tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

賢治の「春と修羅」

 賢治により生前出版されているのは、2冊だけです。『注文の多い料理店』の童話と。そして、この詩集とされている『春と修羅』なのです。 賢治自身の表現では、詩集ではなく、心象スケッチとして書いているといいます。

    法相宗大本山  興福寺の阿修羅像 

3つの顔はそれぞれ微妙に異なる表情をしており、戦いの神である阿修羅が、仏教に帰依して、悟りを開いていく様子を表していると言われています。また、上に差し上げられた腕はアスラのさらに原形である古代ゾロアスター教アフラ・マズダ(宇宙の創造と運行をおこなう生命と光の神)の性格を示し、もともとは月と太陽を持っていたと考えられています。

真ん中の腕は戦闘的だった頃の性格を表すもので、弓と矢を持っていたのではないかという説が有力。合掌する腕は仏教に帰依して守護神となった阿修羅です。 ※「春」とは長い冬に耐えた生命が一斉に芽吹き花開く明るい光に満ちた季節。 一方、「修羅」とは、仏教で死者が生まれ変わるとされる六道のうち、いさかいや争いに明け暮れる不穏な「阿修羅道」の世界。 一見、相反する概念を、賢治はなぜ並べているのか。 そこには、賢治のどのような人生の葛藤が秘められているのでしょう。 

 

  永 訣 の 朝

きょうのうちに

とほくへいつてしまふ 

わたくしのいもうとよ

みぞれがふつて おもてはへんにあかるいのだ  

  (あめゆじゆとてちてけんじや)

     (※ あめゆきをとってきてください)

うすあかく いつそう陰惨(いんざん)な雲から 

みぞれは びちよびちよふつてくる   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた 

これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に

おまへがたべるあめゆきをとらうとして

わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに

このくらいみぞれのなかに飛びだした   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から

みぞれはびちよびちよ  沈んでくる

ああとし子 

死ぬといふ いまごろになつて 

わたくしをいつしやうあかるくするために

こんなさつぱりした雪のひとわんを 

おまへはわたくしにたのんだのだ

ありがたう わたくしのけなげないもうとよ 

わたくしもまつすぐにすすんでいくから   

(あめゆじゆとてちてけんじや)

はげしいはげしい熱や あへぎのあひだから 

おまへはわたくしにたのんだのだ 

銀河や太陽 気圏などとよばれた せかいのそらから 

おちた雪のさいごのひとわんを……

ふたきれのみかげせきざいに

みぞれはさびしくたまつてゐる

わたくしはそのうへにあぶなくたち 

雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち

すきとほるつめたい雫にみちた  

このつややかな松のえだから

わたくしのやさしいいもうとの 

さいごのたべものをもらつていかう

わたしたちがいつしよに そだつてきたあひだ

みなれたちやわんの この藍のもやうにも

もうけふおまへはわかれてしまふ

(Ora orade Shitori egumo)

     (※ あたしはあたしでひとりいきます)

ほんたうにけふ おまへはわかれてしまふ

ああ  あのとざされた病室の 

くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく 燃えてゐる

わたくしのけなげないもうとよ

この雪はどこをえらばうにも 

あんまりどこもまつしろなのだ

あんなおそろしいみだれたそらから

このうつくしい雪がきたのだ   

(うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる)

 (※ またひとにうまれてくるときは こんなにじぶんのことばかりで くるしまないようにうまれてきます)

おまへがたべる このふたわんのゆきに 

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが兜卒(とそつ)の天の食(じき)に変わって

やがてはおまえとみんなとに

聖い資糧(かて)をもたらすやうに

わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ 

            (宮沢家版) 

  宮沢賢治の手紙 

 前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

     1925年(大正14年)2月9日 森佐一(作家 森荘已池の本名)あて封書 

 

 賢治は、トシが末期に近づいたとき、トシの耳もとでお題目を叫び、トシは二度うなづくようにして八時三〇分逝く。享年二四歳。

 ※ この“ 南無妙法蓮華経 ” を大きな声で唱えるは、「青森挽歌」で「万象同帰そのいみじい生物の名」として表現されています。

 

 そして、賢治は押し入れに首をつっこんで、トシ子、トシ子と泣いた。そして、トシが亡くなった日に「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書いた。  

 

※ 五十年前は今よりずっと寒くても、ストーブ、はどこにもありませんでした。病気で体が弱ると蒲団が重くて、病人も看護する人も苦しみました。滋養食の知識なんて、なんと貧弱だったでしょう。 結核の療法はほとんどなかったようなものです。衣、食、住、比べてみれば、今は何と恵まれている事でしょう。ほんとに豊富になっていますね。それでもまた別の苦しい事、ひどい事がふえて、限りがありません。人の世とはそういう事なのでしょうか。

 大正11年の11月27日、花巻はみぞれでした。急いで病室を出て、賢さんについて、私も下駄をはいて台所口から庭に出ました。ビチョビチョと降る雨雪にぬれる兄に傘をさしかけながら、そこに並べてあるみかげの土台石にのって緑の松の葉に積もった雨雪を両手で大事に取るのを茶碗に受けて、そして松の小枝も折って、病室に入りました。 ほんとうにあの病室は何と貧弱だったでしょう。………

……空気が動けばとし子姉さんはすぐにせき込むのです。少しでも空気の動くのを防ごうとかやを吊り、屏風を回してという具合でした。賢治兄さんは何か言いながら採ってきた松を枕元に飾り、お茶碗の雪を少しづつさじですくって食べさせてあげましたっけ。いつの間にかお昼になったと見えて、関のおばあさんが白いおかゆと何か赤いお魚と外二、三品、チョビチョビ乗せて来たお盆をいただいて、母がやしなってあげました。ああ、お昼も食べたしよかったと少し安心した気持ちになっていた頃、藤井さん(お医者様)がおいでになって、脈などみて行かれました。父がお医者様とお話して来られたのか、静かにかやの中に入つてから脈を調べながら泣きたいのをこらえた顔で、「病気ばかりしてずい分苦しかったナ。人だなんてこんな苦しい事ばかりいっぱいでひどい所だ。今度は人になんか生まれないで、いいところに生まれてくれよナ」と言いました。としさんは少しほほえんで、「生まれて来るったって、こったに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来る」と甘えたように言いました。私はほんとに、ほんとにと思いながら身をぎつちり堅くしていたら、父が、「皆でお題目を唱えてすけてあげなさい」と言います。気がついたら、一生懸命高くお題目を続けていました。そして、とし子姉さんはなくなったのです。その後は夢のようで、いつ夜になったのかどこで眠ったのか、夜中、賢治兄さんのお経の声を聞いていたようでした。夜明けに、袴をはいたとしさんが、広い野原で一人、花をつんでいるのがあんまり淋しそうで、たまらなく、高い声で泣いて目を覚ましましたら、賢さんがとんできて、 「何して泣いた?としさんの夢を見たか?」と差し迫った声で聞いたので、また悲しくなって、「それだって、一人で黄色な花っことるべかなって言ったっけも」とまた泣きました。 

                 (『宮沢賢治妹・岩田シゲ回想録 屋根の上が好きな兄と私』蒼丘出版) より

 

 ※ <宮沢賢治の体験談>

今日は君たちに幽霊の話をしよう。実は昨夜、死んだとし子が俺を訪ねてきたんだ。しばらく蚊帳の中で話をし、「迷いごとがあったらいつでも訪ねて来い」と言って、仏壇の前に連れて行き、法華経を唱えてやった。そして玄関を開け、支えるようにして帰してやったんだが、すぐそばに寝ていた父にも母にも、おれの姿しか見えなかったらしい。

 賢治がそう話すと、教室中がシーンとなり、みなつばをのんだと、教え子の松田浩一が語っています。

成仏できないで行く先を迷っている死者の霊が、幽霊になって現れるのですから、この話は賢治が「妹トシの霊が成仏できずにいる」と、思っていたということを示します。だからこそ賢治は霊界のトシからの通信をもとめて、かつて二人で語り合った霊界に似て、空も海も青く風も冷たく澄みきったサハリンへの一人旅に出たのでしょう。

※ 次の年の7月に、表面上は花巻農学校の教え子の就職の件で、樺太の豊原の王子製紙工場に盛岡高等農林学校時代の一年先輩を訪ねる旅でしたが、それは何よりも「トシとの交信を求める傷心旅行」だったのです。樺太の豊原に着いて、王子製紙の先輩を訪ねて、教え子の就職を依頼しています。その後に「オホーツク挽歌」へとなります。

亡くなったとし子が天国に行ったか、幽界でさまよっているのかを確かめると思ったようです。賢治は近隣の人が亡くなるとその状況や行き先がどうであるかなどわかっていたようですが、妹の死はあまりに悲しすぎて心の迷いが起こり行く先が皆目見えなかったようです。宮澤家では賢治の霊能力を世間に公言することはタブーとされていました。

  ※ 引用「素顔の宮沢賢治」 板谷栄城 著  平凡社刊 より

 そして、賢治はこのような結論に至ります。 

 どんなにトシのことで思い悩むのを止めようと思ってもその試みは脆く崩れ、トシに関する苦悩へと引き戻されます。そしてトシは、「どこへ堕ちようともう無上道に属してゐる」と語ります。つまり例え地獄界に堕ちようとも、トシなら、「勇んでとびこんで行く」と、賢治は、自分自身の心に言い聞かせています。最後に、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と、トシ一人の為に祈るのではなく、全ての人たちの為に祈っていたと語ります。これは、『銀河鉄道の夜』の中のジョバンニの言葉、「みんなのほんとうのいわいをさがしに行く」にも通じる、宮沢賢治にとって理想の人物像、つまりは賢治自身の決意表明なのでした。

 

 

 ※  映画「シン・ゴジラ」冒頭シーン

………船の名は「GLORY MARU」。揃えて置かれた靴が残されており、テーブルの上には折鶴と詩集『春と修羅』が置かれている。船内の様子を映した数秒後、撮影している職員の悲鳴と衝撃とともに映像は途切れる――。……ゴジラ出現