tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

『視霊者の夢』の夢解釈!~ 8 ─ 特別編─

 今年は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、漫画家の水木しげるさんの生誕100年にあたることから、11月30日の命日の日、93歳で亡くなるまで長年暮らしたゆかりの東京・調布市の布多天神社の境内で、妖怪のキャラクターなどを砂でかたどった像がお披露目されました。サンドアーティストの保坂俊彦さんが7トンの砂を使って制作したものです。

 漫画家で妖怪研究家の水木さんは、18歳の頃、篠山山中の祠で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるといいます。
 また「のんのんばあ」は彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことであり、当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていました。
ふささんは、子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれ、彼女の話す妖怪などの話に水木氏は強い影響を受けており、後の水木漫画の原点となっています。水木氏は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べています。ふささんが水木氏に“もうひとつの世界”を教えてくれたのです。

 復員して、漫画家として、また妖怪研究家として、妖怪好きの人々たちが集まるようになり、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となっています。会員には荒俣宏京極夏彦、多田克己らがいて、それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示していました。

後年、「神秘家列伝 其の壱 」(初版 2000年7月31日)を出版し、その中に「スウェーデンボルグ」が掲載されています。「天使と話せたスウェーデンボルグ」として書かれています。

 

 この絵は、左はエディストーンにあるウィンスタンリー灯台を描いたビクトル・ユーゴーのスケッチです。 右は水木氏の漫画の一コマです。水木氏は研究熱心であり、またそれらの資料からイメージを得ていたようです。
  ※    ウィンスタンリーは奇人とも言われ、この人は機械仕掛けが好きなお金持ちで、趣味でからくり幽霊屋敷を作っていたりしましたが、あるとき私財を投じてイギリスのデボンのコーンウォール沖の危険なエディストン岩礁に1696年から1698年にかけて灯台を建設しています。そして1703年11月27日の大嵐の日に灯台をメンテナンスしていて灯台ごと行方不明となり、その痕跡も見つかりませんでした。この灯台は、八角形の木造で、岩に固定された12本の鉄の支柱で固定されており、外洋に完全にさらされた世界初の灯台でした。現在は三代目の灯台が設置されていて観光地となっています。

 

      以下の、この記事は、統一教会霊感商法批判以前の初期の頃の機関誌に、「もう一つの世界」という特集が組まれた時に掲載された「スウェデンボルグについて」の柳瀬芳意氏に依頼された寄稿文の記事です。良く読んでみると「原講講論」の堕落論である蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだエバを彷彿とさせる性道徳の乱れについて述べられており、単に霊界の存在に言及しているスウェデンボルグの霊界の実相のためではなく、堕落論を正当とする論理へと進ませるための内容に編集されているように思われます。統一教会の霊界とスウェデンボルグの霊界では、天界と地獄ほどの違いがあるように思われます。スウェデンボルグの霊界の実相を利用するために掲載されたようです!その教義が天と地ですから!

 

 

 

      ※ 以上の画像の文面を文字文章に変換します。

 

スエーデンボルグとの出会い   柳 瀬 芳 意
 最近、特に脚光をあびているのがスエーデンボルグである。17世紀のスエーデンに生まれた世界的科学者であり無形世界に深い造詣を持った彼の著書は、いま静かなブームを呼んでいる。38年間スエーデンボルグの翻訳一すじに打ちこんできた柳瀬芳意さん(66才)はこう語っている────
 清い人になりたい  
 十六才の頃、性的に清くなければならないと考えていた私は、このイエス様の山上の垂訓の高い性倫理道徳に大変感動を得て、イエス様の言葉のように清い人間になりたいと、切に願っていました。そして、神様にお仕えするのが一番喜ばれるのではないかと思い神学校に入学したのです。
 しかし、そこではルターの奴隷意志論──人間は悪魔の奴隷だから、自分の意志によって神の善を行うことはできないという思想がさかんでした。だから、ほんとうに清められたという経験がなく、ただ罪悪感のみが深くなり、神様に申し訳ないという気持に陥り非常に悩みました。
 キリスト教会の根本教理は、イエス様が私達の罪の罰を代わりに受けて下さったというものです。これを刑罰代償説といいますが、私の願いは、罪そのものから清められることであって罪を代わりに受けてほしいとは少しも思わなかったのです。だから、身代わりに死んで下さったことが喜びではありませんでした。自分の心の中が汚れているのに、このまま神学校を卒業して行ったら、自分は偽善者になってしまうと思いました。そこで三年年間で神学校を退学し、以後英文学、そしてロシア文学に興味をもつに到ったのです。  しかし、何をしていても、私の願いは常にイエス様の役に立ちたいということでした。私達は、やがて死んで、神様の前に立ち、自分がしてきたことを皆報告しなければならない時がきます。その時、私はいったい何を言うのか。自分のことだけであくせくしてきたなどととても言えません。そこで、キリスト教精神の童話でも書けたら、少しは神様の役に立てるのではないかとも考えました。しかし、心の中は平安ではありません。それは、私は根本的には、性的に清められた清い人間ではなかったからです。イエス様はそれを求めているのに私には不可能なのです。
 心に一大変化が…
 私がスエーデンボルグを知るきっかけになったのは。友人の高沢保氏の死でした。彼は病気を癒された体験をもっている人ですが、死ぬ半年ほど前にスエーデンボルグの「真の基督教」を読み、「今までぼくが牧師として教会で教えたことは全部間違っていた。」と言い出したのです。そして死ぬ直前、苦しみぬいて歪んでいた顔が急に和やみ、目をキラキラと輝かせて、「すばらしい、すばらしい」と言って死んでいったのでした。
 私は、これに感動し、小説を書きたいと思いました。そこで、彼を変えたスエーデンボルグの「真の基督教」を読んだのです。私は、その自由意志論に達した時、ルターの奴隷意志論が如何に間違っているかを知りました。人間自身には、善をなす力も悪をなす力もない。しかし、神からくる善や真理を受け入れる能力、地獄から流れ入る悪を退ける能力はある。上と下から流れ入ってくるものを受けるか拒むか、この能力は誰にも否定されていないというのです。
 この時の私の喜びはたとえようもないものでした。
 二十八才になるまでの十年間、私が求めたものは、イエス様の役に立ちたいということでした。しかし、イエス様の性倫理さえ自分の中に実現できないのを見て、神学校をやめたのです。ですから、これに接した時、求めに求めたものに出会い、どんなにうれしかったことでしょうか。それ以後、今までは心を魅かれて快感さえ、味わっていた性感情も、それが起こるだけで胸糞が悪くなるという一大変化が心に起こってきました。嫌悪さえ感じるようになったのです。そこで、晴れて神学校へ戻り伝道師としての道にはいりました。
 大分県で高校の教師をしながら「真の基督教」を出版。以後東京で会員を集め、自力でスエーデンボルグの翻訳を続け、出版してきました。今まで三一巻翻訳し「天界の秘義」だけ十六巻残っていますが、これも毎年二冊ずつ出版してゆきたいと思っています。
 霊界への無知が起す不道徳
 今までのキリスト教は、観念だけで現実的には何の力もないことを私は身をもって知っています。イエス様は、山上の垂訓のように、非常に厳しい倫理観を示しています。しかし、現実のキリスト教は、人間は弱いものと決めつけ、イエス様の十字架におぶさってしまい、御言を有名無実化してしまっています。私は、このスエーデンボルグを紹介することによって、新しい真のキリスト教の基礎が築かれることを願っているのです。
 スエーデンボルグは、山上の垂訓の真意を私のうちに実現してくれました。性的純潔を求めた心を、あふるるほど満たしてくれた感謝と喜び。私は、この喜びを多くの人々に伝えたいと思い翻訳をつづけてきました。人間の書物であるか、神からきたものであるかは読んでみればわかると思います。
 現代は性的混乱の時代と言われますが、性道徳は人問生活の根本の根本です。だから、これが乱れれば、人類は破滅への道を歩まざるをえません。しかし、霊界のことがはっきりわからない限り、道徳の権威が分らないのです。この世だけだと思うところに道徳の乱れが出てきます。この世だけなら。何も苦労する必要もなく、面白おかしく遊んだ方がいいということになってしまいます。しかし、霊魂の着物である肉体を脱げば、永遠の世界が待っているのです。死後の審判に備える生活をしなければならないと思うのです。  

 スエーデンボルグの思想と生涯
   ヨーロッパ第一の科学者から、霊眼が開けて神学者に……

 科学により心霊世界を探求 
 イマヌエル・スエーデンボルグ(1688-1772)は、晩年、自己の持殊な霊的経験を基礎とした新たなキリスト教教理と聖書解釈を著述した神学者である。しかし、霊的経験を受ける以前の彼は、数学、機械学、天文学、化学、冶金学、磁気学、解剖の諸科学や哲学に於て当時ヨーロッパ第一人者であり、幾多の発明、発見をした科学者であった。晩年における彼の神秘世界への謎の転身は、彼が学会に遺した功績に対する評価を不当ならしめているが、学界の大発見や新学説として今は他の学者の功績に帰せられているもので、既に彼により発表されていたものも少くない。
 例えば、一般にカントやラプラスの創説とされている星雲説の如きも、それより数十年前、スエーデンポルグはその「原理論」に説いており、天王星の発見や、磁気学のある種の発見についても同様なことが言われている。また彼の解剖学は一世紀先んじていたといわれる。
 彼は、幼少の頃からいささかもその存在を疑うことなく礼拝して来た神を、創造物とその秩序を究めることによって明かにしようとした。彼の真理探求の努力は、最初は外的被造世界に向けられ、その手段として、数学・天文学・鉱物学・地質学等の諸科学の研究が累積されていったが、次第にその研究対象は内的世界に向けられて行った────そして彼は、神の創造の冠たる人間の研究、殊にその神秘の霊魂の実体をつきとめようとして肉体や脳髄の研究を始め、解剖学や心理学等の研究にまで突き進んだ。しかしこのような「下より」の心霊世界への研究には限度がある。彼はこの越え難い限度にまで達し、そこをさまよい歩き、ついに神に出会った。
 彼は、多くの霊的経験をし、霊眼を開かれ、いながらにして霊界に導かれて天界や地獄の諸相を見聞し、既に霊となっている凡ゆる故人とも語ることを可能とされた。また、多くの啓示を与えられ、これを著述すべく命ぜられたのである。彼が五十六才の時だった。

 スエーデンボルグの不思議な力
 彼はその不思議な力を必要な場合以外めったに用いなかったが、彼が霊界と交渉していることが事実であることを証明する充分な記録が残っている。しかし、これらがなされたのは、天界と地獄とが真に存在し、人間は死後も以前のように人間として生きることが知られ、もはや人間の不滅性についての疑いが、人々の心の中に起こらないようにするためであった。これらについては一般に三つの事柄が知られている。それは、スエーデンの女王とその女王の他界した兄弟であるプロシヤの皇太子オーガスタス・ウィリアムとの間に在った秘密の性質をスエー デンボルグが女王に明らかにした物語であり、またスエーデンボルグ自身はグーテンブルグにいながらも、ストックホルムの大火を述べたことであり、またストックホルムの前オランダ大使M・デ・マルテビレの未亡人にその夫の支払金の受領書が粉失したため、そのありかを彼が明らかにしたことである。
 以上の三件については哲学者カントが人をして厳密にその真偽を確めさせ、その結果、その真実であることを驚きを以て保証している彼の手紙が伝えられている。
 このように、スエーデンボルグはその能力に於ては超人的なものがあった。そして、彼の人格に対しては、彼の教説に反対又は懐疑的意見を抱く者さえ敬慕の念を寄せていたと伝えられている。
 真の結婚のみが永遠に続く
 スエーデンボルグの時代もそうであったが、現代社会の道徳的欠陥は性関係に最も顕著である。それでは、地上での夫婦は死んだらいったいどうなるのであろうか。これは非常に興味深い問題である。スエーデンボルグは「結婚愛」の中で次のように言っている。
 「真の結婚愛にいる者にあっては、連結はますます徹底的に永遠に行われる」(「結婚愛」162)。しかしこのような者の数は現在では比較的少ない。この世には楽しい外的な関係に基礎づけられた多くの幸福な結婚があるが、しかし善の愛が伴っていないならば、その楽しさも現在の生活の舞台を越えては存続しない。
 「結婚した二人の夫婦は、全般的に言って、死後会い、互いに他を認め、交わり、しばらくの間ともに住む。しかし、真の内なる性質が明らかになるとき、もし真の霊的な結合があるならば、彼らはともに生活をつづける。もしかれらの相互の感情が和合し、また共鳴しているならば、かれらはその結婚生活をつづけるが、しかしもしそれが一致しておらず、共鳴もしていないなら、かれらはそれを解消してしまう。」
 「地上では永遠の結合となる結婚はほとんど行われていない。夫婦は大半外的なものによって結ばれ、かくて内的なものにより結ばれていないからである」(同書320)「結婚の貞潔はまた宗教と一つのものとなっている」(「黙示録講解」982)
 私達の五官で認識できないもので、存在しているものは多い。今日のように霊通する人が増え、霊界の様相がはっきりしてくると、たとえ自分には見えないものであっても、その存在を認めざるを得なくなる。百年たらずの人生において、永遠性のあるものをどれだけ自分の中に築いてきただろうか。永遠の世界の様相を知れば知るほど現実生活の意味の重大性を知るのである。
 
 エピソード

 ストックホルム駐在オランダ大使の寡婦マルテビレ夫人は、その夫を失ってからしぱらくして、金細工人クルーンから銀の食器の支払いを請求されました。未亡人は、他界した夫は几帳面な人物であったから支払わなかった筈はないと確信していましたが、受領証を見つけることができませんでした。そこで、スエーデンボルグに他界した人に銀の食器はいかようになっているかを聞いてほしいと頼みました。スエーデンボルグは三日後、当の夫人の家で開かれたお茶の会に招かれた時、「負債は彼の死の七ヶ月以前に支払われ、受領証は階上の部屋の大机の中にあります」と言いました。が、夫人は「その大机の中は前すっかり探してみましたが、受領証は他の書類の間にはありませんでした」と答えました。そこで、「あなたの夫は、左手の引出しを抜き出すと、一枚の板が現れますが、その板を引き出すと秘かな仕切りが現れ、そこにその受領証のみでなく、彼の個人的なオランダ語の通信文も入っていると語っています」とスエーデンボルグが答ると、すぐに一同の者は一人残らず立上って、夫人について階上の部屋に入りました。大机は開かれ、彼らは言われたようにしました。仕切りが見つかりましたが、それまでそれを知っていた者は。一人もいなかったのです。しかも、一同驚いたことに、書類がそこに彼の言った通りに発見されたのです。

 秘密の手紙
 スエーデンボルグはある日宮廷に招待されました。そこで、女王ルイサ・ウルリカは死後の多くの事についてたずねたあと、彼女の兄弟であるプロシヤの今は亡き皇太子をたずね、よろしく伝えてくれるように、と彼に求めました。スエーデンボルグは約束し、次の招待で宮廷に現れた時、その弟が彼女の最後の手紙に答なかったことに対じて申しわけなく思っていると伝えました。女王は非常におどろいて言いました「神以外にだれ一人この秘密を知らなかったのに」と。彼女が以前このことに一度も言及したことがなかった理由は、プロシヤとスウェーデンが戦争の間に彼女は敵国と通信していたということを誰にも知られたくなかったからなのです。  
   (ヘブケン伯爵の記事より)

 

 【コラム】10‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥             

            旧 統 一 教 会 と の こ と

 「世界基督教統一神霊協会」(旧統一教会)としての初期の頃(1970年前後)は大学のキャンバスなどでも「原理研究会」として布教されてもいた頃です。(その頃はオカルトブームや新興宗教ブームでもあり、各種の手かざし宗教や創価学会折伏エホバの証人などなど、活発に布教がされてもいた時代背景があります。)

 そんな年代のある時、街中で聖書に興味はありますか? 勉強しませんか?として誘われました。三日間研修であったと思いますが、午前、午後と集中して昼食を除き、休みなく講義されました。ある意味個人の考える間もなく、次から次と厳粛な祈りを持って『原理講論』の講義をされていました。それは、マインドコントロールの一方法でもあるなあと感じていました。
 そして、その内容は聖書のあちこちの個所を「統一原理」の教義を絶対化するために引用していました。その引用個所の前後の文面とは関係なく引用し、論理を進めていくのです。それは、儒教や韓国のシャーマニズム的要素を取り込んでいることの独自の解釈なのでしょう。
ですから、一旦『原理講論』から離れて、その聖書の引用された個所を理解してみると都合良く聖書が利用されているのが解りますが、原理講論のみ熱心に読むとその世界に洗脳されるように思います。 アダムとエバが人類の生物学的先祖であることになることを理解していない等など、キリスト教一派の聖書の文字的理解の原理主義思想に近い?
 ただし、それらの方達は純粋に世界のためにという態度も伝わってきていました!!。又その時は、霊感商法となる健康食品や壺などの紹介の説明はありましたが、強制はありませんでした。
 その後、その時の責任者が自分に面会に来たことがあります。自身の弟さんが統一教会に絶対反対とのことで、宗教的真理、聖書の解釈について、間違っていたら自身や他の方達の人生に大変な事になると、創世記のアダムとエバの物語やエデンの園についてどのように理解するべきか訪ねて来たのです。真剣に聞いていましたが、こちらも新教会の教義を学んではいましたが、他の信仰者を納得させるだけの力量はありませんでしたから!。その後どうなったかは分かりません?。
 また柳瀬氏の日曜礼拝に参加したことがあり、その時に統一教会で合同結婚された方達が疑問が沸き上がって、訪れていたと言うことを話していました。そして間違った宗教は怖いものであると言うことを話されていました。それはひとつに、人々を不幸にするからです。
  スウェデンボルグは言います。

〈宗教の生命は、善をなすことである〉と。
  いろいろな宗教があり、教えはいろいろあるけれども、宗教で一番大切なことは、人々を幸福にすることであるということです。

※ 追記 統一教会が霊界の実相として、スウェーデンボルグの著作を確実に利用しているのが分かりました。!!!。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥10【コラム】