tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

岩手のトルストイ

 斎藤宗次郎は1877年岩手県花巻市に生まれた。小学校教諭をしていたが、無教会主義キリスト教者の内村鑑三に影響を受け、クリスチャンとなりました。
 この頃の時代は、クリスチャンは世の人には歓迎されず、迫害されていました。生徒に聖書や内村鑑三の日露非戦論を教えたため、辞めざるを得なくなります。
 また、家に石を投げられたり、人から、うとまれたりしていました。

 そして、長女・愛子さんが、天長節祝賀式の式場で、「ヤソ教徒の娘だ」と男子生徒の肘で強く腹部を打たれ、これが原因で腹膜炎となります。 また、その後にも 隣家のろうそく工場より失火。そのおり、消防夫(養母の情夫が子分の消防夫に故意にやらせたもの。) により家を壊されたりしています。

 そして、その後愛子さんの腹膜炎が悪化し、九歳で亡くなりました。その亡くなる時、愛子さんは、父に、「賛美歌を歌ってほしい………」と言い、宗次郎は、泣きながら賛美歌を歌ったといいます。        

 さらに、賃貸中の水車小屋が賃借人の放火により全焼したり、養母・スミが斉藤の印鑑を盗用して作った多額の借金を整理するため、家屋敷・書店を処分するなどありました。              

 しかし、彼はこのような迫害にも関わらず、この村から離れようとはせず、この土地の人々のために尽くすことを選んだのでした。

 それから20年間、宗次郎は新聞配達をして清貧の暮らしを送りました。新聞配達を天職と感じ東京朝日や万(よるず)新報など十数種類、20キロ以上の新聞が入った大風呂敷を背負い、駆け足で配達したといいます。

 そして、くじけることなく神に祈り続け、子供に会ったらアメ玉をやり、新聞配達の仕事の合間には病人を見舞い、悩みや相談を聞き、人を励まし、祈り続けました。
 そうした斎藤の生き方を通して、まわりの人達からのキリスト教への偏見も、次第に尊敬へと変わっていきました。町の人たちはやがて「斎藤先生」と言って敬意をもってあいさつしてくれるようになり、ついに、町中の人達から尊敬されるようになったのです。
 後には「名物買うなら花巻おこし、新聞とるなら斎藤先生」と歌うようになったといいます。
 そのため、内村鑑三のもとで伝道者となるために上京する時には、駅に200人以上の人達が見送りに来ていました。宗次郎は、晩年、多くの弟子に裏切られた内村鑑三に終生つくして、その最後を看取っています。
内村鑑三全集』全二〇巻の編集にも尽力した人としても知られています。  
 宮澤賢次は日蓮宗の信者でしたが、宗派を超えた交流がありました。
 斎藤宗二郎が集金に行った時、招き入れられ一緒にレコードを聴いたりした話が宗次郎の日記にかかれています。そして、「雨ニモマケズ」の詩の中に新聞配達をする宗二郎の姿を重ねる人も多くいます。宮沢賢治よりも19才上でした。
 宮沢賢治の父、政次郎が宗次郎とじっこんの間柄でした。賢治も、宗次郎のことを尊敬していましたし、彼から内村鑑三の話を聞き、『聖書之研究』など内村鑑三の著作もたくさん読んでいます。若い頃の賢治はよく教会にも行っていたと弟の清六はいいます。賢治の叔母二人も、宗次郎に導かれてか、内村鑑三の門下になっています。賢治はキリスト教との関わりにも深いものがあったのです。
 斎藤宗次郎さんはひとすじに、まっすぐに生きた方で、周囲と摩擦が生じることがあっても、自分の信念を曲げなかったが、と同時に、ただ自分の信念を相手に押し付けるということはしなかった方であったということです。宗次郎さんが周囲と摩擦を引き起こしつつ、最後は丸く収まることが多かったのは宗次郎さんに相手を思いやる心があったからだと児玉実英先生(同志社大学名誉教授で斎藤宗次郎さんのお孫さんの連れ合い) は述べておられました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマの信徒への手紙12章15節)豊かな心を持ってらっしゃったのではないでしょうか。
 宗次郎の日記には、農学校の先生をしている賢治の職員室へ立ち寄って、話をしている場面が描かれています。宗次郎は、その農学校へ新聞配達をしていて集金に行くのです。そしたら「宮沢賢治先生がいた」と書いています。実際は宗次郎の方が年上なんですが、賢治のことを「先生」と書いています。宮沢賢治先生がいて、中に入ってお話をさせてもらったと。そこで賢治と何を話したかというと、宗教の話などではなくて、二人で音楽を聴いたりしているのです。宗次郎は、「宮沢先生はたくさんレコードを持っていて、ベートーベンとかモーツァルトとかドヴォルザークとか聴かせてもらった」と日記に書いています。さらに賢治と二人でストーブを囲んでいる様子をスケッチして日記に残しています。そういう関係でした。
 宗次郎は、僕は宮沢賢治と宗教の事で話をした事はないと後に回想しています。でも、この二人は静かに交わっていたんですね。宮沢賢治はつねに熱烈な仏教徒であったのですが、斎藤宗次郎と交わる中で、次第に自分の宗教だけを主張してゆくだけではいけないと感じていったからでしょう。
 斎藤宗次郎と賢治の意外な接点を見てきた人の中には、「デクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイウモノニ、ワタシバ、ナリタイ」という雨ニモ負ケズのモデルは、実はこの斎藤宗次郎ではなかったかという人も出てきています。宗次郎がモデルと決めてしまうのはよくないのですが、キリスト者として花巻を歩いている、その姿を見ながら、こういう信仰者の生き方もあるのだということを賢治は肌で感じていたのだろうと思います。
 また、その心は賢治の『永訣の朝』を読んだ日の日記にも表れています。最愛の妹トシを失った賢治の悲しみを、まさに我が悲しみのようにして思いやっていたことが日記から汲み取ることができます。それはまた、宗次郎さん自身がその人生の歩みにおいて、様々な痛み、深い悲しみを経験されてきたからこそ、他者の痛みを我が痛みのように思いやることができていたということもあったのではないかと思います。
 内村鑑三氏の最期の日のエピソードです。宗次郎さんはずっと師のそばに寄り添いつつ、時間ごとに呼吸の数まで数え、記録していたそうです。そのエピソードを聞いて、私は宗次郎さんの内村先生に対するすさまじいまでの、燃えるような愛を感じました。
  また、かつて斎藤宗次郎はお金がなくて、質屋だった賢治の家に金時計を預けてお金を借りたことがありました。そういう姿を見た賢治が、気の毒に思って「80円引替に渡してくれた」とのちに宗次郎が回想しています。そんな二人は、お互いの信仰のことでは話をしなかったというのですが、でも宗次郎は「共に、それぞれに与えられた信仰を堅く守り、互いに信仰を生活し居ることを理解し、その人格に深き尊敬を払った」と後に書いています。自分の信仰する宗教、それだけを主張する生き方というのは本当は良くなくて、別の宗教で生きている人の姿と共鳴しながら生きていくのが大事なのではないか、ということを、おそらく二人とも考えていたのだと思います。その「思い」が最も反映されていたのがあの『銀河鉄道の夜』だったのです。そこでは、二つの宗教が対立しないように注意深く配慮がなされていたのですから。  
 今、私が斎藤宗次郎の日記を見ながら思った事は、時代はみたび、宗教対立の時代に入ってきているなあという感想です。とくに、イスラム教とキリスト教との激しい対立には、今までにない憎悪が生まれてきているのを感じます。そんな、悲劇的な対立があるのですが、
 でも、かつて宮沢賢治と斎藤宗次郎が出会い、宗教論争を交わすこともなく、共鳴し合うようにして互いの信仰を認め合った、そういう信仰のあり方があったということを、今の時代に見直してもいいのではないかなと思いました。
 ※ 参考 岩手県花巻市仲町5-4 
  日本キリスト教団 花巻教会 
      説教 鈴木道也牧師 より
 
※ 斎藤宗次郎と宮沢賢治との出会い 
 斎藤宗次郎というキリスト者岩手県の生まれで、宮沢賢治より18才年上の人です。彼は内村鑑三の愛弟子として有名な方でした。内村鑑三は教会に属さないで、戦争反対、非戦を唱えていく独特なキリスト者でしたので、それに共感した人達もたくさんいたのですが、あまりにも強烈な非戦者、戦わないという人でしたから、お弟子さんたちは一人去り、二人去りしてゆき、その中でも最後まで彼についていった人が、この斎藤宗次郎という人だったといわれています。 この熱烈なキリスト者・斎藤宗次郎と、熱烈な仏教徒宮沢賢治とが、共に東北・岩手県の同時代に生まれていたんですね。そして、そんな個性的な二人が現実に出会っていたというのですから、驚かないわけにはゆきません。 最初の出会いはどういうものであったのか、確かなことは分からないのですが、高等農林学校時代、友人を誘って週1回タッピング牧師の教会に通っていたという証言もあり、学生時代には友人たちのそれぞれの関心が共鳴し合い、キリスト教への関心に、つながっていたのだと思われます。ただ、賢治の年譜の15歳の12月に、「キリスト者・斎藤宗次郎が質物を出しに来て驚く」と書かれていますから、ずいぶん早くから、賢治は宗次郎のことを知っていたことはうかがわれます。 こんど出版された斎藤宗次郎の日記『二荊自叙伝』を見て、賢治が最初の詩集『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せているところが日記に書かれていて、それにはびっくりしました。『春と修羅』は、妹トシが亡くなったことがきっかけで書かれているのですが、そのゲラを、宗次郎が読んで、深く感動した感想を書いているんですね。妹のトシさんは、東京の日本女子大学家政学部、本校で言う生活科学部に入学しているのです。大正10年頃ですから、そんな時代に花巻から娘さんを東京の大学に行かせたお父さんはすごいですね。この日本女子大学創立者成瀬仁蔵キリスト者ですから、仏教を熱心に信仰する家からのキリスト教的な学校への入学は、父親の英断だったんだなと思います。でもトシは、東京で結核に倒れてしまい、賢治が駆けつけて彼女を看病しています。その後、トシは花巻で亡くなるのですが、その頃には賢治と宗次郎は、親しい間柄になっていて、詩集のゲラを見せる間柄になっていたというわけです。
 

※ 斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』より、『春と修羅』を出版する前のゲラを、宗次郎に見せている箇所より………!
 青年は不図思い付いた様に、卓上の原稿の半ば頃を開いて予の膝に托す。軽き一言はこれであった。『これは私の妹の死んだ日を詠んだもの』、アゝ死の日を詠んだものか!予は心臓の奥の轟きを覚えた。何を休めても見ましょうと手に執れば、あの頃の彼女を想像せる姿。… 癒えんものなら癒ゆる様にと酸素を吸入する面影、そして作者の妹を愛しむ優しき心、霙降る朝であったと詠み始むる前に、予の心には色々の光景は浮び出でゝ」……
……青年の掻き集めし一椀の雪、これが兄妹の手と手の間を伝うて、切なる愛情の交換ともなった、清冽舌に触るゝ一刹那、兄さんの胸より溢るゝ愛の記念よ、内なる声は無声の詩ともなった。…此雪よ妹が天に帰り行かば其処にて、美味なるアイスクリームとなれよとも祈った。黙読反復

若き兄妹の永訣の朝の真情濃かなる場面に、我と我身を投じて堪えられぬ感に入った、青年は側より〝善し悪しは別です只其通りです〟と語った。予には発すべき言葉は無かった。茲に対話は一段落を告げた、二人は更に農村の疲弊と宗教家の軋轢と教育の不振に思いのまゝの批判を投げた、それでも我等には行くべき道があるとて悲憤より脱し、屈託より踊り出で素朴正信の態度を持して、老青年の奮励を促した………。

 

 ※ 「銀河鉄道の夜」より
 銀河鉄道」を走る列車は、死者ばかりが乗る列車なのですが、その列車に、タイタニック号の沈没で死んだ姉弟と、その家庭教師の青年が乗り込んで来ます。主人公のジョバンニは、彼らと親しく話をしていくわけですけども、だんだん時間が経つにつれて、姉弟らは列車から降りなければならない時間がやってきます。その時、ジョバンニは別れが寂しくて、女の子達にもう少し乗っていたらどうか、と言う場面があります。でも、十字架が見えてきて、賛美歌(「主よ、みもとに」)の音楽が流れてきます。その時に、ジョバンニが女の子達にもうちょっとここに居てくれと言うわけですけれども、女の子は、実はあそこにお母さんがいる(女の子達のお母さんが亡くなっているわけです)んだ、そこへ行かなくちゃいけないと神様もおっしゃっているんだ、とジョバンニに言うのです。その時にジョバンニは、そんな神様は嘘の神様だい、というふうに言います。すると、女の子は、嘘の神様じゃない、あなたのいう神様の方が嘘の神様だわ、と言い返します。列車でのそういうやりとりを聞いていた家庭教師の青年が、ジョバンニに向かって、あなたの言う「本当の神様」というのは何なのですかと尋ねることになります。その時にジョバンニは考えて、「よく分からないのです」と答えてしまうシーンが描かれます。 実は「銀河鉄道の夜」というのは、何度も書き直されているのです。始めの頃は、仏教の教えを広める使命を感じて、その手段として童話を書き始めているのですが、作品を書き改めてゆく中で、しだいに仏教の色を薄めるようになってゆきます。そして他の宗教を否定することもしないようになってゆきます。そのきっかけになったのが、実は斎藤宗次郎というキリスト者との出会いであったことが、今回の資料で具体的にわかってきたことがあるのです。先ほどの「銀河鉄道の夜」の少女とのやりとりでも、結局は自分の信仰する神様を「本当の神様」と押しつける発言を慎んでしまって「よく分からないのです」というふうに、主人公に言わせているのも、この斎藤宗次郎との出会いがあったからなんですね。
 ※ 「出会い」と「銀河鉄道の夜の引用
  村瀬 学  ブログ「じゃのめ見聞録」より
 
しかし、スウェーデンボルグキリスト教法華経の精神とには、矛盾はないのです。今後解説していきます。