天地創成の六日間


徹底した聖書研究

本章では『天界の秘義』第一巻で扱われる、スウェーデンボルグによる「創世記」の解釈を紹介する。聖書は世界的なベストセラーである。聖書の最初の巻が「創世記」あり、数ページ足らずのその第一章に神による宇宙の創造が記されていることは、誰もが知っている。しかしその解釈となると、古来、千差万別である。天地創成をめぐる聖書の記述は神的な霊感を吹き込まれて書かれた神のことばだという主張に対して、多くの異議が唱えられている。聖書の記述は地質学や進化論と矛盾するという説、その神話はバビロニアの創成神話の焼き直しにすぎないという説、さらには、文献批評によって聖書の歴史的検証を重んずる「高層批評」による原資料の寄せ集め説など、論争は絶えず、聖書の権威は揺らいできている。スウェーデンボルグは科学者から神学者に転身したが、厳密に言えば、聖書神学者になったのである。独自の霊的体験も彼の神学に反映してはいるが、彼はあくまでも、基本的には聖書を典拠にして議論を展開している。そして前述したとおり(88・89ページ参照)、彼の聖書研究は徹底したものであった。ここでは「創世記」冒頭の、天地創成、エデンの園、人類の堕罪の各神話に焦点を絞って、彼の聖書解釈を考察しよう。

「照応」によって書かれた「聖言」
 スウェーデンボルグによれば、バベルの塔の神話を扱う「創世記」第11章までは、「創世記」の他の章から本質的に分離した、原聖書とも言うべき人類最古の宗教文書である。それはモーセが書いたものでも、複数の原資料を編集したものでもなく、先史時代から伝承された啓示的な文書である。それが書かれた年代は特定されていないが、スウェーデンボルグは、旧約聖書の他の部分とは別系統の、それよりもずっと古い文書だと言う。彼は聖書と「聖言」とを区別する。「聖言」とは、純粋な「照応」で書かれた神的な宗教文書である。純粋な照応で書かれた文書には、字づらの意味や歴史的な意味の奥底に、内的で霊的な意味が必ず存在している。旧約聖書中、聖言でない聖書の巻は、「歴代誌」「エステル記」「ネヘミヤ記」「蔵言」などごく一部だが、新約聖書では、四福音書と「黙示録」以外はすべて聖言ではないとされる。使徒の手紙類は、パウロのものも含め、「有益な宗教文書」ではあっても聖言とは見なされない。聖書の外典と偽典の存在や、カトリックプロテスタントの聖書の巻数の差違を考えればヽそもそも聖書たる規準は何かという議論は当然生じる。それにしてもスウェーデンボルグの言明はヽあまりにも大胆である。しかし、この問題にここでは深入りしない。「創世記」はむろん聖言であり、特にその11章までは最古の聖言である。その部分の文体は、当時よく使用された、純粋な照応の知識に基づく文体になっている。こう彼は言う。聖書を集中的に学び始めた頃、敬虔なキリスト教の科学者として、スウェーデンボルグは『神の崇拝と神の愛』において創成神話を科学と一致させようと試みている。しかし彼は、自然的な真理と霊的な真理との成層的な関連を解明する「照応の理説」を確立してからは、これを聖言に内蔵された霊的意味を探る際に適用するようになった。聖言の字義、つまり表層的な意味を超えて、聖言の意味の核心に迫るには、彼の霊的体験も不可欠な手段であった。なぜなら聖言の内部に浸透するためには、深い呼吸法と結びついた瞑想や思索が必要だったし、また霊界で見聞する個々の現象が自然界のどういう現象と関連するのかという観察も必要だったからである。

「新生の心理学」としての「創世記」
 彼によれば、「創世記」の作者たちは霊界と自然界とが全体的にも個別的にも照応することを熟知しており、自然界の現象、出来事、さらには歴史をさえ素材として、霊的で宗教的な教訓や教説を、照応の体系的な知識に厳密に基づく独特の文体で構成していった。だから天地創成神話についても、神による宇宙や人類の創造という主題だけを扱おうとしたものではなく、もっと明確な宗教的意図のもとに書かれたものであるという。その意図とはつまり、一つは、生物学的な「ヒト」から霊的な「人間」へと新生してゆく人類の霊的な進化のプロセスの叙述であり、いま一つは、霊的な新生へと向かう個人の精神的な成長のプロセスの叙述である。古代の作者はこの目的を果たすべく、表現手段として天地創成という「物語」の形式を意図的に採用した。初めからこうした目的があったのだから、後世の人々が作者の科学的知識の未熟さを批判するのは的はずれであり、その記述が進化論と一致するとかしないとかいう議論も意味がない。スウェーデンボルグは聖言の書かれた目的を明確に規定している。それは、神、信仰、愛、永生、罪、救い、霊的生命といった、人間の宗教生活に必要な事柄を啓示することである。聖書の「高層批評」は、聖書をバラバラな資料の寄せ集めだとして、聖書の権威を歴史的に相対化している。一方、聖書に書かれた一語一句が神的霊感を吹き込まれていると主張する、聖書の逐語霊感説をとる根本主義者は、字づらの意味を絶対化して譲らない。スウェーデンボルグはこのどちらの態度もとってはいない。彼は聖書の権威を聖言に限って承認し、聖言は純粋な照応で記されたがゆえに神のことばであると考えた。しかしそれは同時に、古代の賢人たちの最高の霊的な英知の所産でもあると、彼は考えた。それゆえ、以下に詳しく見るように、聖言は正しく読めば人間の理性で納得できるものであることを、スウェーデンボルグは明らかにしている。 結論を先取りすると、「創世記」の第1章と第2章は、個々の人間と類としての人間の新生へのプロセスを扱う、最古の宗教心理学であると言えよう。筆者はこれを「新生の心理学」ととらえ、聖書と『天界の秘義』を対照させつつ、詳述してみたい。(なお、聖書からの引用は、日本聖書協会編の一九五五年改訳版に従うものとする)

 ◎〔『視霊者の夢』の夢解釈!~5〕へと続きます。