新 教 会 機 関 誌      第9号昭和29年4月

      『クローイズ牧師と神的人間』  鳥 田 四  郎 筆  

 それ、卵の満足れる徳はことごとく形体をなしてキリストに宿れり(コロサイ書2・9) 

 ジョン・クローイズは英国マンチェスターの聖ヨハネ教会の牧師であった。スウェーデンボルグがロンドンで客死した翌年の1773年、当時30才の青年であった彼は、一日、ウェスレーの友人リチャード・フートンをリバープールに訪ねた際に、同氏からス氏の最後の著作「真の基督教」を読むように勧められ、帰宅後それが彼の手許に届けられたが、彼は別に読もうともしないで、机の隅に数箇月も積んで置いた。ある日彼は、遠方の友人を馬に乗って訪問に出掛ける直前、何気なく同書を開くと、「神的人間」(Divinum Humanum)なる文字が彼の目に触れたが一寸奇異な語であると思っただけで、そのまま同書を閉じると共にそのことも忘れて旅立ってしまった。翌朝、彼が目覚めると、眼前に大陽の耀きにも勝る光が映じ、その真中に「神的人間」なる文字が浮出ていて、いかに彼の目を擦ってみても消え失せず、のみならず終日彼の眼前から消去らなかった。彼は何かの錯覚であろうと思ったので誰にも之を打明けなかったが、その夜寝んで翌朝目覚めるや、前日にも勝る光耀の中に同じ文字が再び鮮明に浮かんでいた。その時彼は、その文字は彼が出発に際して何気なく開いた「真の基督教」の書籍中で彼の目に触れたものであったことを想起した。彼は床中から飛起き、友人に一言の挨拶を遺して、彼自身の言によれば「いかなる恋人も、彼が「神的人間」について読もうと家路に疾駆した熱心の半ばも、その愛人に会うためにはしなかったであろう程に疾駆して」、帰宅早々このラテン語の全巻を読み始めた。彼が同書を読んで受けた感想について、彼は次の様に記している。「私が『真の基督教』と題する著書を一回目に通読して心の中に与えられた歓びはいかなる言も充分には表し得ぬものであった。……それはたとえば、新たな、そして心気を清新ならしめる光の不断の耀きが私の歎喜する理解力に注入されて、それを荘厳な智慧の神秘の思考にまで開いたことは、私が未だかつて知らなかった仕方と程度においてであると共に、満足な証左の力を以てなされたものであった」と。
 かくしてス氏の教説を全面的に受容れた彼は、かかる宝の富を如何にもして他に頒たんものとの熱意に燃えて、彼の家に定期集会を開くと共に、近隣町村に同信グループを訪ねてその小さき群々を鼓舞激励して廻った。また彼はマンチェスターに於ける同信の友の援けを借りて、ス氏の著作をラテン語から英訳出版するための一団体を組織した。
 彼は同教会を62年間牧した。彼はその学識と潔められた模範的生活で人に知られて多くの人々に感化を与えた。トーマス・デ・クインシーは「自分の邂逅し得た最も聖潔な人」と彼を呼び、更になお続けて述べている。「然り、余は繰返して言う、35年を径過したが、その慈父的温良さと、幼児の純潔さと、使徒の聖さと、世俗的精神から完全に隔てられているこの尊い教職者に近い人物に、私は未だ殆んど遇ったことがない」と。クローイズはその信仰の故に迫害を受け、その聖職の地位を解かれる危険にも置かれたが、その耀いた信仰の諸徳の典型的生活は証となって反対派の意図を挫折せしめた。かくして彼の感化は、彼の牧するランカシャー地方を英国における最強の新教会基地たらしめた。
 以上長々とクローイズ牧師のことを述べたのは、新教会信仰者の模範として我らが彼に学ぶどころあらんが為と、彼の宗教経験中に出ている印象的言「神的人間」に就て学ばんが為のものである。この語はスウェーデンボルグが彼の著書「主の教理」や、「真の基督教」の主の御人格について説いている箇処にたびたび用いられている特殊な用語で、詳しい説明は是に関する教理を説く機会に譲るとして、ここでは信仰の実際的問題として簡単に学んで見たい。
この語を解り易く述べているのはコロサイ書2・9にある「それ神の満足れる徳はことごとく形体をなしてキリストに宿れり」である。もっとも邦訳聖書のこのままの訳文では意味が判然としない。右のうち、「神の満足れる徳」とあるのは、原語では「セオテース」で英語のGodheadに当り、神そのものを意味し、「形体をなして」は「ソーマテイコース」で、「身体的に」(bodily)の意味である。それ故本節を直訳すれば「何となれば、神たるものの全充満は身体的に、キリストに宿って居る」となる。即ち、栄光のうちに挙げられ給うた主イエス人間性のうちには神そのものの凡てが完全に宿り、かくして主のうちに、神と人とが完全に一をなしてい給うとの意味である。完全なる神にして、完全なる人、しかもそれが二つに区分せられる形においてではなく、完全に一人格のうちに体現せられて居る──これが「神的人間」の意味である。
 
旧約聖書のヤーベなる神は処女マリヤの胎を借り自然世界に来り給い、イエス・キリストとなり給うた。この場合、イエスの霊の最内部は神そのものの父であり、その外郭部と肉体とは当初はマリヤから受けたものであった。そしてすべて真の基督者がその内なる霊に神の生命を受け、しかして、あらゆる罪と戦い、外面に表れる生活態度は勿論、その外的想念に至るまでも内なる霊に与えられている神の生命に一致せしめるように、主によって祈り、かつ努力するなら、内なる人の姿はその外なる人の姿ともなり、顔面人相等をも変ぜしめるものである様に、主はその御在世中、あらゆるサタンの挑戦の誘惑に打勝ち給うて内に在し給う父と一致して行動され、これに従い給うたことは「子は父のなし給うことを見て行うほかは自ら何事をも為し得ず」(ヨハネ5・19)、「死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給へり」(ピリピ2・8)、「罪を外にしてすべての事、われらと等しく試みられ給へり」(ヘブル4・15)等によって明かである。かくして主は、徐々にマリヤより受け給うた朽つべき有限的人間性を脱却され、内なる父よりする朽ちざる無限的神的人間性をもって、これに代え給うた。そしてこの主の人間性の栄化が完成されたのが主の復活、昇天であり、この時、主は「我は矢にても地にても一切の権を与へられたり」と宣言し得給うたのである。かくして神は完全に人となり給い、人はまた完全に神となり給い、「神─人」なる一人格が主イエスに具現されているのである。これが即ち「神的人間」の意味である。
 神は唯一で、その本質は二又は三の人格に分たるべきものではない。既にして主イエスが神そのものにて在し給うなら、この主と別に父なる神が在し給う筈はない。
 「我と父とは一なり」(ヨハネ10・30)、「我は父におり、父は我に居給うなり」(同14・11)、「我を見し者は父を見しなり、如何なれば『我らに父を示せ』と言うか」(同9)である。
 旧約時代には見えざる神を礼拝し、その方法ば幕屋や神殿において犠牲その他の来るべき霊と真とを以てする真の礼拝の表像物を以てした。しかるに期至つて、神は人性を取得され、栄化された人間性のうちに顕れて居給うのである。それ故、新約時代の真の基督教は、栄化せられた主イエスを礼拝し、彼に祈り、彼に導かれ、彼に従い彼に生きる以外のものではない。人間は自然的存在であり自然的に考えるものである。そして人間の心の交りは想念と情動のものであるから、交りの対象もまた自然的な心の衷に何らかの形を以って想い浮べ得るもの、殊に有形の人であることが望ましい。神は愛である。愛は対者と交りを要求するものである。それ故神は人として顕れて居給う。
 神が人間の中に来り、人性を摂り給うたのは、単に有形な像を取って交りを可能ならしめるため許りではなく人間を贖い、且、永遠の秋が亡贖主とならんが為であるが、この交りの点を考えただけでも、この「神的人間」の神についての観念が如何に有効的に我らの信仰生活に力となるかは、是以上の説明を要さぬ処である。それ故、力ある祈りは主に対してなされ、ステパノを初め、多くの殉教者達は栄光のうちに在し給う主を見上げ、主の聖名を呼びつつ勝利のうちに召されて往ったのである。
 「神的人間」なる言に強くも印象付けられたジョン・クローイズ牧師の信仰の対象も勿論そこにあった。それと共に我らの覚えるべきことは、彼がかくも尊くも聖い生涯を生きて主の用を果し得たものは、新教会の教説を彼が身を以て生活したからであると云うことである。