、そうした物理界に神の力は働き、自然は、いついかなるところにも生き生きとした神の力が作用していると理解していた。その自然観が彼を聖書考古学や錬金術に熱中していたのでしょう。ニュートンは、メーソンの考えと同様に、すべての者に対して等しく働く神の力は、宗教を超えた絶対的な存在ととらえていました。
※ 以下はウィリアム・ブレイクによるニュートン。「万能の幾何学者」として描かれています。
※ ウィリアム・ブレイクは、芸術家として有名ですが、その初期の作品では、スウーェンボルグやヤーコブ・ベーメに強く影響されている、神秘家でもありました。スウェーデンボルグの思想はこのパリ・ノートルダムシリーズのあと創世記の『天地創造神話』や『エデンの園物語』の霊的解説で紹介していく予定です。
※ ニコラ・フラメルの実際は、敬虔なキリスト教徒であり、裕福なパリのブルジョワでもあり、慈善家であったと言うことです。
彼の職業は書生兼宣誓書籍販売人。大半の者が読み書きを知らず印刷技術がまだなかった時代、公文書を写して複製を作る彼のような職業は人々から注目され尊敬されていました。
その中でも特別の才能と運と商才に恵まれた彼は自らの工房を持つまでに至り、パリ大学の公式書籍販売人になったのです。それは「聖職者」と呼ばれる特権階級に属する職業です。彼の生きた中世初期は、一般のパリ市民は次々と増え続ける課税に苦しんでいた時代であるのに、彼は特権的地位を利用し一部の納税義務から逃れていたとも言われています。しかし彼は一財産を築いていましたが、敬虔なキリスト教徒であり、妻ペルネルとともに、その生活は質素で慈善家であったのです。
これが真実であり、ニコラ・フラメルは錬金術と関係がないのです。ですがこの 『象形寓意図の書』には錬金術のエッセンスが含まれて書かれていることにまちがいはありません。パリ・ノートルダム大聖堂に「錬金術の鍵」の一部が混入されているように・・・・・・。
錬金術関連の書籍を見るとニコラ・フラメルが夫婦ともに錬金術師であったということがさも真実であるように、どの書籍でも語られています。しかし、今回のこの一件からいろんな文献もそのまま受け入れてはいけないということを痛感させられました。
そして、錬金術師ニコラ・フラメルが伝説であったように、大聖堂のギョーム・ド・パリスのカラスの視線の先の賢者の石伝説もフィクションと思われてきます・・・
追 記
本ブログの編集をチェックをしていたら、「ニコラ・フラメル錬金術師伝説」の中に引用写本の理解の間違いを発見しました。ニコラ・フラメルによる二番目のアーケードの建築家ベルニエによる素描は、『象形寓意図』を左右反転した画像でした。ということは、『象形寓意図』の図像そのままがサン・ジノサン墓地に描かれていたと言うことにもなります。このブログの囲み記事部分はまちがいであったということになります。「反転された素描」と『象形寓意図』を比較した以下の図を確認してください。あきらかに左右反転の図で書かれているのです。(ニコラ・フラメル錬金術師の批判書を書いたヴィラン神父も『象形寓意図』の図像そのままを確認されていたようですから。)
しかし、この『象形寓意図』から直ちに、ニコラ・フラメルと錬金術とが関係あるとも言えないでしょう。
中世の象徴的レリーフから無理やり錬金術の鍵として解釈することが正しいのか、また、パリ・ノートルダム大聖堂のレリーフもすべて錬金術的に解釈できるのでしょうか。確かに一部のレリーフは明らかに錬金術のシンボルが使われていますが、無理矢理解釈している箇所や解釈出来ない箇所は破壊が激しいので解釈できないとか、しています。
この『象形寓意図の書』の解釈も、下方の五つの小さな浅浮き彫りについて、錬金術的解釈は一カ所のみであり、他の図については錬金術的な解釈はしていません。かつ現在の『象形寓意図』には、さも「錬金術の鍵」があるように、上部に錬金術のシンボル図像が書き加えられて作成されているのです・・・・・・。
『象形寓意図』とベルニエの左右反転した素描との細部の比較
同じ部分を拡大比較したものです。そっくりそのままの図像です。単に聖人の位置と小パネルの位置を替えただけではではありません。
しかし、この素描の下部にある書き込みは左右反転していません。ですから、この写本自体の経緯が問題だと思われます。これが建築家ベルニエの素描であり、本物であるのか、またその後の誰かが偽造して作成したものであるのかです。【 ※ まれに左利きの人は、鏡文字や左右反転の図を書くことがあるようです。】
これはサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会正面入り口テュンパヌム。1389年、ニコラ・フラメルにより建立。
これは、ニコラ・フラメルを表す「N」と「F」のイニシャル文字部分を拡大したものです。建築家ベルニエの素描とされるものは、この文字が左右逆の位置に、かつ反転されて表現されています。(寄贈者がそのイニシャルを左右逆に、かつ鏡文字で表現するとは考えにくい!)
※ ニコラ・フラメルの生没年は 1330~1418年。
サン・ジノサン墓地にアーケイドの建立は 1407年。
『象形寓意図の書』は、 1612年。
フラメルの建造物を巡る『錬金術ツアー』 1724年前後。
サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会のヴィラン神父の『ニコラ・フラメルとその妻ペルネルをめぐる批判的伝記』は 1761年。
建築家ベルニエが描いた素描は 1786年。
著 者 ナイジェル・ウィルキンズ──中世フランス文学および音楽を専門
翻訳者 小池寿子───日本の美術史家、國學院大學教授。専門は15世紀北方フランドル美術・中世美術を専攻し、美術作品を通じて、その死生観・身体観を読み解くことを研究主題としている。 『死者のいる中世』、『死を見つめる美術史』
【コラム】⑥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
日本でもこのような伝説がいろいろあります。義経伝説、はたまたジンギスカン伝説や弘法大師伝説など、また『東日流外三郡誌』の偽造書事件などなど、いろいろな伝説があります。ここにひとつの伝説を紹介します。伝説はこのようにして作られて行くのでしょう!
以前、旧約聖書について調べていましたので、むかしむかし、ヘブライの人が来たことがあったのかもしれないと訪ねたことがあります。 しかし、その真実は
「新・トンデモ超常現象 56の真相」より 太田出版
伝 説
青森県新郷村にはキリストの墓がある!
青森県三戸郡新郷村。もと戸来村と呼ばれたこの寒村にキリストの墓があることは、広く知られている。この戸来という村の名前自体が、ヘブライがなまったものなのである。
村に古くから伝わる言い伝えによると、ゴルゴタの丘で十字架に掛かったのは、実はイエスではなく、イエスの弟のイスキリであった、という。
難を逃れたイエスは、北欧、アフリカ、中央アジア、中国、シベリアとまわって、アラスカから北米に渡り、南米を一周してから、再びアラスカを通って日本の八戸へと上陸した。日本に渡ったキリストは、八戸太郎天空と名乗って、そのまま青森に居着いた。ミユと名乗る妻をめとり、そして西暦81年4月5日、118歳で長寿を全うして、戸来の野月に葬られたというのである。
キリストの子孫といわれる沢口家の人々が今も戸来村に住んでいるが、彼等は皆、赤ら顔で鼻が高く、まさにユダヤ人の顔をしている。キリストの子孫である証明に、沢口家の家紋は、ユダヤのマークである、ダビデの星なのである。そしてキリスト直筆の遺書も、現代に伝わっている。
日本にキリストの墓がある、というこの話は、確かに一見、馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれない。だが、こういう伝説が、古くから青森の片田舎に伝えられているということこそが大事なのではないだろうか。・
たとえば、ヘブライ学の泰斗、川守田英二博士も、戸来村に伝わる謎の歌「ナニャドヤラ」を、ヘブライ語の歌であると鑑定しているのである。
たとえ奇妙に思われる伝承であっても、なんらかの歴史的真実を伝えている可能性はあるのではないだろうか。真 相
戸来村(現・新郷村)のキリストの墓の伝説は、村人の間で、代々言い伝えられてきた伝統のある伝説などではない。昭和10年に、村の外部の人間が急に言い出して、「創作」されたお話なのである。
それまで戸来村には、キリストの落人伝説など何もなかったのである。
キリスト伝説が生まれた経緯について、新郷村発行の観光パンフレット「キリスト渡来の地・しんごう」は、こう伝えている。ゴルゴタの丘の十字架で処刑されたはずのイエス・キリストは実は日本に逃れ、青森県三戸郡戸来村(現在の新郷村)に渡来して生涯をとじたという。
しかし、これは伝説でもなければ、この地方に古くから伝わる話でもない。昭和十年茨城県磯原町に住む武内宿弥の末えい武内巨麿らが、当時の戸来村を訪れ、『キリストが戸来に住んだ』そういう古文書が武内家の文庫から発見されたというのだった。一行は、当時の村長佐々木伝次郎氏らと共に、小高い笹ヤブの中に二つの土まんじゅうを見つけ、右のキリストの墓で『十来塚』と呼び、左側は弟イスキリの『十代塚』であるという。キリストの墓があるとされている新郷村そのものが「伝説でもなければ、この地方に古くから伝わる話でもない」と断定しているわけである。
そもそも、戸来村にあった単なる土盛りを、「キリストの墓」にしてしまうきっかけを最初に作ったのは、青森県七戸町出身の日本画家、島谷幡山(1876-1966)という人物だった。この地元青森出身の画家は、戸来村の西に広がる十和田湖を好んで絵の題材としており、十和田湖の宣伝に務めた人物としても知られていた。
そんな島谷が戸来村に最初にやってきたのは、昭和9年10月のこと。キリストの墓の発見騒ぎが起こる1年前のことだった。鳥谷を戸来村へと招いたのは、当時の村長の佐々木伝次郎で、佐々木は、村の観光開発に非常に熱心な村長として知られていた。
ところが、島谷が招かれるその直前に、十和田湖が国立公園に指定されることが決まったのに、戸来村自体は、公園の区域外とされてしまった(十和田湖が国立公園に指定されたのは昭和11年)。
このことを非常に遺憾に思った佐々木村長は、どうにか村を宣伝したいと思っていた。鳥谷を戸来村に招いた目的も、村おこしとその宣伝に尽力してもらうことだった。
しかし、佐々木村長がいくら村の発展を望んでいようが、画家の島谷が十和田湖を売り込もうと狙っていようが、そこから突然、キリストの墓を作って村おこし、という奇想に向けて飛ぶには、まだちょっと距離がある。
キリストの墓が戸来村にできてしまったその裏には、鳥谷が持つもうひとつの顔が大きく影響していたのである。実は、この島谷という人物は、今で言うところの超古代史の大ファンでもあったのだ。
島谷は、超古代史界の大物で、日本にピラミッドがあるということを最初に言い出した酒井勝軍(1874-1940)の知り合いでもあった。鳥谷は、戸来村に招かれる直前の昭和9年5月に、この酒井と同行して、日本のピラミッドの認定第1号(?)となった「比婆山ピラミッド」の探索を行なっていたのである。
それから5ヶ月後、佐々木村長の招きで戸来村に出向いた島谷が訪れたのは、後にキリストの墓とされる沢口という地区から西に4キロほど入った、羽井内という集落にある大石神という巨石だった。東西に割れ目が出来ているこの磐境を見て、先に比婆山の「ピラミッド」を見て帰ってきたばかりだった鳥谷は、これこそ日本第2のピラミッドである、と言い出したというわけである。
昭和9年12月1日付の『東奥日報』には、「太古日本、第二のピラミッド発見-三戸村戸来村に於いて」という、その時の幡山の手記が掲載されており、図らずも太古日本第二のみちのくのピラミッドを仰ぐことができたのは何たる幸せぞ」と記されている。
ピラミッドが現れれば、キリストの墓まで行くのは、もう一息である。
翌年には、島谷と一緒に「比婆山ピラミッド」の探索を行なった、日本のピラミッドの権威、酒井勝軍が戸来村を訪れて、このみちのくのピラミッドの存在を確認する。そして昭和10年8月、当時、日本の超古代史界の最大の元締めであった竹内巨麿(1875-1965)という人物が、戸来村を訪問し、戸来村のキリストの墓伝説が誕生することになる。
この竹内巨麿というのは、古事記に、成務、仲哀、応神、仁徳朝の大臣を務めた伝説上の偉人として記されている武内宿禰の末裔を名乗る人物であった。一般には自分の家に代々伝わってきたという『竹内文書』と呼ばれる超古代文献を公表した人として知られている。
古事記や日本書紀をはるかに遡る神代の時代に、超科学を誇る大帝国が日本にあったと伝える超古代文献は数あるが、ぶっ飛んでいる超古代文献の中でも、この竹内文献は、まさに極北的存在である。
竹内文献は、まだ宇宙創造のビッグバンさえ起きていなかった紀元前3175億年にすでに初代天皇がいた、などと述べており、その尋常でない飛び方から、ファンが多い超古代文献なのである。
この竹内巨麿が戸来村から帰って来た後の昭和10年10月10日に、キリストの墓が戸来村にあった、と正式に発表して、戸来村のキリスト伝説が世に知られるようになったのである。
戸来村を宣伝したいという佐々木村長の思いは、これで報われたわけだが、まさかキリストの里にされるとは思っていなかったことであろう。
キリスト伝説の証拠とされるキリストの遺書と称する文書も、確かに実在はしたようだ。だがそれは、竹内巨麿が、戸来村を訪問した後に、自分の書庫から「見つけた」と言って持ち出してきた代物である。キリストの遺書だというのに、なぜかカタカナで書かれていて、文書の冒頭でキリストは自分のことを「イスキリスクリスマスフクノ神」と、まるで盆と正月が一緒に来たような名を名乗っている。イスキリスクリスマスフクノ神様が、本当にキリスト様ご本人と信じるかどうかという判断は、ここまで読んでこられた読者の良識に任せたい。
なお、キリスト伝説の傍証としてよく引き合いに出される川守田説も実在はしている。川守田英二という神学博士が「ナニャドヤラ」という盆踊りの歌をヘブライ語の歌ではないかと言い出した、というのは確かである。しかし、その川守田本人が、自著の『日本ヘブル詩歌の研究』の中で、
一九三五年(昭和10年)の夏、私が戸来村に踏み込んだ時には未だキリストの墓はなかった。(中略)武内宿禰の末孫と自称する神官武内巨麿氏の一味、酒井勝軍、鳥谷幡山、山川菊枝女史など寄ってたかって戸来村に『キリストの墓』を作ったというが、私はそれについて何の関係もなく、責任も負わざる者である。
と書いているのである。つまり、川守田氏は、自分の説とキリストの墓伝説を結びつけられることを、非常に迷惑がっていたのである。
「ナニャドヤラ」は、戸来村のキリスト伝説とむすびついて全国的に知られるようになったので、戸来村固有の歌と思われているが、それは間違い。
岩手、青森、秋田にまたがる旧南部藩内で広く盆踊りの歌として歌われてきた。戸来村は、その中のひとつにすぎず、キリスト伝説とはもともと何の関係もない。
沢口家の人々が、ユダヤ顔という話も、沢口家のおばあちゃんの写真をみる限り、そのようには見えない。どう見ても普通のおばあさんである。
沢口家の家紋がユダヤのダビデの星というのも違う。ダビデの星の六芒星ではなく、五角形の桔梗紋が沢口家の紋である。角がひとつ足りない。
また万が一、六芒星が紋であっても、それがユダヤ由来である可能性はない。ユダヤ人全体のマークとして六芒星が使用されるようになったのは、せいぜい中世の終わりくらいからのことであり、キリストが自分の紋としてダビデの星を用いていた可能性はないのである。
また、戸来という地名も、有名な八戸をはじめとして、鳥谷幡山の出身地である七戸や五戸といった他の戸のつく地名と同様に、江戸前期に南部候が領主だった時代に付けられた地名とみられている。ヘブライとは、音が似ているような気がするだけで何の関係もないのである。
一言で言えば、戸来のキリストの墓伝説は、結局なんでもないとしか言いようがないものである。 ( 皆神 龍太郎 )
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥【コラム】⑥
◎ 本ブログも、若干修正していきますのでご了承ください。
アマゾンのコンピュータが推薦・紹介してくれた、この本に夢中になり、今回のテーマが変更されてしまいました。次回はオカルトとユゴーなどを予定しています。