tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

『 視霊者の夢 』の夢解釈 ! ~5

  天 地 創 造  《日の老いたる者》

                                          by ウィリアム・ブレイク(1757.11.28~1827.8.12)

                     イギリスの詩人、画家、版画家

ブレイクはその独自の考えにより同時代人には変人とみなされていたが、その表現力と創造性、そして作品内の哲学的で神秘的な含意において後の批評家からは高く評価された。彼の絵画や詩は、ロマン派のものとみなされている。聖書に敬意を払いながらも、イギリス国教会(実際にはほとんど全ての形式の宗教団体)に敵対的であったブレイクは、フランスおよびアメリカの革命における理想と野望の影響を受けた。後に彼はこれらの政治的信念の多くを否認したが、政治活動家トマス・ペインとの親密な関係は維持した。彼はまた、エマヌエル・スヴェーデンボリのような思想家の影響を受けていました。 

コンパスを持つ創造神
《日の老いたる者》はまれに見る彼のお気に入り作品であり、宇宙の創造神を描いている。その男の名前はユリゼンという。ブレイクの複雑な神話の中で、従来の道理や法則を体現した存在である。雲のようなものを背景に、円形のデザインの中にしゃがんでいる。彼の伸ばした手にあるコンパスは、より下の空虚な暗闇へ差しかけている。

このようにコンパスを使った比喩的表現は、次の年に完成させた彼の「ニュートン」という作品においても用いられている。彼は普段はひげのある老人として描かれているが、時として建築家の道具を持ち、宇宙や網を創造し、拘束する。それにより法と慣習的な社会の網の中にいる人々を罠にかける。(本ブログ、ノートルダム大聖堂の夢解釈~11にこのニュートンの図像があります。)

水彩画法の食刻で作られたこの作品の《日の老いたる者》は、世界中に13のコピーがある。それぞれのコピーは様々な図書館、博物館、大学にあり、それぞれが独特である。それはドレイク自身が手作業で版画を着色しており、そのような独自の制作過程を持っていたためである。

  神秘家としてのブレーク…………8才の頃には、最初の幻視があり、深夜に庭の木に天使が舞い降りてキラキラ輝いているのを見ている。また17才の時は、ウエストミンスター寺院でキリストや使徒たちが一緒にいたり、修道士や、司祭たちの大行列の幻視を見ています。そして30才の時、弟のロバートが亡くなり、それに前後して彼の霊と対話をして、レリーフエッチングの手法を教えられたりしています。その後32才の時は「新しきエルサレム教会」総会に夫婦で出席し、スウェーデンボルグの教義への帰依を表明し署名しています。そして「神の愛と神の知恵」「神の摂理に関する天使の知恵」「天界と地獄」などに挿絵の書き込みをしたりしています。※ これらは、本人が「ビジョン」と呼ぶ幻視の能力といわれています。
 ところで、この天地創造 日の老いたる者』の左の足元をよくご覧ください。何か「蛇」のようなものが踏みつけられているように見えないでしょうか?? この図案の他のものは布であったりしますから明らかに違います。これは神に踏みつけられている蛇を表して、「天地創造」がなされていることのようです。するとこの蛇とは何でしょうか?? それは「エデンの園」でイブを誘惑したあの言葉を喋る蛇のことです。これについては、「エデンの園」の聖句の霊解釈のときに解説されます。!!

          

                                  新   教   会  機関誌      鳥 田 四 郎 主筆より引用

       

        本『創世記霊解』は、もっとも忠実な客観的紹介でなく、私自身の主観的理解に

     よる紹介で自由な解釈をしている所も多いと思いますから、あらかじめご了承下さい。

         『 創 世 記 霊 解 (2) 』                          

 創造第七日(創世記2・1-3)
     ───新生人(天的人)と安息日───

1 かく天地およびその衆群悉(ことごと)く成りぬ  2 第7日に神その造りたる工(わざ)を竣(おへ)たまへり、すなわちその造りたる工を竣て7日に安息(やすみ)たまへり、3 神7日を祝して、これを神聖(きよ)めたまへり、そは神その創造(つくり)なしたまへる工をことごとく竣(おへ)て、この日に安息(やすみ)たまひたればなり

【天地・その衆群】1章1節の註に在る如く、「天」は内なる人、「地」は外なる人、「その衆群」は天の軍勢で、太陽・月・星を意味し、1章16の註に在る如く、太陽は愛、月は信仰、星は信仰の知識、
【神の工】 天的人は神の工、またエホバの聖手の工、エホバの指の工と呼ばれる。それは、神のみが人を新生せしめ、天的人となし給うからである。
霊 義 6期(6日間にたとえられている)に関わる信仰巡礼の旅は長かった。ただし第6日目には神の像整い、その理解力(男)も意志(女)も共に結合に向って準備せられていたが、遂に機は熟して両者は結び合されてめでたき結婚が成立した。即ち太陽によって象徴せられる愛(意志に宿るもの)と、月によって象徴せられる信仰(理解力に宿るもの)とは、共に内なる人の天に在って一体となり外なる人の地を照し温め、星(信仰知識)また同じく無数に天に輝くに及んで、「天の衆群悉く成った」のである。かく我らの心の内なる人と外なる人とが神に因って、本来あるべき神の子の状態に秩序づけられるに及び、神の6日間の労苦は茲に漸く実を結び、その工は竣工せられるに至った。かくして神はこの創造第7日目に安息なし給い、これを祝し、この日を記念聖別して安息日と定め給うたのである。
 我らの心は神によって新生せられるまでは、かのアウグスチヌスがその懺悔録の冒頭に告白しているように真の安息を有たない。入信前は全く理解せられなかった啓示の真理、即ち神や主の受肉、贖い、栄化、その他凡て救いに関する信仰知識が、入信後は、最初はおぼろげに、そして次第に明確に理解せられ受入れられてゆき、かくして我らの理解力は比較的に早くよく新生せられるのである。併し生来の我らの意志は自我愛と世愛とにあって神と神の誠を喜ばぬものであるから、旧い意志を新しい理解力に服従させ、神の道に向って意志させ行動させることは、内的矛盾と戦とを経験させられることになる。それ故そこには、自由・喜び・平安がない。然るに今や神によって、更に意志が新たにせられるに及んで、この新しい意志は神の愛を受入れることにより神とその誠めを喜ぶものとなった。それ故両者の間に一致と調和が生じ、心の中には自由・平安・悦びが宿るに至る。かくして新生人には「世の与ふるが如きものならぬ、人の思にすぐる神の平安」が衷に巣喰うに至り安息させられるのである。併し彼の経験する安息は、主に因るものである。即ち新生前、彼の霊魂に経験させられた不安と戦とは、実は彼の心を舞台としてなされた主と地獄との戦に因るもので、彼は自由意志によって主の支配を迎えたが為に地獄の勢力が駆逐せられ、安息の主が彼の心を支配するに至ったのが新生人の心の相である。
 十誠の第四誠に安息日巌守の戒律がある。これは宗教実生活上極めて有効であり、一週間のうち、この一日を聖別し、六日間の勤労と俗事から離れて、礼拝、聖言研究、神と隣人愛の奉仕及び、休息と軽い慰安とに用いることは、正しい宗教生活に必要である。ただしイスラエル教会において之が戒律とせられたのは、一つの霊的真理を象徴的に教えるものであって、恰も同教会が、幕屋・神殿の祭事や律法で、象徴的に、主と神の国に関する霊的真理を教えているのと同類である。
 然らば安息日とその戒律は何を意味するか。ヘブル原語で安息は「シャーバス」で「休息」を意味し、主は安息それ自身で在し(マルコ2・27)、主の御支配を受け入れている神の国・教会・新生人はまた主に因って安息に在る。それ故新生人は主の聖翼(みつばさ)の蔭に宿り、自己の欲するところに由って行動せず、主の喜び給うことを主に従って為すとき、彼は主の祝福のうちに在ってご平安と喜悦は失せないが、之に惇って、自己に由り、自己の欲するところを為すとき、安息は喪失せられる。それ故安息日厳守の律法の霊義は、新生人また教会が、主の中にのみ留り、そこより一歩も外に出でることのない様にとの戒めである。

 もし安息日に汝の歩行をとどめ、わが聖日に汝の好むわざを行はず、安息を称えて祭日となし、エホバの聖日をとなへて尊むべき日となし、之をとうとみて己が道をおこなはず、おのが好むわざをなさず、おのが言をかたらずば、その時汝エホバを楽しむべし、エホバ汝を地のたかき処にのらしめ、汝が先祖ヤコブの産業をもて汝をやしない給はん。こはエホバ口(みくち)より語りたまへるなり。(イザヤ58・13-14)。


 右の聖言は天的人の在るべき状を表している。ここに[地のたかき処にのらしめ]とあるのは、主に在って生き、思うこと、語ること、行うことのすべてが、自己に死んで主によってのみなす者の亨受する内的平安と幸福を、また「ヤコブの産業をもて汝をやしない給はん」とあるのは、同じくかかる天的人の楽しむことの出来る外的静謐(せいひつ)と喜悦の状を約束して居られることを意味している。
  それ故、安息日戒律を霊的に守る生活とは、主が、ヨハネ伝第14章から第16章までに教え論して居られる主の誠命を守る主に在る生活であって、かかる天的生活態度に在るとき、我らは、何ものによっても乱されない主の与うる平安と、何ものも奪うことの出来ない主の与うる喜悦とを味い、多くの結実を受けて神の栄えを表わすことが出来るのである。かかる人こそ、パウロのいう「天の処に坐せしめられ」た人である(エペソ2・6)

     天的人の形成(創世記2・4-7)

4 エホバ神地と天を造󠄃りたまへる日に、天地の創造󠄃られたる、その由來は是これなり 5 野のすべての木は未だ地にあらず野のすべての草は未だ生ぜざりき。そはエホバ神、雨を地に降らせたまはず、また土地を耕す人なかりければなり。 6 霧地より上りて土地の面を遍󠄃(あまね)潤(うるほ)したり。7 エホバ神土の塵を以て人を造󠄃り生氣(いのちのいき)をその鼻にふきいれたまへり、人すなわち生靈(いけるもの)となりぬ。

【エホバ神】 [エホバ]は神愛を、「神」は神真を、「エホバ神」はその両者を意味する。

【野・土】 霊的人の外なる人は「地」(earthエレツ)と呼ばれるのに対して、天的人の外たる人は「野」(fieldサアデー)また土」(groundアダーマー)と呼ばれる。
【野の灌木・野の草】 共に天的人の外なる人に生ずる凡てのもの特に、霊的天的出所の理智や記憶的知識
【雨・霧】 外なる人に宿る平安
【土の塵を以て人を造り】 天的人の外なる人が形成されること。
【生気をその鼻にふき入れ】信仰と愛の生命を外なる人に与え給うこと
【人生霊(いけるもの)となる】 外なる人が生かされること
霊 義  前章においてすでに人間創造について録すところがあったにも拘らず、本章において別の形において人間創造が繰返されているのは、前章においては霊的人の創造を述べているのに対して、本章においては新生された天的人のそれを説いているからである。この事は、創造者の名が前章に於ては、愛よりも信仰をより多く受ける傾向に在る霊的人の創造者の名として、神真を意味する「神」が用いられているのに対して、本章に於ては、愛と信仰とをひとしく受入れる天的人の性格のそれに適うように、神愛と神真の両者を明示する「エホバ神」が用いられていること、前章に於ては、外なる人を象徴する語として「地」が用いられていたのは対して、本章に於ては「野」「土」が用いられていること、また、既に前章に於て植物や人間が造られたことになっているのに、本章においては、初めにこれ等のものがなかったと録されていること等からも理解されよう。
 すでに説いたように、霊的人の状態に在るうちは、人は内なる人は新にされて神のものとなっても、人間の言行に直接結び附いている心、即ち外なる人は神のものとなっていず、耕す人もない砂漠の様な荒地で、其処には草も灌木も生じ得ない状態にある。然るに前述の如く、外なる人が内なる人の支配下に入るに及んで、両者間に一致と調和が生れ、平和の安息が生ずる。かくして平安の霧は外なる人の「地」より上り、「雨」のまた地を潤すにあって、「野の灌木」、「野の草」を以て象徴されている霊的天的出所の理智や記憶的知識に属する信仰知識が与えられ、更に第7節において、神の生命、殊に愛の生命が吹入れられるに及んで、ここにその外なる人は神のものとなり、真の人が生れさせられ、生ける霊とせられるのである。

  天的人の形成(創世記2・8-17)
         (1)天的人の覚知(8-9)
8 エホバ神エデンの東の方に園を設て、その造りし人をその処に置たまえり、9 エホバ神、観るに美麗しく、食ふに善き各種の樹を土地より生ぜしめ、また園の中に生命の樹および善悪を知る樹を生ぜしめ給へり
エデンの東の方に園を設く】 [エデン]は愛を、「東」は主を、「園」は了知又は叡智(intellgence)を霊義としていることは、他の聖言によっても知られるところである(イザヤ51・3、エゼキエル43・1-4等)。それ故「エデンの東の方に園」とは、主にある愛から発している知性を意味し、自己とこの世を愛する愛から発しているそれとは対照的なものである。
【樹】 一般には情動の方面から考えられた人、または、その覚知(perception)を意味する。(エゼキエル17・24、詩一1・13.マタイ3・10等)
【観るに美麗く、食ふに善き樹】前者は真理に対する覚知、後者は善に対する覚知。
生命の樹】主より来る愛と信仰
【園の中に】「園の真中」にであるから、内なる人の意志に。
【善悪を知る樹】「生命の樹」と反対に、主によらぬ自己による感覚的知識による信仰
霊 義 人は主によってその内なる人許りでなく、その外なる人も新たにせられると、彼の意志は主に支配されているから主への愛に居る。そして正しい信仰は、この主に在る我等の愛を通じて主より来るものである。それ故、天的人の知性は「エデンの東の方に設けられた園」の形にある。そして彼の知性の園には、凡ての真理を覚知する能力即ち「観るに美麗しき樹」や、凡ての善を覚知する能力即ち、「食うに善き樹」が、それぞれの用に応じてその諸種の樹々として繁茂しているのである。そして人間はその内なる人の意志に、神よりの愛と信仰とを覚知する。生命の樹が植付けられると共に、サタンの樹なる「善悪を知る樹をも園の一隅に置かれることにより、単なる機械や動物とは異なった自主に在って善なる神に生きるべきものとせられたのである。
 以上によった知ることは、我らの霊が主によって新生させられて天的人とせられるなら、我らは「エデンの東の方に設けられた園」に住うことを許されているものであるから、我らの内には。神の真理や善を覚知するための諸々の樹々が生命の樹と共に備えられるということである。これについて主は我らに[助け主。即ちわが名によりて、父の遣したまふ聖霊は、汝らに万の事をおしへ](ヨハネ伝14・26)と教え給い、また[なんじらの衷には、主より注がれたる油とどまる故に、人の汝らに物を教うる要なし。此の油は汝らに凡ての事を教へ」(第一書2・27)とヨハネは説いているのである。それ故我らは、後述する如く「善悪を知る知慧の樹」には極力警戒しつつかのベンゲルが教えている如く、聖書を「祈りつつ読み読みつつ祈る」ことにより、天来の糧に事欠かぬものとなることが出来るのである。

   (2)天的人の知性の秩序(10-14)

10 河エデンより出で園を潤し、かしこより分󠄃かれて四つの源となれり 11 その第一の名なはピソンという、これは金あるハビラの全󠄃地をめぐる者なり 12その地の金は善し、又ブドラクと碧玉かしこにあり 13 第だい二にの河かはの名なはギホンといふ是これはクシの全󠄃地ぜんちを繞めぐる者ものなり 14 第三の河の名はヒデケルという、これはアッスリヤの東に流るるものなり。第四の河はユフラテなり。

【河エデンより出で園を潤し】[河]は豊富な真理又は虚偽を意味するが、ここではエデンより出る河であるから愛より出る智慧を意味する。この智慧が人の知性を潤すこと(イザヤ58・10、11、民数24・6、エレミヤ17・78、エゼキエル31・4、7-9
【ピソン・ギボン・ヒデゲル・ユフラテ】「ピソン」は愛より出る信仰の叡智、【ギボン】は善と真理、即ち愛と信仰に属する凡てのことに関わる知識(cognitio)、「ヒデケル」は理智、「ユフラテ」は記憶的知識を意味する。
【ハビラ・クシ・アッシリヤ】「ハビラ」は内なる人の意志の方面、[クシ]又は「エチオピヤ」、「シバ」ヽは内なる人の理解力の方面、[アッシリヤ]は外なる人の理性的心。【金・宝石】「金」は、智慧叉は愛の善を(エゼキエル28・4、マタイ2・11、詩72・15)、「宝石」はアロンのエポデの胸牌や肩帯に着けられた宝石や、新エルサレムの都の石垣やその基となっている宝石によっても知られるように、信仰の真理を象徴するものである(出28・9-22、獣21・18-21、エゼキエル28・12-15)。
霊 義 天的人の知性は次のように秩序付けられていることを知る。即ち、「東」なる主より発する智慧が先ず我らのエデンたる愛に注入され、そこより出でて我らの叡智の園を潤すことから始まる。次にこの神の智慧の河は四つの河の源となる。第一の河ピソン即ち、愛より出る信仰の叡智の流は内なる人の善き意志の心に流入して、そこを潤し、そこで金や宝石、即ち善き愛と正しい信仰とが生ぜしめられる。次に第一の河から分れた第二の河ギボンは愛と信仰の流れとして内なる人の理解力を潤し、更にそこから第三の河ヒデケルは理性の流れとして外なる人の理性的心を潤し、そこより分れて最後に、霊的には人間の知性の末端である第四の河ユフラテ即ち記憶的知識となって終わるのである。
 以上によっても知られるように、信仰人の正しい知性は先ず内なる意志が[東]なる主比向つて開かれ、心の内奥に愛のエデンを設けていただくことから始まる。そしてこの内なる人の意志から、モの理解力へ、それより更に外なる人の意志と理解力にと次第に支配と感化が及んで行くべきものである。即ち主より与えられた智慧が叡智となり理知となり最後に感覚的な記憶的知識となるのである。それ放、真の信仰大は一つの自然物をも、この世の人が単に感覚的記憶的知識によってのみ認識理解するのと異り、創造者の聖子の業として、対応による霊的世界の事実の顕現として認識理解し乍ら、理性や感覚的知識を駆使して真理を学ぶのである。然るに、茫と反対に記憶的感覚的知識から霊的宣循を知ろうとするのが、後述する如く[善悪を知る樹の果を食う]この世の智者の態度で、自ら賢からんとして愚かとなっているのである。
 なおここに附言しなければならないことは、聖言の内的意味は、単に普通名詞のみに有るのではなく、固有名詞例えば、地名・人名・河の名等にもある、ということである。そして地名などの場合は、神がアブラハムに「我この地をエジプトの河より、彼の大河、即ちユフラテ河までなんじの子孫に与ふ」(創15・18)と約束なし給うた言にも表れているように、聖書の古代人に中心となっている土地はカナンで、これは天界また教会を意味して居り、エジプトのナイル河や、ユフラテ河は東西の両端であるから、両河及びエジプトは、人間の知性の最外部をなす感覚的記憶知識を意味するのである。

   (3)天的人の知性に関する主の誠(15-17)
 15 エホバ神その人をとりて、彼をエデンの園に置き、これをおさめこれを守らしめ給へり 16 エホバ神その人に命じて言いたまひけるは、園のすべての樹の果は、汝意󠄃のまゝに食󠄃らふことを得  17 しかれど善悪を知るの樹は汝その果を食󠄃ふべからず、汝これを食󠄃らう日には必ず死ぬべければなり。
エデンの園に置き、これをおさめこれを守らしめ給う】天的人に託されている凡ての神の善や真理を、自己のものとしてでなく、神よりのものとしで亨受し楽しむことを許されたこと。
霊 義 前述の如く、天的人の知性の秩序は主より出で、内なる人を通って外なる人の理解力の末端にまで及び来るもので、その反対の人間的な感覚的知識から霊的天的真理を探求するものではない。彼の知性がこの秩序に従って居るなら、彼は凡ての善と真理即ち、凡ての愛と信仰とは主より来るものであって自己に由来しないことを覚知し、エデンの園を管理しつつ、そこに生じている「観るに美しく、食うに善き各種の樹を楽しみ、生命の樹より愛と智の生命の果を摂ることが出来るのである。しかるに神は園の一隅に蹟の石である「善悪を知る樹」をも用意し給うことにより、人間を自主なる者の責任に於て、悪を棄てて善を選び、悪魔を退けて、主に従うことを命じ給うためである。これは神の人間に対する最高の愛の表れであって、もし人間が善以外を志したり行ったりすることが出来ないものとして造られていたなら、人間は本能によって生きる動物と異らぬ存在となり、そこには最早善も存在しないことになる。神は人間を奴隷として造り給わず、子として造り給うたのである。
 しからば善悪を知る樹の果を食うとはいかなることであり、またそれが何故天的人の楽園喪失となるのであるか。是については次章に於て詳しく学ぶことであるが、重要なことであるから数言これについて述べることにする。
 既述の如く、凡ての善と凡ての真理とは神より来り、その善を意志し、その真理を理解する能力もただ神よりのみ来るのである。そして神は、かかる霊的賜物を人間の心の最奥部なる内なる人を通じて外なる人に及ぼし給うことは前述の天的人の知性の秩序の如くである。しかるに善悪を知る樹の果を食うとは、これとは反対に、人間の外なる人の最外端部の知性である感覚的記憶的知識から出発して、次第にそれより内的な知性に働きかけて、信仰の神秘の世界の知識である神・霊界・救等の問題を究めようとの、バベルの塔を建設せんとする傲慢な暴挙を企てることを意味しているのである。これを今、実際的例で説明するなら、いわゆる神学研究の可否について述べられる。即ち、もしも神によって導かれて相当の信仰程度にまで成長した者が、記憶的知識である神学を研究するなら、彼は内なる人を通して主より与えられる光によって、これを適当に理解し、神の聖旨に適った知性の秩序のうちに適切に摂取して彼の知性を潤すことが出来るであろう。しかしながら、もしも未熟な信仰階程にある者が神学を研究するなら、彼の内なる心は主に向って充分開かれていないから、神より来る内的知性に導かれないで、単に外部から受入れる記憶的知識を駆使して信仰の神秘を究めようとの愚挙をなすことになる。かかる者はいかに該博な神学知識をもっていても、単なる物知り位のものであって、神の真の知識に欠けた愚者であることは霊界において明かとなる。そしてかかる者が霊的指導者の位置に立つときは盲目の手引となり、多くの者をその道連れとすることになる。神はそれ故、ここに堅く警めて、「しかれど善悪を知るの樹」は汝その果を食うべからず、汝これを食う日には必ず死べければなり」と命じ給うたのである。           

              

  スウェーデンボルグの思想──科学から神秘世界へ 

                                                          高橋和夫 著 講談社現代新書より引用                              

                          ※ 天地創造物語の霊的な理解の参考に 

 ◎〔『視霊者の夢』の夢解釈!~2〕よりの続き

虚無の深淵と、光の創造──1日目

 「創世記」冒頭の、神が最初に創った「天と地」は、私たちが頭上に見ている空や、足下に踏みしめている大地のことではない。スウェーデンボルグの解釈する霊的な意味に従えば、「天」とは「内なる人間」ないし「霊的な心」である。これは人間が先天的に持っている霊性や宗教性であるが、必ずしも意識化されるとは限らない。一方、「地」とは「外なる人間」ないし「自然的な心」であり、世俗的で非宗教的な意識である。
 人間を真に人間たらしめるのは「内なる人間」である。「外なる人間」は、いわば粗野な自然状態に置かれた、霊性を欠く人間である。スウェーデンボルグの前提は、人間は人間として生まれるのではなく、人間は人間に成ってゆく、というものである。経験的に観察される「外なる人間」は、「自己愛」と「世俗愛」、つまり自己中心性、感覚的なものへの傾き、単なる知識への偏向、所有欲、支配欲などに染まっている。そのため「内なる人間」は、無意識の領域に潜在したままになっている。そこで、そうした人間の日常的な意識の大部分を占める自己中心性や世俗性、自然性を、聖書は「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあった」(「創世記」1章2節)と語り出すのである。スウェーデンボルグは、創造の7日間を、人間の新生の連続的な7つのプロセスと解釈する。右に述べた状態は、人間が新生に向かう以前の状態である。したがって、この「外なる人間」の粗野な状態は改善される可能性がある。それが、「神の霊が水のおもてをおおっていた」(「創世記」同節)という一文の意味である。これを現代的に述べるなら、人間の表層的な意識の奥には「超個的な中核」があり、それが人間の救いの究極的な根拠として働いている、ということになろう。スウェーデンボルグはこの第2節を、「めんどりが翼の下にそのひなを集めるように」(「マタイによる福音書」23章37節)人間の粗野な心を覆い包む神の慈悲を語っている、と解釈する。第3節は光の創造である。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」。自然の光に照応する霊的なものはよく知られている。光が象徴するのは、知性、内なる照示、無意識の意識化などである。新生の最初のプロセスは、内部に隠れていた霊性や宗教性が自覚され、この自覚が自己中心性や世俗性を退かせる過程である。これが光と闇の分離である(「創世記」1章4・5節)。自然的にはそれなりに生きていたものの、霊的にはほとんど死に瀕してしていた、虚無の混沌の中にあった「外なる人間」に、救いの一条の光が射し初めたのだ。この光は「外なる人間」にとってはかぼそい光だが、それは神の無限の愛から発する光である。自己や世俗に関わる意識の後退は誰でも時おり経験する普遍的なことである、とスウェーデンボルグは言う。こうした状態は、不幸、悲嘆、試練、病気などの際によく起こる。そのようなとき、身体や世間的なことに関わる意識がいわば静正し、死んだもののようになるからである。このとき自覚されるようになる内的なものを、スウェーデンボルグは「残されたもの」(reliquiae)と呼ぶ。それは、人間が幼少の頃から心の奥底に蓄積してきた、無垢、善良さ、愛といった内なる情愛である。「幼児のまわりには天国がある」と詩人のI・ウォッツは謳ったが、失意や病気の際に私たちは幼い頃への郷愁にかられ、ある種の清浄で敬虔な感情に浸ることがある。それは、「残されたもの」が神によって無意識裡に「内的な記憶」として蓄えられているからだ、とスウェーデンボルグは言う。

天の上下に分けられた水──2日目
 創造の2日目は「水」が主題になる。前後の文脈による微妙な違いはあっても、スウェーデンボルグは聖書全体にわたって「水」を、理解力・知性・知識に関わるものと解している。「創世記」1章6~8節を要約すれば次のようになる。
 水の真ん中に天と呼ばれる広がりがあって、この広がりによって水が上下に分けられた。    (ここは、『天界の秘義』のスウェーデンボルグの訳に従う)
 この個所の「天と呼ばれる広がり」は「大空」とも訳されるが、この記述はいったい何を意味するのだろうか。新生への次の段階は、「残されたもの」という内なる情愛の意識化である。この内なる情愛を意識にもたらすのが、「天と呼ばれる広がり」によって意味される「合理的なもの」である。
「合理的なもの」とは、スウェーデンボルグによれば、「自然的なもの」と「霊的なもの」との中間にある、啓発的な知性機能であり、合理性の能力とも呼ばれる。この能力が光によって照らし出されると、人間は自分の「自然的なもの」である低次の自我から、それを超えた「霊的なもの」である高次の自己を区別することができる。別の言い方をすれば、「水が上下に分けられた」とは、新生以前には「聖」(宗教性・霊性)も「俗」(自己中心性・世俗性)も峻別できなかった人間が、合理性の能力の活性化によって心の成層的な構造をはっきりと知ったということである。合理性の能力は、いわゆる理性と必ずしも同義ではない。デカルト以降、理性は近代的自我を支える基礎的な概念となったが、スウェーデンボルグは理性を「混成された知性」と呼ぶ(※ 下記参照)。理性は心的な機能の全体の中で、中間的な位置しか占めていない。理性の「階層」は、最内奥ないし最高の霊的な「階層」と、感覚や感覚経験に由来する自然的な「階層」との間隙に存立している。このように、理性の上方ないし内部に、理性を超えた心の領域である「霊的なもの」を認める点で、理性そのものを心の根源的な中核と見なす近代哲学とスウェーデンボルグの心の理解は異なっているのである。
 さて、低次の自我に固有なものとは、感覚や記憶に属する、家庭や学校や社会で学ばれた知識であり、これは身体の維持や社会生活に役立っている。これが、合理的なものの外側、あるいは理性の下方にある、「広がりの下の水」が意味するものである。一方、「広がりの上の水」とは、合理的なものの内側、つまり理性の上方から理性へ流れ込む、宗教的で啓示的な知識のことである。スウェーデンボルグの言葉でいえば、この知識は、霊的な心に属する「善」や「真理」である。この知識は「内なる道」によって人間の心に入ってくるもので、感覚経験からくる知識のように「外なる道」によって得られるものではない。

 

私たちの意識的な心を、スウェーデンボルグは「合理的な心」mens rationalis)と呼ぶ。この心は「自然的な心」と「霊的な心」との中間に位置する。自然的な心とは低次で外的な心であり、「アニムス」(animus)と呼ばれる。これは肉体の感覚を通して形成された「感覚の生命」「非合理的な心」であり、動物もこれを有するとされる。現代流に言えば、本能・情動・パッションのことである。一方、霊的な心は内的で高次な心であり、これは「霊魂」(anima)から発している。この心は現代では、超意識の領域に属する一種の知的直観と見なされるものであろう。
 近代哲学は、デカルトの「思考実体」、つまり思考しつつ存在する意識的な心を、それ自身で存立するかのように見なし、霊魂のような心の内的原理を退けてきた。しかし現代では、無意識や超意識も含む心の成層的な構造がしばしば問題になっている。スウェーデンボルグによれば、合理的な心は「思考の生命」として、「感覚の生命」であるアニムスの内部にあって、想像・思考・判断・意志決定などの働きをする。しかしそれは、その心自身の自発的な働きによるのではなく、その心に内在する霊魂の働きを受容して、アニムスから入ってくる流れを処理するのである。すなわち合理的な心は、霊魂とアニムスの流れの交差する地点に位置し、自由に考え、判断し、意志し、行為する。
合理的な心を司る「純粋知性」
 合理的な心は「人間の心」であり、私たちの「真正の自己」である。道徳的な性格も合理的な心に由来する。なぜなら、アニムスに属する本能や情動を、霊魂から発する高次な心の視野に収めて熟考し抑制しないなら、そこには悪徳が形成されるし、逆に欲望や情動を正しく秩序づけるなら徳が形成されるからである。スウェーデンボルグは、人間を人間たらしめる能力を自由意志と理性とに求める。これらは合理的な心に宿る能力であるが、理性についての考え方は特殊である。彼は理性を「混成された知性」と呼ぶ。というのも、後世の哲学は人間の理性を絶対視し、「純粋理性」とか「理性の自発性」などと言うが、スウェーデンボルグは理性の内奥に、理性を超越しつつ理性を原理づけるもう一つの知性、「純粋知性」を探り、これを霊魂の直接的な所産と考えたからである。
 純粋知性には「自然の一切の法則に対する直観」が先在する。純粋知性は、「合理的な心が継時的に把握するものを同時的に把握する。つまり、前提と結論、原因と結果を同時的に把握する」(132)。また純粋知性は、「どんなことでも、それをただちに真または偽と認め、確からしいという曖昧な認め方はしない」(133)。さらにこの知性は、人間が経験によって獲得するものではなく、初めから完全であるので経験によって完全にされる必要もない(134)。スウェーデンボルグが理性を「混成された知性」と呼んだのは、理性が合理的な心において純粋知性の働きを受けて、経験的、後天的に獲得される感覚的印象や低次の観念を秩序づけるものだからである。このように霊魂は純粋知性を通して、思考や推理の能力を意識的な心に賦与するだけでなく、想像や感覚の作用をも究極的に統制している。

 

地に生える青草-3日目
 創造の3日目には、「下の水」がやがて「かわいた地」と「海」とに分けられ、「地」には植物が生える(「創世記」1章9~13節)。ここで「地」とは、理性的な思考や内省が始められることによって、低次の自我の中へ徐々に浸透してくる宗教的、霊的な知識を意味する。この知識を土台にして、新生への過程は進展してゆく。地から植物が生えるのは、この過程で一つの成果が生み出されるからである。しかし、ここで生える植物はまず「青草」である。これは、生み出された成果がまだ未熟な段階のものであり、霊的な内実の十分にそなわっていないものであることを示唆している。宗教的な意識にめざめたばかりの人間の心理状態は、実際こうしたものである。何らかの信仰や信念を得てまもない人は、宗教や教説の本当の深い意味を十分に咀嚼しないまま、教えられるままに語ったり行動しがちである。そこには一種の強制感や義務感がつきまとい、言動は粗削りでぎこちない。これは、自己愛や世俗愛が真理や隣人への愛に抗う(あらがう)、葛藤の状態である。したがって、そうした状態から生まれる善は、すぐあとに出てくる、実を結ぶ果樹や、5日目に創造される動物のように生き生きとした善ではなく、あくまでも「青草」にたとえられる、まだ未熟な善である。
 スウェーデンボルグは宗教的信仰の内面化のプロセスを、「単なる知識の信仰である、記憶の信仰」→「理知的な信仰である、理解力のうちにある信仰」→「愛の信仰ないし救う信仰である、心情のうちにある信仰」と図式化している(『天界の秘義』30)。
二つの光と星の創造─4日目
 新生の第4のプロセスに照応する創造の4日目に、神は「大きい光」と「小さい光」と「星」を創った(「創世記」1章14~19節)。
 新生とは、人間の心の中へ霊的な生命が漸次的に吹き込まれてゆく、いわば霊的な創造の過程である。その進展につれて、自己や世俗のみを目的とする、肉に属する古い生命は克服される。内なる理性の声を聞き自分の低我の衝動に打ち克つとき、心は生ける愛の熱を実感し、内なる高次の生命の実在を確信し始める。
 新生のこの段階で出現する「大きい光」とは、内なる宇宙に輝く太陽、すなわち「愛」である。宗教的生活が内面化すればするほど、強制感からなされる行為は減って、内なる心情からなされる行為が増す。これを促すものが愛である。そして愛の内に住まう心は、無限の愛である神の内に安らうのである。つまり、「大きい光」の創造とは、内なる愛への覚醒を意味するのである。
 一方、「小さい光」は月である。スペインの聖人と呼ばれたカルメル会神秘主義者、十字架の聖ヨアンネス(Juan de la cruz, 1542~91)が適切に表現したように、新生への途上には「霊魂(こころ)の暗夜」もある。有限な人間はいつも愛に感動していられるわけではなく、しばしば苦悩し闇の中をさまよう。こういうときに必要なのが、暗夜を照らす月明かり、すなわち「信仰」なのだ。スウェーデンボルグはこの「小さい光」を信仰と解している。「星」は、スウェーデンボルグによれば、霊的で宗教的な知識を全般的に意味する。恒星は元来、太陽であるけれども、はるか遠方から来る光のために月よりも小さく見える。それでも無数の星が暗夜の天空にちりばめられている。星の象徴するものはこの場合、民族であれ個人であれ、万人に対して遠い時代から伝承されている普遍的な霊的知識である。それは、国や宗教や時代を超えて万人の良心に流れ入る、「神が存在する」「人間は悪を慎み善をなさねばならない」「盗みや殺人は悪い」などといった、ごく基本的な、しかしそれなしでは人間の霊的な生活が瓦解してしまうような知識である。
 人間が自己中心性や物質的で感覚的なものへの惑溺、世俗への執着を徐々に脱ぎ棄て、隣人愛や善の実践によって無限の愛である神の愛にめざめるということは、人間が心の奥底に、「愛」と「信仰」という二つの光から発する生命的な熱と光を受容することにほかならない。
 スウェーデンボルグは、「愛」を天的原理、「信仰」を霊的原理と呼ぶ(『天界の秘義』83)。天的原理は、人間の心の意志的で情緒的なレベルに属する根源的な生命原理であり、霊的原理は、心の理解力や認知力のレベルに属する派生的、二次的な生命原理である。
動物の創造──5日目
 創造の5日目に、神は水や海に棲む生き物や空を飛ぶ鳥を創った(「創世記」1章20~23節)。
 新生の第5のプロセスでは、愛と信仰という生命の二大原理によって心の中へ生きた善や真理が豊かに吹き込まれる様子が活写される。動物たちの意味するものは、宗教的な内省や実践によって獲得された知識であり、この知識が愛と信仰の原理が浸透してゆく基盤を形成する。以前の知識はまだ、生きているとは言えない、記憶にのみ属する知識だったが、今やそれは愛と信仰によって霊化され生命を奈びるのである。
 3日目に創られた植物群と違って、ここで生み出されるのは動物である。植物が生長という単純な運動しかしない生命を持つのに対して、動物ははるかに多様な生動的な生命を持っている。魚は、低次の自我へ浸透してきた、一種の初期的な宗教的情愛の動きを象徴するが、やがてこれは、陸上生活もできる爬虫類にもなってゆく。爬虫類とは、イヴを誘惑した蛇がそうであるように、人間の「感覚的思考」の象徴だとスウェーデンボルグは言う。感覚に密着した思考は多くの錯覚や迷妄を有し、事柄の真偽の判断を誤らせることが、よく知られている。
 鳥類は、知性に属するものを表わす。鳥のあの鋭く光る眼や、空中を自由に飛翔する特殊な能力は、感覚の束縛を断ち切った自在な思考能力を連想させる。
 いずれにせよ、新生のこの段階で起こるのは、生命の二大原理が「内なる人間」から「外なる人間」に浸透し、「外なる人間」も生動的な生命を帯びてゆくプロセスであり、この生命がさまざまな動物たちによって表わされているのである。
 ここで、3日目に生み出された植物に照応する善と、5日目の動物に照応する善との差違を、もう少し詳しく考えてみたい。
 スウェーデンボルグの教説の一つに、人間は「自らによるものとして」自分の力で悪を避け善をなさねばならないが、それでも善は自分自身に由来せず、神にのみ由来することを信じなくてはならない、というものがある。一見、何でもないような教説だが、その含蓄は深い。なぜなら、絶対自力でも絶対他力でも達成できない、宗教的な善の微妙な本質を言い当てているからである。
 スウェーデンボルグによれば、3日目の段階まで新生した人間は、「悔い改めの状態の中で内なる人間によって敬虔に信仰的に語り、仁愛の業のような善を生み出す。しかしその善は、当人が自分白身から発していると考えるため、生きていないものである。こうした善は『青草』『種をもつ草』と呼ばれ、あとでは『種のある実を結ぶ果樹』と呼ばれる」(『天界の秘義』9)。これに対して、新生の4日目に、愛に動かされ、信仰によって明るくされた人間が、5日目に達成する状態は、「信仰に基づいて語り信仰によって真理と善を確認する状態である。そのとき、その人間によって生み出されるものには生命があって、『海の魚』『空の鳥』と呼ばれる」(『天界の秘義』11。
 「生命」についてスウェーデンボルグは、これを神にのみ帰属させる。人間それ自身には本来的に生命はなく、人間はただ神からの生命の受容体、器である。もっとも、ここで言う生命は霊的な生命であって、普通に使われる生命のことではない。
 こうした生命観に基づくスウェーデンボルグの新生に関する考え方は、近代的自我の存在論的な確実性や根源性を拒むものであり、また、カントの道徳哲学に見られるような、自発的で自律的な道徳的意志の努力を強調する考え方とはかなり異なる。
 宗教的に新生する人間は、「自らによるものとして」善をなすが、それでもその善は自らが生み出すものではなく、いわば超個人的な領域から受容するものだということを、信仰によって承認している。私たちが「善」とか「真理」と漠然と呼び習わしているものは、究極まで突きつめると、もはや人間に固有なものではなくなる。霊的な生命としてのこの「善」や「真理」の超越性、絶対的所与性を洞察し承認することこそ、新生の標識なのだ。しかも、こうした洞察と承認が深まるにつれて、人間はますます豊かに生命を得て、より完全な人間へと向上する。これが、古代の賢人たちが有したありふれた知恵であると、スウェーデンボルグは言うのである。
人間の創造──6日目
 創造の6日目の後半に、いよいよ人間が創られる。神が人間を神のかたちにかたどってしかも人間を「男」と「女」に創った(「創世記」1章26・27節)、と聖書が語るとき、まず留意すべきは「人間」という言葉の意味である。なぜなら「創世記」第1章は、初めから人間の新生というテーマを追い続けているからである。
 人間というと、まずその肉体が思い浮かぶ。肉体は有機的に組織され、一般に生命と呼ばれる生理的な力によって生気づけられている。そうした健全な肉体的機能をそなえた人間も、確かに人間である。しかし知性や教養のような精神性をそなえなければ、一人前の人間と言わないこともあるし、また法的な成人の概念も、道徳的、宗教的な意味合いでの人間の概念も、異なってくるだろう。ここで聖書が語り出す「人間」とは、文脈からして、知性的にも精神的にも卓越した最高の型の宗教的人間を意味することは明らかだ。
 5日目の新生のプロセスでは、「内なる人間」が「外なる人間」を通して生み出した善は確かに生きていた。しかしその善は、「天的原理」たる愛から自発的に生み出されたというよりは、むしろ「霊的原理」たる信仰の確認によって生み出されたのである。
 しかし6日目は、新生のプロセスの一種の完成段階であるため、信仰よりも愛から善が生み出されるときである。この段階をスウェーデンボルグは、次のように述べている。

 第6の状態は、人間が信仰によって、またこの信仰に続いて愛によって、真理を語り、善をなす状態である。そのとき人間が生み出すものは、「生き物」「獣」と呼ばれる〔善である〕。人間はその際、信仰と愛によって行動し、同時にまた、信仰と愛とが共になったところから行動し始めるので、かたちと呼ばれる霊的な人間になる。(『天界の秘義』12)

 この完成の段階で創られる「人間」とは、まさにこの「霊的な人間」である。この人間は、かつては粗野で未熟な自然状態という虚無の深淵にいた「自然的な人間」であったが、今や内面的に進化し新生して本当の人間になったのである。それでは、人間を「男」と「女」に創造したという記述は、何を意味するのであろうか。
 前にも少し触れたが、スウェーデンボルグは人間の心の本質的な構成要素を、「意志」と「理解力」──または「自由」と「合理性」──に二分する。「意志」はいわゆる意志も含むが、意欲・感情・情愛などの総称である。この側面は心の根源的なものであり、愛や善に関係する。古代の賢人たちはこの側面を「女」と呼んだのである。一方、「理解力」は知性・理性・悟性などの知的能力の総称であり、これは派生的な心の側面として、信仰や真理に関係する。これが「男」と呼ばれるものにほかならない。
 ある宗教が「女」の側面しか発展させないなら、熱狂的で狂信的な宗教になるだろうし、「男」の側面しか発展させないなら、抽象的で観念的な宗教にすぎないだろう。同様に人間の霊性においても、これらの二要素がバランスよく新生しないなら、偏向した霊性が形成されるだろう。
  C・G・ユングは、感情の機能を知性の機能に対置し、愛や情緒的なものが人格の統合に不可欠であることを指摘し、また「内なる異性」──アニムスとアニマ──の意識化の重要性を説いている。スウェーデンボルグは、人間の精神的成長におけるこうした両性の機能の統合の必要性を、十分に知っていた。「霊的な人間」とは、知性的でかつ情緒的な人間なのだ。
 ところで、スウェーデンボルグの「新生の心理学」は、彼自身の独創によるものでは決してない。それは古代のありふれた思想であるが、ユングの「自己の全体性の統合」を扱う心理学や、アメリカの心理学者A・マズローの「自己実現」の心理学、そしてトランスパーソナル心理学など、現代の心理学に近接している。ここではこれらとの比較はできないが、示唆だけはしておきたい。
 さて、以上のように、「創世記」第1章の6日間の天地創成神話は、そこに内蔵された霊的な意味の体系として、自然的な人間から霊的な真の人間に至る漸次的な再創造、つまり新生のプロセスを叙述している。6日目に神が「人を造ろう」(「創世記」1章26節)と言うまでには、予備的な数多くの段階があった。それは人間自身の内面的な苦闘と試練であると同時に、神の側からも、人間の創造に伴う労苦でもあった。
 肉体の創造とは違って、新生という再創造は、神が人間に働きかけ、人間がこの働きかけに協力して、初めて達成される。現代的に言えば、人格の全体性の実現は宇宙の超個的な諸力との協同によってのみ果たされるのである。

                            

      創 世 記 Ⅰ (2)  〔1・18~31〕        

      ヘブライ語聖書対訳シリーズ 1 ミルトス・ヘブライ文化研究所編

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