tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

『 視霊者の夢 』の夢解釈 ! ~3

f:id:tanasuex:20210919144549j:plain

f:id:tanasuex:20210919144644j:plain

 『ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア

                                              BIBLIA HEBRAICA STUTTGARTENSIA』(ドイツ聖書協会)

 

創世記の天地創造物語をヘブライ語原典を交えて解説していきます。

スウェーデンボルグの聖句の翻訳は、霊的・内的意義のために、通常の翻訳された旧約聖書では、つまずきとなるからです。

 

                  スウェーデンボルグ研究誌 新  教  会  機関誌 創刊号 

                                                   鳥 田 四 郎 主筆  1953年8月発行より

   スウェーデンボルグは、第一巻の冒頭に、大要次のようなことを述べています。
聖言が主の聖言であり、主より出でたものであるなら、それは全体としても又部分としても、そこに主のこと、天界や教会のこと、信仰問題等が説かれているはずであるにも拘わらず、聖言の内的意義である霊義が知られていなかったからである。人間の肉体を活かしているものは霊であって、両者が分離せられれば、死あるのみである。その様に、聖言の文字的外的意義は、その背後に隠されている生命そのものなる主を証している霊的意義から分離することは出来ない。この聖言の霊的意義を世に伝えるために、ス氏は主の憐憫を受けて召され、絶えず霊や天人達と語り合い、未だ人の知識や想念に浮かべられたこともなかった霊界の驚異を見聞することを許され、また忠信な者の祝福された状態である天界や、不信な者の不幸な状態である地獄について教えられて来たのである、と。

創世記第一章は誰が読んでも天地創造の物語としか理解出来ない。ところがス氏はこれを以て、人間が霊的に誕生する諸階程を説いているものとするのである。
即ち、本来人間は神に造られ、支配され、保護され、導かれているものであるから、自らの立場を知って、神に対して謙虚と従順を以てし、凡てにおいて神に栄えを帰すべきものであるにも拘わらず、現実の人間の状態は神の存在さえ認めない有様である。この様に神から離れて失われた状態にある人間が、神に対する目覚めを与えられ、次第に正しい理解(信仰)に導かれ、内なる心の相と共に外なる生活態度も改革され、かくして、単に理解や思考の方面ばかりでなく、その内なる意義までも改善され、地(人)には多くの生物(良き実)を生じて、神ご自身その業に満足し給い(六日目)、最後に人の心のうちにて罪と戦い給う神が休み給い(七日目)、その結果、人は罪の奴隷たる様より解放され、ついに自由と平和とを宿して安息を獲る。これが第一章から第二章第3節までの内的意義である。
もちろん第一章を文字的意義による理解に限定しても、我らはそこにキリスト教神観中最重要な創造者になる神信仰の理解や、また、神話的表現であるがすでに数千年前、現代の進歩した自然科学による地球発達史と驚くべき一致をみる創造段階の記事がなされたことを思うだけでも聖言の価値を充分認識し得るであろう。しかしながら、物質世界創造記事の背後に、人間の霊魂の創造記事をその内義として有していることを理解するとき、聖言の永遠的価値認識を一段と深められるのである。何となれば物質世界は過ぎゆくものであるが善や真理、愛や信仰の問題を内容とした霊の世界は永遠であるからである。それ故ス氏は、聖言は唯にこの世界で読まれるばかりでなく、霊界においても読まれ、そしてそこでは霊的意義において理解されるというのである。主は「我が語りし言葉は、霊なり生命なり」(ヨハネ6・63)と言われたが、聖言を覆うている物質的、内的関連の衣をはく奪された形において理解するとき、聖言は時間と空間とを超越した永遠普遍の真理の言葉となるので、この意味において聖言はこの世においてばかりでなく、来たるべき霊の世界においても読まれ、理解されることが肯かれるのである。

  

鳥田四郎氏の機関誌の聖書本文は、文語訳で解説していますが、取りあえずその原文のまま掲載していきます。後で、スウェーデンボルグの英訳原文の翻訳書から解釈・解説するときは、口語訳聖書で解説していきます。
(文語訳の聖書は、明治訳とも言われ昭和30年に口語訳が出るまで、親しまれていました。)

 

 本『創世記霊解』は、もっとも忠実な客観的紹介でなく、私自身の主観的理解による
紹介で自由な解釈をしている所も多いと思いますから、あらかじめご了承下さい。

『 創 世 記 霊 解 (1) 』 

第 1 章
 創造第一日(創世記1・1-5)
    ───黎明の訪れ───

1 元始(はじめ)に神天地(かみてんち)を創造󠄃(つくり)たまへり  2 地(ち)は定形(かたち)なく曠空󠄃(むなし)くして、黑暗󠄃淵(やみわだ)の面(おもて)にあり、神(かみ)の靈(れい)水(みづ)の面(おもて)を覆(おほひ)たりき  3 神光(かみひかり)あれと言(いひ)たまひければ光(ひかり)ありき、 4 神光(かみひかり)を善(よし)と觀(み)たまへり、神光(かみひかり)と暗󠄃(やみ)を分󠄃(わか)ちたまへり、 5 神光を昼と名(なづ)け暗󠄃(やみ)を夜(よる)と名(なづ)けたまへり、夕(ゆふ)あり朝󠄃(あさ)ありき 是(これ)首(はじめ)の日なり

 1節
【元始(はじめ)】 ここでは新生への第一期で、肉体の誕生より、啓示信仰に目覚めさせられるまで
【天地)】 「内なる人」を「天」と言い、「外なる人」を「地」という。人間は内なる人と外なる人によって成っている。内なる人は内なる心で、神・信仰・愛等の問題を感じたり、考えたりする処で、信仰に生きている者のそれは神に向かって開かれているが、そうでない者のそれは神に向かって閉ざされ、地獄に向かって開かれている。外なる人は肉体と肉体に直接結びついている外側の心によってなっており、感覚、言語、記憶的知識等の問題は外なる心でなされる。この内外二心の故に二重人格的振る舞いや行動がとられることがあるのは、我らの知るところである。
【創造】 神が人を霊的に新生せしめること。詩102・18、104・30
信仰はそれがいかに初歩的なものであっても、それは神の業である。〔本節は二節から五節までの諸言と見るべきか〕

 2節
【地は定形なく曠空󠄃(むなし)く】 外なる人に何の善も真もない様(エレミア4・22~23)
【黒暗】 信仰や霊的生活に対する全き無智
【淵の面】 欲と虚偽にとらえられている様(イザヤ51・9~11)
神の霊】 主の憐憫
【水の面】 真や善に関する知識で、内なる人が頼みとしている外なるものに破綻を覚えるまで蓄えられているもの(預言書中に「残れるもの」とあるもの)
【覆う】 雌鶏がその卵を覆い抱き温める様。
霊 義 人間は神について目覚めが与えられるまでは、外側を飾るこの世の知識や道徳の故に、自分を立派な者と考えているが、神の側から見ると、何の善も真もなく、自己とこの世への愛に基づく欲心と霊的真理に関する無智の故に生気を欠いた黒塊のごとく映ずると、ス氏は述べている。しかるに神は、人間が生まれ落ちるから新生の前夜に至るまで、当人の意識には明らかではないが、およそ善きこと、およそ真理なることに関する知識を蓄えさせ、あたかも雌鶏が卵を抱き温めて孵化せしめるごとくに、期の到るまで備えて下さる。それ故一個の人間が神のものとなるまでには、実に長期にわたる神の憐憫にによる配慮があることを知るべきである。
 3節─5節
【光・暗 昼・夜 朝・夕】 神は光であり、神より出ずる真理・智・信仰は光であり、人間より出る内なるものは暗である。主の活動し給うは昼で、その反対は夜である。「エホバの日(昼)」なる言は預言書に多い。夕は先なる状態、不信の状態で、朝は後なる状態で、信仰の状態、また主につけるもの、主の到来の時等を意味する(サム後23・2-4、イザ13・6 9 13 22、エレ6・4)
霊 義 神の憐憫と忍耐のうちに配慮されて来た長夜は、我らが神の言なる啓示にあずかることによって、明け初めるのである。光それ自身にて在りし給う主が、「光あれ」と聖言の真理の光を以て、我らの内なる霊を照らし給うとき、今まで主によって秘かに蓄えられ、温められて来た「残れるもの」なる知識が働いて、この上よりの光の言を受け入れるのである。
 この期から、我らの善悪、真偽の価値判断は傾倒せられ始まる(ピリポ3・78)。こうして我らは神の光により、光と暗との識別能力を得、神の業と人間の肉的業との別を知り、信仰は夕より朝へと向かって進み、天地創造の第2日目、即ち、人間の内なる人と外なる人との新生第二期に入るのである。

   ※ これ以降の『創世記霊解』は、「新教会」誌、
                                     第2号(1953.9)~第11号 (1954.6) によります。

 

 創造第二日(創世記1・6-8)
   ───神による信仰知識と
        人間に由るそれとの分離───

6 神言いひたまひけるは、水の中なかに穹蒼(おおぞら)ありて、水と水とを分󠄃かつべし、 7 神穹蒼(おおぞら)を作りて穹蒼の下したの水と穹蒼の上の水とを分かちたまへり、すなはち斯(かく)なりぬ、 8 神穹蒼(おおぞら)を天と名づけたまへり、夕あり朝󠄃ありき、これ二日なり
 6節─8節
【穹蒼(おおぞら)】 内なる人
【穹蒼の上の水】 内なる人に宿る知識で、神による信仰理解
【穹蒼の下の水】 外なる人に宿る人間に由る記憶的知識
霊 義  新生の初期に在るとき、人は未だ充分に自己愛とこの世の愛に死に切っていない。それで、この世的な楽しみである富貴や名誉等を求めることが多いために、神より与えられている信仰の知識をこの世の与える知識と混淆させたさせた状態に置いている。しかるに神はあるときから──そしてそれは特に我らが人生の危機的出来事、例えば病気・事業の失敗・自己の愛してやまないものの喪失等大打撃に直面して、自己のより頼んでいるこの世の知識の無力さを悟らされる場合に多いが──内なる人に宿っている神から与えられている信仰またその知識と、外なる人に宿っている人より出でた記憶的知識との別を明らかになし給う。これについて今私が思い出すのは、ある人から聞いた一伝道者の実話である。
 神学校を卒業して間もない一伝道者が地方の小都市で伝道していた。一夜、一見して不幸そのものの悲哀にあるとしか思えない一人の盲人が彼の教会の門を叩き、「自分の様な不幸な者でも救って戴けるでしょうか」と訊ねた。伝道者はその頃流行していた神学書の翻訳著書も出していた人であったが、彼の前に立っている不幸な人を慰め励ます言をもち合わさなかった。彼は奥に駆け込んで彼の母親に支援を求めた、と。
もしもこの伝道者が、真に人を救う神よりの信仰知識を持っていたなら、このような狼狽した場面を演じなかったであろう。何となれば、キリストの救いはこの様にこの世のものに貧しくなった人の求めを満たすものであるからである。彼の持っていた神学知識は、結局、外なる人に宿っていた記憶的知識に過ぎないもので、神より与えられた信仰ではなかったのである。ただしこの伝道者が、今まで自分がより頼んでいた神学的知識の無力さに目覚めさせられたという危機的経験から、信仰の再出発をしたなら、彼は新生第二期への階程に進み得たというプラスを獲得したことになったであろう。

  創造第三日(創世記1・9-13)
    ───悔改と勤行の初期的状態───

9 神言ひたまひけるは、天の下の水は一處(ひとところ)に集りて乾(かわ)ける土顯(あらわ)るべしと、即斯(かく)なりぬ、 10 神乾ける土を地と名づけ、水の集合(あつまれ)るを海と名づけたまへり、神之(これ)を善と觀(み)たまへり、 11 神言ひたまひけるは、地は靑草と種を生ずる草と其類(そのるい)に從ひ果を結び自ら種をもつ所󠄃の果樹を地に生ぜしめよと、即かくなりぬ、 12 地靑草と其類に從したがひ種をもつ所󠄃の樹を出せり、神これを善と觀たまへり、 13 夕あり朝󠄃ありき、是(これ)三日なり
 9節─13節
【水・海】 「水」は1章・2節の「水の面」にある如く、神より与えられた真や善に関する知識で、「海」はそれら知識の集積である。
【地】 1章・1節では、人間は「天」によって表わされている「内なる人」と、「地」によって表わされている「外なる人」によって成っているとした。神は我ら人間の「内なる人」を通じて「外なる人」に聖業を進め給う。あたかも自然界の大地が生命を受け入れて動植物を生長繁殖させる生命の容器であるように、人間の心も神の生命を受け入れて、愛や信仰の善き業を生長繁殖させる。(マタイ13・19-24、マルコ4・26-28)
霊 義 神による信仰知識と人間によるそれとの区分が 明らかにせられると、「内なる人」に宿った信仰知識は、「外なる人」にまで進出し、そこで記憶として集積せられるようになる。これが「天の下水は一所に集まり、海と呼ばれる」ものである。すべて神より与えられる信仰や愛は、「内なる人」を通じて「外なる人」にまで降下進出しなければ、善き業として外に現れない。かくして「地」なる「外なる人」に進出した神の生命の種は、次第に発芽、生長、結実するに至る。それがここに、青草、種を生ずる草(穀類か)果樹を以って表されている「信仰の善き実」である。かく彼は悔改で善行に励んでいる。しかしながら彼は、善き信仰、善き行為、善き言を、信じ、行い、語るのは自分自身によるものであると思い、すべての善きものは神より来る(ヨハネ伝3・27、15・5)ことを悟っていない。彼は彼のなす善きもりのにより、これらを与え給うた神を崇めずして、自分を崇める傾向にある。この様な未熟な信仰状態では、彼の「外なる人」なる地に生ずる産物は、活動的動物に譬えられる善き業でなく、せいぜい非活動的植物を以て譬えられる程度のものとなるのである。しかし非活動的な植物でも、最初は青草、次には種を生ずる草、最後には果樹と言うように、向上進歩のあとを見ることが出来る。こうして神によって始められた人間の霊魂創造の業は、再び、夕の状態より朝の状態(1章5節参照)に向かって進められ、次の新生第四期の状態に移行するのである。

   創造第四日(創世記1・14-19)
    ───愛と信仰の二大光体生ず ────

14 神言ひたまひけるは、天の穹蒼(おおぞら)に光明(ひかり)ありて昼と夜とを分󠄃わかち、また天象(しるし)のため、季節のため、日のため、年のために成なるべし、 15 天の穹蒼にありて地を照す光となるべしと、即ちかくなりぬ、 16 神二つの大なる光を造󠄃り、大なる光に昼を司どらしめ、小さき光に夜を司どらしめたまふ、また星を造󠄃りたまへり、 17 神これを天の穹蒼(おおぞら)に置きて地を照らさしめ、 18昼と夜を司どらしめ、光と暗󠄃を分󠄃たしめたまふ、神これを善と觀たまへり、 19 夕あり朝󠄃ありき。これ四日なり
【大なる光】 太陽で愛を意味する
【小さき光】 月で信仰を意味する
【星】 真理及び善の知識

霊 義   新生第四期の本段階の特徴は「大なる光」によって象徴されている愛なる光が【小さき光】によって象徴されている信仰の光と共に主によって「内なる人」【天の蒼穹(おおぞら)】に植え付けられることである。今までの新生の諸階程における信仰の進歩は、信仰理解の進歩の知的なものであった。信仰は知的理解に止まっている間は、その教えの真理であることを知りながらも、これを実行することに歓びを覚えないから、律法化にある重圧を感じ、神の審判の恐怖下に神の誡(いましめ)を守ろうとする。従ってこの様な状況下では、信仰の善き果は創造第三日の非活動的な植物によって譬えられている性質と程度のものである。ただし、もしも我らが、神の憐憫に縋(すが)りつつ、熱心に神の誠に生きようとするならせ、神は我らの「内なる人」の意思に「大なる光」なる愛を、「小さき光」なる信仰と共に植付け給い、我らをして神の真理に従って生きることに歓びを覚えさせ給う。それ故、その後の信仰生活はとみに活気を呈し、地に生ずる産物は活動的動物をもって譬えられるものとなるのである。
 ここに我らは簡単に、真理と善、即ち、信仰と愛との関係について考察してみたい。
プロテスタント信仰に生きる人々のうちには、聖書を重んじながらも、使徒パウロの書簡中の一部の言を偏重または誤解し、主の十字架上の死を贖罪そのものと誤認し、その教理を受け入れることによって、神の前に義とせられると信じ、聖書のうちに最も強調して説かれている愛に関する教えや誠を顧みないものがある。しかし自然界の太陽から光を受け入れて、熱を受けることの少なくなっている冬期の大地は生気を失い、植物は枯れ、動物は冬籠りの状態に入り、春の来るに及んで初めて活況を呈する如く、彼らの信仰生活においても、霊界の太陽なる神より、光に対応する信仰を受けて、熱に対応する愛を受けないなら、冬の状態となり(マルコ13・18-19)信仰生活は沈滞し、善き業の見るべきものも生じないのである。何となれば、愛は人の生命であり、愛に結ばれた真理には力があるが、愛から遊離した真理や信仰は立ち消えとなるからである。
 今や神は「内なる人」に二つの光体を与え給うたが、14節の「天の蒼穹に光ありて」とある。「光」は複数形であるが、「あり」の動詞は単数形である。即ち、愛と信仰とは人の内に与えられる二つの光であるが、両者は一体となって「地」なる「外なる人」を照らし働くのである。信仰と愛とは、互いに分離するとき冬枯の信仰状態となるか、正しい信仰をを逸脱した狂信または盲信となる。
 しかし我らの霊的生活は淡々とした変化なきものではなく、むしろ一進一退しつつ成長するものであることは、自然界に季節・日。年の変化があるのと同じである。もしも我らの霊的生活において愛や信仰の盛衰強弱の変化の移行が多少なりとも経験されないなら、相対的にのみ感得せられるこれらのものの価値は理解されず、またその歓びも得られなくなるのである。そして愛が主となり、信仰が従となるとき、我らの霊的生活は昼の状態となり、これと反対に信仰が主となり、愛がその姿を隠すと夜の状態となるのである。(1章5節参照)

  創造第五日(創世記1・20-23)
    ───信仰理解による躍進───
20 神いひ給ひけるは、水には生物ゆたかに生じ、鳥は天の寫蒼の面に地の上に飛ぶべしと。 21神おおいなる魚と水にゆたかに生じてうごくすべての生物をその類に従ひて創造り、また翼ある諸の鳥をその類に従ひて創造りたまへり。神これを善と観たまへり。
22 神これを祝して曰く、生めよふえよ、海の水に満てよ、また鳥は地にふえよと、23 夕あり朝ありき、これ五日なり。
【生物】 直訳すれば「生ける魂」である。即ち植物のごとく自ら動かぬものでなく、自ら活動するものである。
【烏】 善悪両義において理解力・想念を表す、ここでは善い意味の理智(マタイ13・32、エゼキエル17・23、イザヤ46・12)
【魚・おおいなる魚】 「魚」は記憶的知識、「おおいなる魚」は記憶的知識一般(エゼキエル47・8-10、29・3の「鰐」は「大いなる魚」と同語)
霊 義 新生第三期の悔改と勤行の初期的状態においては、善き業として見らるべき産物は、たとえば、未だ自らは全く動くことも出来ない植物で、生気を欠いたものであった。しかるに第四期に入り、「大なる光」によって誓えられる愛なる光体が、「小さき光に」よって替えられる信仰の光体と共に、「内なる人」(天の蒼穹)に植え付けられて、両光体が一体となって「外なる人」(地)を照し始めたこと、及び、本第五期に入り、すべての善きものは、想念・言・行為等の何れであっても、神より出でるものであって、自分自身に由来しないとの、謙虚な信仰が与えられるに及んで、地の面なる外なる人に生み出されて来るものは、水中には自ら活溌に動く「生ける魂」なる小動物即ち魚類(記憶的知識)や、魚類の代表者鯨(記憶的知識一般)であり、地の上の穹蒼には自由にかける鳥類(理智)である。とくに後者の理智を表徴する鳥は、たんに地(外なる人)の上を飛ぶ許りでなく、蒼穹(内なる人)の面をかけるものであるから、内なる人に宿る高度の霊的知識をも表している。しかもかかる信仰知識が「生めよ、ふえよ」とか、「海の水に満てよ」(「海の水」は(知識の集積を意味する)とか言う神の祝福を受けて、いやましに増加成長して行く状態、これが新生第五期の状態である。かくしてここにも、夕の状態より朝の状態への信仰の躍進が逐げられ(「朝・夕」に就ては、「第1章3節参照」)新生第六期の状態に移行するのである。
  創造第六日(1・24─31)
    ───神の像なる霊的人───
 (1) 霊的人の外的状態(24─25)
24 神言いたまひけるは、地は生物をその類に従ひて出し、家畜と匍うものと、地の獣を其類に従ひて出すべし之、即ち斯なりぬ。
25 神地の獣を其類に従ひて造り、家畜を其類に従ひて造り、地の諸の匍うものを其類に従ひて造ケたまへり、神之を善と観たまえり。
【家畜・匍うもの・地の獣】動物のうち、魚類・鳥類は、善悪両義に於て、理解力に関る知性を表徴するのに対して、獣類拉、意志に関藻情動を表徴する。犠・羊・小羊の如き無害有益の獣類は善の情動を、熊・狼の如き有害獣類や犬などは悪O情動七表す。丿絃に「家畜」と駅されている〔回料Jなる原語は温和な獣類を意味し、善なる高い方面の情動を、「地の獣」と訳されているハイェトエレツは野獣を意味しヽ低い方面の情動を意味する。「這うもの」は昆虫類の如き小動物。(エゼキエル36・9-11、詩148・10等)
霊 義 新生第五期になされた霊的生活の躍進は、「魚」・「鳥」等によづて表徴せられている様に、主として知的信仰理解の方面の向上であった。若し信仰知識が深められても。それを意志の上に実現しなければ、信仰は沈滞し、すべては失われてしまう。これに反して、与えられた信仰知識に基いて、誠実にこれに従って行動しようとするのなら、神は我らの外なる人なる地に、既に繁殖している魚類や鳥類の外に、善き情動を表徴する種々の獣類や、その他の小動物を生ぜしめ給う。それ故、前期においては、与えられた信仰理解から真理を語り、その知識によって真理と善に堅立する程度の状態に在った者が、本期においては更に一歩前進し、同時に愛に基いても真理を語り、かつこれを行う状態の外見を備えるに至っている。
 (2) 霊的人の内的状態「神の像」(26─28)
26 神言たまひけるは我に象りて我の像のごくに我ら人を造󠄃り、これに海の魚と天空󠄃の鳥と家畜と全󠄃地と地にはふ所󠄃のすべてのはふものを治めしめんと、 27 神その像のごとくに人を創造󠄃りたまへり即神の像の如くにこれを創造󠄃り、これを男と女に創造󠄃りたまへり 28 神彼等を祝し神彼等に言ひたまひけるは、生めよ、ふえよ、地に満てよ、地を従わせよ、又󠄂また海の魚と天空󠄃の鳥と地に動く所󠄃の諸の生物を治めよ 。
【我ら】 26節の神の人間創造に「我ら」の復数形が用いられているのは、神が「父子子・聖霊」の三人格の神であるからでもなければ、また一部学者の説明するような「神の自己熟考的複数」でもない。ス氏の証示する処によれば、神は人を支配し導くのに、少なくとも二人の霊人と二人の天使を通じてなし給う。即ち神は人をして、これら霊人を通じて霊人界と、またこれら天使を通じて天界と、そして天界を通じて主と、それぞれ交らしめるのであって、これ等霊人や天使が人から離散するとすれば、人は立所に死滅してしまう。神はそれ故、これら天使を通じて人を支配し給い、善や真理を、また悪や虚偽に対する怖れを吹込み給い、かくして人を漸次新生せしめ給う。それ故26節には「我ら」と複数形が用いられている。ただし天使達は神の命によってのみ人間に働きかけ得るのであって、自らによっては何事もなし得ないから、結局は神のみが人を支配し、人を新生に導き給う。それ故27節においては、「神創造り給へり」と単数形が用いられているのである。【我らに象りて・我らの像の如くに・神の像の如くに】 「像の如くに」とあるのは「像に」と訳さるべきもので、「像」とは原語は「ツエレム」、英語の image である。また「象りて」とあるのは「類似の如く」と訳さるべきもので、「類似の如く」は新生の本段階に在る霊的人の状態であり、「類似」だけなら次章の天的人の状態である。
 なお「神の像に造られる」とか、「神の類似に造られるとは如何なることを意味するかについて、スの最後の著作「真の基督教」第48項中の霊界経験記の中で、霊界に於ける「智慧の学校」の見学記に第三の天界に属する天使から出題されて、本問題を討議結論している場面がある。その結論によれば、「神の像に造られる」とは、愛そのもの、智恵そのもので在し給う神の、それらのものを受ける容器として造られて居ること、また「神の類似に造らる」とは、神より受けたそれらのものが、本来は神のものであるにも関わらず、恰も、自分自身のものであるかの如くに感ぜしめられる様に造られていること。即ち人間に自主意識が与えられて居ることを意味するとの意味内容である。この結論による本聖言に対する説明は、人間の本質を説く為のものであるのに対して、本講解に用いられている説明は、新生の諧階程を説くためのものでなければならないから、そのままではしっくりした説明とはならないかも知れないが、要するに、自主意識にありながらも、凡ての善きものは神のみより来るの信仰に立ち、真実と謙遜を以て神の恵みを受入れる態度に在る状態を言う。
【人を造り】 「人」の原語はアダムである。普通「人」とは被造物なる人間以外を意味しないと思われているが、霊義においては、神は最高の意味では人であり、そのことから、神より出でる智慧や悟り、またこれらの神よりものを受けて新生させられる者を人と言う。(エレミヤ4・23-25、エゼキエル1・26、ダニエル7・13-14、また福音書で主は御自身を「人の子」と自称された)。今まで人でなかったものが、本段階に於ては神なりの知と愛とを受けて、信仰の関る理解力、愛の関る意志、並に両者によって成る人間それ自身も、人の姿を具えさせられるに至ったことを意味する。
【男と女に造り給えり】 霊的人の理解力を「男」と云い、その意志を「女」と云う。また両者が一体になって結合することを「結婚」と云う。ついでながら両者が結合し、信仰と愛とが一体となった状態の者を「既婚地」(イザヤ62・4)と云い、それによって生れる真理の知識に関する子孫を丿息子」、善に関するそれを「娘」と云う。
霊 義 既に内なる人に信仰と愛の二光体が植付けられ、真理Jと善とに向って努力しつつあった彼は、凡ての善と真理とは自己に由来せずして、神よりのみ来るの信仰に立つに及んで、自らを神の生命の容器とする謙虚さが与えられた。かくして彼は、今や「神の像」となったのである。然し彼の旧き人なる自我は未だ完全には死んでいない。それ故「神の類似の如く」であっても、「神の類似」にまで、達していない。従って彼の内的生活は、「内なる人より外なる人へ」の天的人の内的支配の状態と逆行する「外なる人より内なる人へ」の形にある。これに就ては、彼の支配が、知性即ち信仰を表徴する魚・鳥等から、情動即ち愛を表徴する家畜その他のものの順に在り、正に、詩篇第8篇6節以下とは反対の順に在ることによって知られる(本詩は天的人りの内的状態を誦ったものである)。「信仰より愛へ」の順序に在る状態は霊的人の内的姿であり、「愛より信仰へ」のそれに在るのは天的人のそれである。
 然し、霊的人の状態は、天的人とせられる為の準備の段階である。それ故、彼の理解力と意志とは共に新たにせられて行かねばならない。27節の「その像」とあるのは理解力の方面についてであり、「神の像」と後に挙げられているのは意志の方面についてである。そして知性の関わる理解力は男性により、また情動の関わる意志は女性によって表徴せられるから、両能力が更新されることを「男と女に造り給へり」と表現しているのである。神は、この理解力と意志、即ち信仰と愛との結婚を慶び、それによって多くの息(信仰知識)と娘(善即ち愛)の繁殖することを期待し給う。それ故28節の祝福が与えられているのである。ただし、この霊的人の段階には、天的人の安息はなく、旧き人なる肉に対する内なる新しき人の戦は熾烈である。それ故「地を従わせよ」と、外なる人の征服を命じて居られる。そして闘は今烈しくとも、勝利の安息の日は近いのである。
 (三)霊的人の食物(29-31)
29 神言ひたまひけるは、視よ、我全󠄃地の面にある種のなるすべての草と種ある木の果のなるすべての樹とを汝等に与ふ。これは汝らの糧となるべし 30 又󠄂地のすべての獣と天空󠄃のすべての鳥、および地にはうすべての物など、およそ生命ある者には、我は食󠄃物としてすべての靑き草くさを与ふと即かくなりぬ 31 神その造󠄃りたるすべての物を視たまひけるに、はなはだ善りき、夕あり、朝󠄃ありき、これ6日なり。
 【草・種ある木の果のなる樹】 霊的人に与えられる霊的食物で、平安・喜悦等の形で表れる
【地の獣・空の鳥・地にはうもの】 ここでは悪い意志の情動や知識で、慾念・虚偽等の地獄より出るもの
【青草】 地獄より来る自然人の糧で、慾念・虚偽心に対するある種の満足感として表れる。
霊 義 本講26節の「我ら」の証示するごとく、人間はみな幾人かの天使や霊人達に附添われて居り、それらの天使を通じて天界と、そして天界を通じて主と交り、また悪霊を通じて地獄と交るようになっている。人が未だ信仰に目覚めず、ただ自己とこの世に生きて居る間は悪霊と直接の交りにあり、天使とは間接的交りしか持たず、そのため天使達は人間が最悪の状態に墜ちることなきよう常に監視保護すると共に、間接的方法に於て悪を去って善に向うように働きか付るのである。そして悔改めて信仰に入るに及んで人は初めて天使と直接的交りの状態に入り、信仰の進歩と共に、その緊密度が増加えられる。ただし人は、完全に新生されて天的人の状態に入るまでは悪霊との直接の交りは絶えていない。否、ある意味において悪霊達は全力を尽して霊的人の肉に向つて働きかけ、悪しき情動である慾念や虚偽心等の「地の獣・空の島」に喩えられているものを吹込み、そしてそれらの好餌として「青草」によって喩えられているある種の内的満足感を与えるのである。これに対して、天使達を通じて神は、「草・種ある木の果のなる樹」によって喩えられる霊的糧を与えて、悪魔の誘惑に勝しめんとし給う。そしてそれらの霊的糧は、心の平安・喜悦と云うがごとき形に於て表れることは我らの経験する処である。
 神が「光あれ」と我らの霊に黎明の訪れを与え給うてから、今や「神の像」が形造られるに至るまでの、我らの霊魂の巡礼の旅は回顧すれば遥けくもあり、また試錬の広野の旅でもあった。然し今や「乳と蜜との流れる」約束のカナンの地は指呼の間に迫っている。それは、理解力と意志、即ち信仰と愛との男女の結婚の備えがなされたからである。それゆえ神は「甚だ善りき」と言い給うたのである。

 

                                    内的意義理解のために

★ わが民は愚かである、彼らはわたしを知らない、彼らは愚かな息子であり、理知をもたない、彼らは悪を為すには賢明であるが、善を為すことを知らない。わたしは地を見た、見よ、むなしく、空ろである。天を見た、そこには光は無かった。(エレミア4・22、24)

★ 創世記における一日は、1章5節にあるように夕から朝となっており、私たちが考える朝から夕となって一日であることと逆になっています。ユダヤ教の人達の一日も夕から朝へそして夕にかけて一日と考えています。ここに「夕」は暗闇、影、不信仰の状態を示し、「朝」は、光、真理認識、信仰のある状態を示すため、夕から朝にかけて、心が照らされ、暗闇に信仰の光が射してくる人間新生・再生の過程を表しているためであるとしています。

★ 内なる人は天的なものと霊的なものにより形作られ、外なる人は身体のものではないが、身体のものから来ている感覚的なものから形作られている。天的なものとは、主に対する愛にかかわるものであり、霊的なものとは主に対する信仰にかかわるものである。あるいは「天的なもの」は神の善にかかわるものであり、「霊的なもの」は神の真理にかかわるものであり、その何れも主御自身における愛と知恵、善と真理から発している。

★ 知識は我々が「私は単にそう考えるだけではない、私はそれを知っている」という時のように我々が真に知っているところのものである。記憶知は我々が外なる記憶の内に持つところのものであり、神学的なまたそれ以外のあらゆる種類の知識の膨大な蓄積である。スウェーデンボルグ自身によるこれらの語の正確な定義には〔天界の秘儀〕27、896、1486、2718、5212番を参照されよ。

★ 66 聖言には全般的に四つの異なった文体がある。「第一」は最古代教会のそれである。かれらの表現方法はかれらが知的な世的な物を口にする時、その物の表象している霊的な天的な物をかれらは考えているというようなものであった。それでかれらは表象によって自分自身を表現したのみでなく、それに更に生命を与えるために、それを一種の歴史的なものに作り、そのことがかれらには最高度に歓ばしいものであったのである。それはハンナが予言して語った文体である。──
  高い、高いものを語りなさい、いにしえの物をあなたの口から出させなさい。(サム前2・3)
このような表象は詩編に『いにしえの暗い玄妙な言葉』(詩編78・2-4)と呼ばれている。アブラムの時までつづいている創造、エデンの園等に関わるこれらの事項はモーセが最古代教会の子孫から得たものであったのである。「第二」の文体は歴史的なものであり、それはアブラムの時以後モーセの書とヨシュア記、士師記、サムエル書、列王記の中に見られる。これらの書物には歴史的事実は正にその文字の意義の中に現れているままであるが、しかしその凡ては全般的にもまた個別的にも、その内なる意義では全く他の事柄を含んでいるのであって、それについては、主の神的慈悲の下に、以下の頁に順序を追うて記すであろう。「第三」の文体は予言的な文体であり、それは最古代教会に大いに尊重されたものから生まれたものである。しかしながらこの文体は最古代の文体のように関連した歴史的な形を持っていないで、とぎれていて、内なる意義に由らなくては殆ど理解出来ないものであり、この内なる意義の中に最も深いアルカナが存在しており、そのアルカナは美しい互いに関連した順序を以て連り、外なる人と内なる人とに、教会の多くの状態に、天界それ自身にに関わりをもち、その最も深い意義では主と関わりをもっているのである。「第四」の文体は「ダビデ詩編」のそれであり、それは予言的な文体と普通の言葉の文体の中間に在るものである。そこでは主は王としてのダビデという人物の下に、その内なる意義で取り扱われたもうている。       (天界の秘義 第一巻  柳瀬芳意訳  静思社刊より)


★ 6 人間の再生の六つの継続した状態である六日または六つの期間は全般的には以下のようなものである。
7 第一の状態は先行する状態であり、幼少期からの状態と再生直前の状態とを含んでいる。それは「空ろなもの」「空しいもの」、「暗闇」と呼ばれている。そして主の慈悲である最初の動きは「水の面の上に動いている神の霊」である。
8 第二の状態は主に属した物と人間に固有な物との間に区別が行われる時である。主に属した物は聖言では「残ったもの」「残りもの」と呼ばれ、ここでは特に、幼少の頃から学ばれ、貯えられ、人間が此の状態に入らない中は明らかにされないところの信仰の諸々の知識である。現行ではこうした状態は試練、不幸または悲哀なしには殆ど存在しておらず、その試練、不幸または悲哀により身体と世との物は、すなわち人間に固有な物は静止して、いわば死んだもののようになるのである。かくして外なる人に属した物は内なる人に属した物から分離してしまう。残りものは、その時迄、またそれに役立つために、主により貯えられて内なる人の中に存在している。
9 第三の状態は悔改めの状態であり、その中では人間はその内なる人から敬虔に信仰的に語り、仁慈の業のような善を生み出すが、しかしそれはその人間自身から発しているとその人間が考えているため、それは生きていないものである。こうした善は『柔らかい草』また『種子を生む草』と呼ばれ、後には『果を結ぶ木』と呼ばれている。
10 第四の状態は人間が愛に動かされ、信仰により明るくされるようになる時である。彼は実に前には敬虔に語って、善を生み出したが、しかし彼はそれを行ったのは、彼がその下で苦闘した試練と困苦の結果であって、信仰と仁慈から発したものではなかった。、それで信仰と仁慈とは今やかれの内なる人の中に点火されて、二つの『光体』と呼ばれている。
11 第五の状態は人間が信仰から語り、それにより真理と善とを確認する時であり、その時かれにより生み出される物には生命があって、『海の魚』『天の鳥』と呼ばれている。
12 第六の状態は彼が信仰から、引いては愛から、真のものを語り、善いことを行う時である、彼がその時生み出す物は『生きたもの』『獣』と呼ばれている。そしてかれはその時信仰と愛から行動し、同時にまた信仰と愛とが共になってそこから行動し始めるため、像〔映像〕と呼ばれる霊的な人になるのである。かれの霊的生命は、かれの『食物』と呼ばれて、信仰の諸々の知識と仁慈の業に属したものを歓び、それにより支えられ、その自然的な生命は身体と感覚に属した物を歓び、それにより支えられ、ここから争闘が生まれ、ついに愛が支配し、その者は天的な人となるのである。
13 再生しつつある者の凡てが此の状態に到達するわけではない。現今大半の者は単に第一の状態に達するに過ぎず、若干の者は第二の状態にのみ達し、他は第三、第四、第五状態に達し、僅かな者しか第六の状態に達しておらず、第七の状態には殆ど何人も到達していないのである。                                       (天界の秘義 第一巻より)

  ※ 編 集 中  で す 。

                                                    

 

※ ヘブライ語原典関連は、次回の ~4 口語訳との対訳ブログに移動します。