tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

パリのノートルダム大聖堂の夢解釈! ~6

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    「川辺の中世都市」1815年 カール・フリードリヒ・シンケル作

         (ベルリン、ナショナル・ギャラリー蔵)

 空想上の中世都市とゴシックの大聖堂を描いたこの絵は、19世紀を代表する建築家の1人、カール・フリードリヒ・シンケルの作である。彼は、新古典主義の数々の傑作によって有名であるが、決して教条的な古典主義でなく、中世の建築に対しても強いあこがれと深い尊敬の念を抱いていた。

 

(鍵)8                 (鍵)9

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『これら4つの図像は、12の美徳・悪徳とは明確に分け隔てられた形で、控え壁の中にはめ込まれている。
 まず左側、上の図像は、友人たちに取り巻かれ、虫に体中をかまれ、糞尿の中にまろびつつあるヨブが表現されている。その下の図像は、頭(破壊されている)も腕もなく、杖と槍にすがりつつ、急流を渡りつつある人物が示されている。美術史家等によれば、意味不明で特定できないとされている。

右側、上の図像では、今やまさにわが子を犠牲にささげようとするアブラハムがいる。天使がその腕を制止しようとするが、その腕も、子イサクの全部、天使の大部分とともに、なくなってしまっている。その下の図像は、塔のきわは、かぶとをかぶり、鎖かたびらをまとった戦士が楯のかげにいる。戦士は太陽に向かって槍を投げたところである。この男は、ニムロデであって、古くからの一伝説によると、塔の上に登って、天とその住人に対して戦いをいどもうとしたとされている。
キリスト教象徴解釈の立場から見るなら、これらの図像は、解釈上なんら困難は生じないと言われる。川を渡る人物の図像を別にすれば……。しかしながら、これら四つの図像は、12の美徳・悪徳の図像群とは、別扱いされていると思われます。それらの図像とに関係なく、それぞれ孤立したフレーズで示されている。ただし、12の美徳・悪徳の図像と高さが並べられて示されている。
 ところが、錬金術の象徴解釈によれば、ヨブは、完全の段階に達するまでにさまざまの試練を通ってくる、「賢者の石」の化身であり、アブラハムは、錬金術師、レトルトの火を吹く者であり、イサクは、レトルトの炉床に投じられる物質であり、天使は、物質を金に変える働きに必要な火である。

   【ユイスマンス著[三つの教会と三人のプリミティフ派画家]より】

 

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 (鍵) 8

「老樫の根元に湧く神秘の泉」

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 図の説明  このレリーフは、美術史家たちが、曖昧な説明や推測しかできない、意味不明な図像である。「ヨブが清流を渡っている」とかなど。又それらの書籍には意味が不明なので解説しないで省略しています。しかし、このレリーフこそが、上記のユイスマンスが述べるように錬金術の鍵が、この聖堂に記されていることを宣言するレリーフと思われます。〈カンスリエは、「哲学の女神」をそのように理解していますが、それは、ボエティウスの「哲学の慰め」を無視しているためです。しかし、この「哲学の女神」のレリーフも「錬金術の鍵」を入れて表現されているようです。〉

ところで、このレリーフは「12の美徳と悪徳」とは別のことなのに、それらのレリーフの両枠に同じ目線になるように並べられて表現されています。

そして、「ヨブ記」のレリーフと上下に対比して表現することにより、意味をなすという、この表現を計画した英知に驚嘆するばかりです。

 人は、完全に達するまでに様々な試練にあいながら、ようやく人間としての完全に達する。その錬金術の秘儀の知識がここにあることを宣言しているのです。錬金術のほとんどの一面は、この世の物質的なことではなく、精神の、魂の錬金術であり、黄金を作るとは、すなわち肉体を光輝くものとする、「人間の栄化」の術と考えています。ユイスマンスの言う[賢者の石]とは栄化された人間そのものと考えます。

──カンスリエは、物質的変成としてのみ解いているように見られます──

しかし、「大聖堂の秘密」の書評によると

 ──ついにフルカネリの説く錬金の書が簡単に入手できるようになった。錬金術の主たる諸局面の問題はこれでわれわれにも親しいものとなるであろう。19世紀の科学者たちはこの術に実験化学の萌芽を見、ヘルメス学の熱心な信奉者の何人かはこの術におけるプロメテウス的な企てによって魂の高揚を見た。フルカネリは、天啓を希求する霊知、別言すれば、人間や物質の内部に幽閉された一握の光を目覚めさせ、解放するのに長じた真の西欧的ヨガの教義と技を教えるのである。物質の貴金属への変成は霊における同種の変成を惹起せしめ、霊におけるこの変成がさらには物質のそれを生む。これこそ人類の永遠不変の夢の一切が絡み合う壮大至高の建築作業ではないだろうか。
   ロペール・アマドウ(『大聖堂の秘密』第二版刊行当時の書評。『コンパ』紙、1958年2月)──

この評論家は、錬金術の[物質の変成]とヨガと等しい[精神の変容]の秘密がこの書にあると評論している。この『大聖堂の秘密』も、その深奥では、「精神の変容」を述べているのでしょうか?。

 

参 考 ヨブ記」の概要について

「正義の神によって作られ、また維持されているこの世界に、なにゆえ苦痛や悪が存在するのか」、あるいは「そうした世界において、なにゆえ悪人が栄え、神を敬う義人が苦しむのか」という議論である。これは古代バビロニアにおいて、すでに紀元前2000年ごろ、「バビロニアのヨブ」と呼ばれる敬虔なる者の受難の詩として書き留められており、宗教上の大問題の一つである。「ヨブ記」の場合は、その基本的な部分が執筆されたのが紀元前四百年ごろ、ユダヤ民族が異民族の支配下におかれ亡国の民となっていた時期であり、神ヤハウェに対して「義」を問うユダヤ民族の悲痛な叫びが背景となっている。
 そのため主人公のヨブは、高潔な人格者で信仰心の篤い、非のうちどころのない人物という設定で物語が始められる。発端は天上で神ヤハウェと人間の罪を摘発する巡回検察官サタンが、義人ヨブをめぐって賭けを行なったことにある。恵まれた環境を失っても、神に忠実であり続けるかというのである。そこでヨブにありとあらゆる苦難が降り注ぎ、しかも倫理的応報思想にたつ友人たちから、この苦難はヨブの犯した罪の報いであるとの非難が向けられる。しかしヨブはそれを頑固に否定し、義しき者がなぜ苦難に見舞われなくてはならないのか問いつづけ、その不条理に抵抗する。そうしたとき、嵐の中からヤハウエが姿を現わし、自らが創造したさまざまな被造物を彼の眼前に次から次へと提示し、ヨブに自分の倭小さ、さらには自分の義をたてに神に要求することの「傲慢さ」を、いわば力ずくで納得させてしまう。屈服したヨブは、「口に手をあて」二度と神の非道を訴えないことを誓う。そしてその姿を見たヤハウェは、ヨブに以前に倍加する富と家族とを祝福として与えた。

  謎解釈  「神秘の泉」を発見する錬金術師である。トレヴィサヌスは、「鉱物についての自然哲学」の最後の「寓話」で、この泉について詳しく述べている。
この秘術師は、誤った道や怪しい間道に彷徨う長い歩みのすえに、とうとう喜びをえたのである。足元に、洞のある樫から湧きたつ清水が流れている。男は奥義に達したのだ。男は、カドモスのように竜を刺し貫いた弓矢を捨てたまま、波うつ澄んだ水源を眺めている。木にとまる鳥は、水が溶解作用と揮発性をもつことを男に教えている。
しかし、この神秘の泉とはなんのことか。金をはじめとするあらゆる金属を溶かし、溶質の助けをえて大作業を完遂させることのできる、この強力な溶解液とはどのようなものなのか。これは多くの探求者を挫かせた深遠な謎である。探求者の全員かほとんどは、哲学者たちが自らの城壁の外壁として築いた、この不可侵の壁の前に屈したのである。

  (鍵) 9

「錬金炉を外界の影響から守る錬金術師」

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 図の説明 美術史家たちは、ニムロデがバベルの塔を作ったあと、天に向かって投槍を放つところである、などとしている。上の図像の「イサク燔祭」のアブラハムと討論で負けたので対照的に描かれているとしている。しかし、今度は左側で得るその錬金術の秘儀を不用意に、口外してはならないと防御に当たるのです。……
 謎解釈 秘術師は、今度はその労苦の産物の防御にあたる。囲繞(いじょう)する銃眼からみて城塞とおぼしき建物の屋上に、甲冑と脛当で身を固めた騎士が、盾を手にしっかりと立っている。身を守ろうとしているようにも窺えるが、騎士は槍でなにかはっきりしないものを威嚇している。光線か炎か、残念ながら彫刻の損壊がひどすぎて見分けがつかない。闘士の背後では、4つの角柱の上にアーチ型の基部が置かれた、銃眼のある奇妙な小建造物を、擬宝珠を頂につけた天蓋が蔽っている。基部の円天井の下にある炎を放つ尖った塊をみれば、この建造物の用途がなんであるかがはっきりわかる。つまり、この小型の砦たる奇妙な主塔は、大作業の道具である「錬金炉」なのだ。すなわち錬金術師ならだれでも知っており、多くの書物や図板によって人口に膾炙(カイシャ)した〈広く世間の人々の話題となる〉、潜在的と実質的の二つの火で熱せられる玄奥の竈である。

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天使の損傷が激しくわかりにくいので、参考としてレンブラントの「イサクの犠牲」の絵画を掲げます。

 

フルカネリは、
【 これらの図像のすぐ上には補足とおもわれる二つの主題が描かれているが、この部分においては、秘教はキリスト教的な外観と聖書的題材の下に隠されており、勝手な解釈をほどこして避難を招かないためにも、これについて語るのはやめにしておこう。昔の錬金術師の中には、聖書の譬え話をためらうことなく錬金術的に説く者もいたが、その解釈たるや実に多種多様である。たしかにヘルメス哲学が、創世記の証言を錬金作業の第一の仕事の類比として頻繁に求めたり、旧新約聖書の比喩の多くが、錬金術との接触によって思いもよらぬ奥行きをもつことがあるのは事実である。この事実がわたしにも同様の取り組みをうながすとともに、そうすることのいいわけにもなろうというものだが、やはり本書では意欲のある観察者の解読にひろくひらかれた、非宗教的であることがあきらかな図像だけをとりあつかうことにしたい。 】
 と述べて解釈していません。しかし、これら上部の二つのレリーフは、下部の錬金術の二つのレリーフとの関係から述べるべきもので、上部の二つのレリーフがそれぞれに単独で表現されているならば、それは、単なるキリスト教の図像としてのみ解釈されるのですが、対比されて表現されているところに意味をなすものと考えます!。

悪徳2「絶望」      悪徳8「焦燥」

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図の説明 「絶望」の図像は、「プシコマキア」によれば、当初は「憤怒」の図像でした。

謎解釈 残る二枚は実際のところあまりにもひどい毀損を受けており、何らかの意味をなしうる状態ではない。そのため残念だが、残骸と化した第五番目(左側)と第十一番目(右側)の図像は飛ばすことにしよう。※ フルカネリは、この二枚のレリーフの解説をしていません。五番目は「絶望」 十一番目は「焦燥」です。

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【コラム】①‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

 これらの「絶望」の図像の変遷を見るとより自死に近くなっています。リヨンの図のように自死する人はいないでしょう。また、各図像では、投げ槍で自傷する図はありません。投げ槍で自分を傷つけるには不自然な武具であるため、すべて剣となっています。

   以前にヒーラーが近くにいて、私たちが口論・討論していたとき、「身体に刺さって痛いからやめて下さい。」と言われたことを思い出します。
 このヒーラーさんは、一般の私たちが感知出来ない微細なエネルギーを感じとるようでした。このヒーラーさんの前に来るとその人の身体の状態と同調し、どの箇所が悪いとか痛みとかを言葉で訴える以前によくわかっていて、そこからヒーリングが始まるのです。(「気」とか「サトルエネルギー」等とか・・・いいます。)

ある時、このヒーラーさんから電話がかかってきた時、「あなた、今お腹が痛いでしょう?」と言われました。確かにその時、胃の具合が悪く腹痛をおこしていましたから。「えー」とびっくりしてしまいました。このときに他人のエネルギー場に同調してわかるという感覚について理解し、確信することが出来ました。
 「怒り」から発する言葉からも手裏剣のようなトゲが飛び出しているのです。
そして、もっと大きな恨みや呪いからも槍のようなきつい負のエネルギーが発せられているのです。そのエネルギーが相手から跳ね返された場合、自分に戻ってきて、自分を突き刺すのです。
 「魂の戦い」である「プシコマキア」では「憤怒」よりふりそそぐ無数の矢や、我を忘れた「憤怒」が投槍をつかむと、それを自分の胸に突き立てる。などというのはこれらのことを表現しているように思います。
 しかし、時代を得るに従って、この感性を感じとる芸術家等がいなくなり、この図像が自死となり「絶望」と理解され、「希望」と対比して、現在に至っていると思われます。
「憤怒」に分類されていた図像が「絶望」に変遷されているのはこの辺の事情からでしょう。
憤怒が自分のあるべき生き方の生命力を阻害し、はたまた他人をも傷つけるのです。そのため、戒めとして「魂の戦い」であり「忍耐」しなさいと、この図像群は訴えているものと考えています。

    ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥【コラム】①

 

※プルデンティウスの詩「プシコマキア」の特徴的な挿話

 「 彼はまず対峙している「悪徳」の軍隊と「美徳」の軍隊を示す。その隊列から戦士たちが出てきて、叙事詩の掟に従ってたがいに戦いを挑み、一対一の決闘をする。
 「信仰」がまず気高い無謀さをもって平原を突進する。彼女は鎧と楯で身を守るのを潔しとせず、胸を露わにしたまま、敵である年老いた「偶像崇拝」の前に進み出る。戦いはすぐに終わり、ひどい手傷を負いながらも「信仰」は「偶像崇拝」を打ち倒し、その頭を誇らしげに踏みつける。
 「貞潔」は光り輝く甲冑をまとった若き乙女で、「淫蕩」の突然の攻撃を受ける。「淫蕩」は煙を上げる松明を振りかざした遊女である。「貞潔」は石つぶてでその松明を打ち落とすと、剣を抜いて「淫蕩」の喉を掻き切るが、「淫蕩」は泥のように濃い血を吐き、その魂を吹き出して清らかな空気を汚染する。ホメロスの戦士のように峻厳な「貞潔」は、彼女の敵の屍を罵り、貞潔がはじめて勝利したあのユディト(酔って寝ていたアッシリアの大将ホロフィルネの首を斬り、イスラエルを救う。『ユディット集』)を讃え、そして汚れた剣をヨルダン川の聖なる水で洗い清める。
 「忍耐」は慎み深く控え目であるが、「憤怒」の攻撃を毅然として受ける。彼女はその鎧にふりそそぐ無数の矢を平然と受け止める。「憤怒」は剣を握って突進し、その敵の頭に切りつけるが、兜はそれをはね返し、剣は粉々に砕け散る。我を忘れた「憤怒」は、足下にあった投槍をつかむと、それを自分の胸に突き立てる。かくして、「忍耐」は剣を抜くことなしに敵に打ち勝つのである。
 「傲慢」はその間、悍馬に跨がって敵軍の前線を走りまわる。彼女の額にそびえ立つ髪はまるで塔のようで、マントは風に翻っている。この血気にはやる戦士は敵軍に乱暴な罵声を浴びせかけ、それに動じない「美徳」たちを臆病者と侮辱する。突然、騎士とその馬は「欺隔」が戦場に掘った落し穴にはまる。その時「謙遜」は前進し、「希望」が差し出す剣を握って「傲慢」の頭を切り落とす。そして、この美しい乙女は黄金の翼を広げて天に昇ってゆく。
 「放蕩」は、髪芳しく、優美で、物憂げであり、豪華な戦車に乗って現われる。その車軸は黄金で作られ、車輪には琥珀金が巻かれていて、あちこちに宝石が輝いている。この美しい敵はまったく新しいやり方で戦う。矢を射る代わりに彼女は董の花を投げ、また薔薇の花をまき散らすのである。これを見て「美徳」たちは動揺するが、十字架の旗印を掲げた「節制」は、戦車に繋がれた馬に向かって進む。馬たちは棒立ちになり、戦車は転覆し、「放蕩」は地面に放り出される。従者たちは彼女を見捨てる。「激情」は自分のシンバルを投げ捨て、「愛欲」は自分の弓を打ち捨てて逃げ去ってゆく。投石の一撃で「節制」は弱い敵を打ち負かすのである。
 この戦いの間、つねに抜け目のない「貪欲」は、敗走する「放蕩」が砂上にまき散らした黄金や宝石を鈎形に曲がった指で拾い集める。彼女はそれを懐に隠し、ついで巾着や左腕の下に隠した袋に詰め込む。
「理性」は思い切って彼女に攻撃をしかけるが勝利することはできず、「慈善」が応援に駆けつけなければならない。彼女は「貪欲」を殺し、その黄金を貧者たちに配るのである。
 戦いは終わったようである。オリーヴの枝で作られた冠を被った「和合」は、勝利の旗を陣営に持ち帰るよう命じる。しかし、彼女がまだ話している間に一本の矢が敵の隊列から放たれ、その脇腹を射抜く。
それは「不和」の仕業で、彼女は武器を置くことを拒否したのである。新たな戦いが始まり、「信仰」に打ち負かされた「不和」は、槍の一撃で舌を刺し抜かれる。
 ついに戦いに勝った「美徳」たちは、その勝利を祝うために、『黙示録』の「新しいエルサレム」に似た神殿を建てる。
 プルデンティウスの詩はこのようなものであり、文筆家たちや芸術家たちはしばしばそこに着想を求めた。 」  [「ゴシックの図像学(上)」  エミール・マール著より] 

 

次回は、夢解釈に対する批判等です