tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

エマソンとスウェーデンボルグ・・夢解釈!13

 写真左は、エマーソンの墓 (スリーピーホロウ墓地)     右は、 1940 年発行の米国切手

 ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson 1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。超絶主義の先導者。
 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、ユニテリアン派の牧師になるが、ユニテリアンの合理性に満足できず、また教会の形式主義に疑問を感じて辞職し、渡欧。ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。

 エマーソンはスウェーデンボルグ神学の強い影響を受け、次第に当時の宗教的社会的信念から離れ、1836年に汎神論的象徴主義による評論「自然」(Nature)を発表し、これが彼を中心とする超絶主義運動のバイブルとなった。続いて草分け的な仕事として、1837年に「アメリカの学者」(The American Scholar)と題した演説を行い、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアは、アメリカの「知的独立宣言」であると評した]。

 1826年に出版されたサンプソン・リードの『心の成長に関する観察』を読んで、リードに決定的に傾倒するようになる。エマーソンはリードの著作を繰り返し読んで座右の書とし、これを基礎に執筆活動を始めた。そこに説かれていた「相応」というスウェーデンボルグ神学の独特の概念が、彼の思想の中心概念となり、スウェーデンボルグ神学は、のちの超絶主義の重要な概念となった。
  エマーソンの宗教観は、当時しばしば過激とみなされた。彼は万物は神とつながっていて、そのため万物は神聖であると信じた。神によって創造された自然の営みの効用を重視すると同時に、人間の言語活動は神によって創造されたものであり、人間にのみ与えられた第二の天地創造であると考えて重んじた。超絶主義の基礎となる彼の見解は、神は真理を明らかにする必要はなく、人間は自然から直接、直観的に真理を体得することが出来ると示唆している。そして、人間は自然同様に神秘である言語活動・文筆によって、直観によってとらえた自然の神秘を表現できると唱えた。超越主義思想は、ドイツ・ロマン主義運動と呼応し、文学運動から始まっており、エマーソンは、ドイツの詩人たちの人智を超えた詩才の湧出に触発されている。部分的に、ドイツ哲学と聖書批判学に影響を受けている。次元の高い立場からの神意識について語ったが、これはユニテリアン派の教義から導き出される帰結であると指摘されており、「相応」という中心概念は、スウェーデンボルグ神学の影響を受けている。『自然』において宗教的超越を説いたが、スェーデンボルグのように自分自身が神秘家になることはなかった。
  
          

      エ   マ   ソ   ン
                入 江 勇起男 ( 哲学系の著訳者 )
 エマソン (Emerson, 1803-82)が生れたのはアメリカ独立後わずかに28年目であったが、そのころは独立当時までまだ強かったピューリタニズムの高潔な気風はいつのまにか薄れていって、ぼう大な国土の開拓と国力の充実とともにいたずらに物慾は増大し、合理主義・機械主義は猛威をふるっていた。十年一昔と言うが、かつて権力を憎み自由を礼讃した人々も、今は自分たちの造り上げた教会と社会の制度と伝統に権威の衣を着せ、弱者・新参者に権力をもって臨む番となり、ただ学問・芸術だけは欧風の輸入と模倣に忙しかった。
 「アメリカは、戸外はいたるところ市場、屋内は密閉した因襲のストーブのようである。家に入って来る者はみんなこのやんごとない習性の匂いがする。男は市場の、女は風習の。Jiとはエマソンの皮肉な社会批評のことばである。エマソンは初期ピューリタンのように改めて偉大な人間的自覚に立ち、こうした社会と文化に峻厳な批判を加え、アメリカの精神界に覚醒を与え、アメリカにルネッサンスの花を開かせるように運命づけられていた。
 エマソンの精神を培った文化資源は、ハ-ヴァード在学中、またその後に学んだ古典文学・古代哲学・ネオプラトニズム・ドイツ哲学・エリザベス朝文学・東洋思想などで、その領域は非常に広い。しかし彼の心情を養った根深いものは、自然の力を除いては、キリスト教そのもの、とくに二ユー・イングランドのそこここに不死鳥の灰のように潜んでいた清教徒的雰囲気、あるいは彼の魂の友であったクェイカーや、トランセンデンタリスツとの交友であった。 
     ──略──
 エマソンの神は彼の信ずるイエスの教えに一致していた。神はイエスの教えるように、イエス以前より在り、いわゆるキリスト教を信ずる者にも信じない者にも、善い人の上にも悪い人の上にも、陽光・慈雨のようにいのちを恵む万人の愛の神で、一切の人間のことばによる教義も教理も、いかなる教会の伝統も組織もどうすることもできないいのちと叡智の大元(Over-Soul)であった。世界はこの神の刻々創造し維持する神秘であって、聖書その他いかなる聖典に記録する神秘・奇蹟も、この生ける無限の神秘の流れの中にかつて起った神秘のごく僅かな一部に過ぎない。イエスその他の予言者を生かし啓示を与えた神と同じ神が今も厳然と生き、刻々われわれを生かし、刻々無限の手段をつくして真理を示している。すなわち世界は神が刻々創造し刻々維持している生けるCreationである。これがエマソンのNatureであった。
 エマソンの世界はそれゆえ神を象徴する至高の芸術であり美の世界であった。万象は神の中にあり、神を象徴している。個々のものはその全的立場にあって初めて真の個であり、真の美をあらわした。’Each and All’(「どれもこれも」)、‘Woodnotes’(「森の調べ」)、‘The Sphinx’(「スフィンクス」)などすべてこの秘密を説いていないものはない。個、自我を解き放て、そこに全の世界が展開される。半神を捨て去ってこそ真の神の訪れはある、純情・直感こそ最高の叡智であると彼は叫ぶ。
 しかしそれと同時にエマソンの世界は峻厳な法と倫理の世界でもあった。世界構成の原理に二つあった。一つは ‘likeness’(似つかわしさ、一致)、もう一つは

‘compensation’(むくい、つぐない)ということであった。前者はスウェーデンボルグ(Swedenborg,1688-1772)の‘correspondence’の思想をさらに進めたもので、心とその認める世界は一致し、内容と形式、目的と手段も一致すると見る。むくいは行為・思いそれ自身にも伴う厳しい掟で逃れようはなかった。それは彼の世界観が甘い楽天主義ではなく、現実・事実のきびしい理解に立つことを示した。しかしそれはその法を知りそれに従う人にとっては絶対安住の世界観であった。
 こういう世界をエマソンは何によって知ったか。直感であった。一種の直咸的洞察力によるのである。それは理智・理性(reason)、あるいは良心(conscince)ではなく、もっと根本的な、人間精神のどこかにある万人が本来恵まれている人間最高の感受性である。それは人間が恵まれたものではあるが、人間の意志によって左右することのできる人間の所有物ではなく、その最も純一の姿においては、それは神的特質であり、神の最高の恵みである。しかし多くはこれを無視し、曇らせてしまっていて、これを輝かしている天心の人はめったにない。多くは頭だけ、手だけ、あるいは足だけの怪物に堕してしまっている。しかし、この特質のみが、人を真理と美にみちびく神の光であり、学芸の泉であるとエマソンは説いている。彼はこの特質を「宗教的感受性」(the religious sentiment)、「絶対理性」(Reason)、絶対良心(Conscience)などと呼んでいる。また、彼は思想的目覚めのころクェイカーから一生を支配する深い影響を受け、後日自分の信仰の立場について「自分は何よりもクェイカーだ」と告白しているほどであるが、クェイカーらしくこの特質を「内なる神」、「内なるキリスト」、あるいは「内なる光」とも呼んでいる。
 この神と人間とを直結させる「内なる神」の思想は、人の内心に直接感ずる神的な直感に宗教の絶対の権威を認め、外的な教会組織や信条に権威を認めず、人間の自由と尊厳を外的制約から解放しようとする思想であるが、この精神の聖なる事実は東西古今の聖賢によって共通に立証されていると見ている。この信念からエマソンは東洋・西洋を一つに結び、宗教宗派間の障壁、宗教・文学・科学間の一切の人為的障壁を打破している。
        ──略──
   

  以下は、エマソン論文集(上) アメリカの学者 酒 本 雅 之 訳 岩波文庫より

 詩や芸術を通して、哲学や科学を通して、教会や国家を通して、すでに仄かな光を放ち始めている未来の日々のめでたい兆を読みとっては、わたしはいささか喜びを感じます。
 これらの兆のひとつは、国家のなかで最下層と呼ばれていた人びとの向上を実現したのとおなじ動きが、文学の分野でも、少しも劣らぬ好意をたたえ、しかも非常にはっきりした相貌を帯びたという事実です。崇高で美しいものの代わりに、身近なもの、卑近なもの、平凡なものが、さまざまに探られては詩に歌われました。いままでは、遠い異国へ長旅に出ようと旅装をととのえ食糧を調達している人びとにいとも無造作に踏みつけられていたものが、とつぜんいっさいの異郷の土地よりも豊かだとされるのです。貧者の文学、子どもの感情、巷の哲学、家庭生活の意味が、現代では話題になります。たしかに大きな前進です。手足が活気を帯び、暖いいのちの流れがその手と足に流れこむとき、たしかにこれは新しい活力の兆です────そうではありませんか。偉大なもの、遥かなもの、ロマンティックなもの、イタリアやアラビアの事情、ギリシャ芸術とかプロヴァンスの吟遊詩人などというものを、わたしは欲しくありません。わたしは平凡なものを抱擁し、見慣れたもの、卑近なものをあれこれとまさぐり、その足もとに坐ります。わたしが欲しいのはただ現代を洞察する力だけ、古代や未来の世界は喜んでお譲りいたします。わたしたちが本当に意味を知りたいと思っているのはどういうことでしょう。小桶のなかのひき割り麦、鎬のなかのミルク、街頭にひびく俗謡、船に関する便りヽ投げかけられる訴訟、体の姿態と歩きぶり、 ゛こういうことの窮極の理由を教えてほしい、これら自然の外縁や末端に一瞬の例外もなく潜みつづける至高の霊なる根源の荘厳な姿を教えてほしい。あらゆる些細なものが、それをたちどころに永遠の法則に一致させる磁性のゆえに。ことごとくいきり立っているさまを、商店が、鋤が、帳簿が、光を波動させ詩人を歌わせるのと同様な根源に帰せられるさまを見せてほしいのです、──そうすれば、世界はもはや無意味な寄せ集めやがらくた置き場ではなくなって、形式と秩序を持つようになります。些細なもの、理解に苦しむようなものはひとつもなく、もっとも遠い高峰ともっとも低い海溝をすら、ひとつの構想が結びつけ、活気づかせるようになります。
 ゴールドスミス、バーンズ、クーパーの、そして時代がくだって、ゲーテ、ワーズワス、カーライルの天才に霊感を与えたのはこの理念です。この理念のあとに彼らはそれぞれのやり方でつきしたがい、さまざまに成功を収めましたる。彼らの著作と対照させますと、ポーブ、ジョンソン、ギボンの文体は、冷たくて衒学(けんがく)的なものに思えます。ところがこちらの著作は血のぬくもりを感じさせます。身近なものが、遠く遙かなものに比べて、その美しさや不思議さがいささかも劣ぬことを知って人間は驚きを感じます。近いものが遠いものを説明してくれます。水滴は小さな海です。ひとりの人間が自然全体にかかわりを持っています。卑俗なものにそなわるこの価値の認識は、さまざまな発見を産み出してくれます。ゲーテは、まさにこの点で新しい人間のなかでもっとも新しい人間であり、しかも何びとの追随も許さぬほどに、古代人の精神をわたしたちに教えてくれました。
 このような人生哲学のために大きな貢献をしながら、かつて一度もその著作に正当な評価を与えられたことのない天才がひとりいます、──つまりエマニュエル・スエーデンボルグです。抜群の想像力をそなえながら、しかも数学者さながらの正確さで著述に励みつつ、彼は彼の時代の民間キリスト教信仰に純粋に哲学的な「倫理学」を接木しようとつとめました。むろんこうした試みは、どんな天才にも克服できそうにないほどの困難をともなっているに違いありません。しかし彼は、自然と魂の情感とのあいだの連関を理解して、人びとに教えました。目に見え、耳に聞こえ、手で触れることのできる世界の象徴的な、つまり霊的な性質を洞察しました。とくに、暗きを愛する彼の詩神は、自然のなかの劣等な部分の頭上を舞いつつ、その意味を解明するのです。彼は、醜い物質の形態に精神上の悪をつなぎ合わせる不思議な絆を教えてくれました。そして、狂気について、野獣について、不潔で恐ろしいものたちについて、壮大な寓話の形をかりつつ、論理的な説明をしてくれたのです。   ──略──   

     

 以下は、エマソン論文集(下) 詩 人  酒 本 雅 之 訳 岩波文庫より
   近代に生をうけたすべての人びとのなかで、スエーデンボルグは、自然を想念に翻訳する者として抜群の人物だ。彼ほど一様にものが言葉を表わしていると考えた人物を、わたしは史上ひとりも知らない。彼のまえでは変身劇がひっきりなしに演じられる。彼の目がとまるものは、どれもこれも、精神的本性の衝動に従っている。いちじくも、彼が食べればぶどうとなる。彼の天使たちのなかに何かの真理を確言する者がいると、彼らが捧げる月桂樹の小枝は、その手のなかで花をつけた。はなれていると歯ぎしりや殴打の音と思えたひびきが、近づいてみると議論し合う者たちの声だと知れた。彼の幻覚のひとつに現われた人びとは、天来の光で見ると、竜のように思え、闇に包まれているように見えた。しかし彼らはおたがい同士の目には人間だと思え、天からさす光が彼らの小屋の内部を照らすと、彼らはまわりの闇について不平を言い、外を見るには窓をしめざるを得なかった。
 スエーデンボルグには、こういう理解がそなわっていた。つまり同一の人間あるいは人間の社会が自分自身や仲間たちにある相貌を見せながら、もっと高い知性に対してはべつの相貌を帯びることもあるという理解がそなわっているが、だからこそ詩人や予言者が畏敬と恐怖の対象になる。おおいに学識を披露しつつ話し合うさまを彼によって語られる聖職者たちは、いくらかはなれている子どもたちには死んだ馬だと思えたし、これに似たような錯覚は多い。するとたちどこちに精神が問いかける、橋のしたのこの魚たち、牧場で草を食むあの牛たち、中庭にいるその犬たちが、はたしていつまでも変わることなく魚や牛や犬のままでいるのか、それともただわたしにそう思えるだけで、たぶん彼ら自身には直立する人間だと見えるのではないか、そしていったいわたし自身は誰の目にも人間だと見えるのかどうか・バラモンたちやピュタゴラスもこれとおなじ疑問を持ち出したし、誰であれ、もしも変態のさまを目撃したことのある詩人がいれば、きっとその変態がさまざまな経験と調和していることを悟ったにちがいない。われわれは誰でも、小麦や毛虫にさえ同様に重大な変化を見たことがある。流動する衣裳をとおして安定した自然を見ぬき、そのことを明言できるひとこそ詩人であって、きっとわれわれを愛と恐れの糸で引き寄せることになるはずだ。
   ──略──  

  

◎ 19世紀のエマソンの哲学は、現代でも支持されています。そして、その背後の教えには、スウェーデンボルグの神学があったのです。

 エマソン論文集の「代表的人間像」には、

第一章 哲人に生きる人ープラトン
補 説 あたらしいプラトン説にせっして
第二章 神秘に生きる人ースエーデンボルグ
第三章 懐疑に生きる人ーモンテーニュ
第四章 詩歌に生きる人ーシェイクスピア
第五章 世俗に生きる人ーナポレオン
第六章 文学に生きる人ーゲーテ

 として、スエーデンボルグを紹介しています。哲学における神秘主義から世俗世界への諸問題に対処して、英知にあふれる生活指針を示してくれています。

 

※ 後日加筆しますので!