新   教   会  機関誌      鳥 田 四 郎 主筆より引用

    

        本『創世記霊解』は、もっとも忠実な客観的紹介でなく、私自身の主観的理解に

     よる紹介で自由な解釈をしている所も多いと思いますから、あらかじめご了承下さい。

        

        『 創 世 記 霊 解 (3) 』                          

 

   天的人の堕罪的兆し(創世記2・18-25)
        ―人間有への欲求―
  

    (一)人間有への欲求と主の憐憫による
         第一処置(18-20) 
18  エホバ神言たまひけるは、人独りなるは善からず、我彼に適う助者を彼のために造らんと 19  エホバ神土を以て野の諸々の獣と天空の諸々の鳥を造りたまひて、アダムの之を何と名附くるかを見んとして、之を彼の所に率いいたりたまへり。アダムが生物に名附けたる所はみなその名となりぬ 20 アダム諸々の家畜と天空の鳥と野の諸々の獣に名を与えたり。然どアダムには之に適う助者みえざりき。                     

 『人間有』ここに「有」と訳した語は、原文ラテン語ではPropriumで英語のownに当る。その意味するところは「それ自身の所有」である。「人間有」と訳したman's Ownの意味する処は、何らかの善きものが人間自体に所属するかのごとき迷妄的観念及びかかる観念に立った生活態度である。「神ひとりの他に善き者なく」「人は天より与へられずば、何をも受くること能はず」(ヨハネ3・27)と云うのが聖書の教える処である。
【独りなるは善からず】「独り居る」とは、神のみに依頼し、神のみに導かれる生活態度で、天的人の在るべき姿である。イスラエルの民は近隣の異邦民族と交らず、異教的感化を却け、ただエホバのみにより頼み。之に導かれることが理想的姿であった(民数23・9)しかるに今や、何らかの人間有に対する欲求が生じ来ったこの天的人に対して、主は、強制的態度で之に臨むことを好しとし給わず、寛容を以て許容の道を開かんとし給うたこと。
【野の獣・天空の鳥】」 天的人の情動及び理解力
【名附く】 「名」とはそのものの本質・性格等。それ故「名付ける」、「名を知る」とはそのものの本来の姿や性質・性格等を知ることを意味する(イザヤ45・3、4、40・26)
霊 義 主により天的人の状態に導き入れられた最古代教会は今やその霊性漸く凋落の兆を呈するに至った。即ち、一度は主の聖翼の蔭にのみ宿り、安息日戒律に生きる生活態度に終始してきた彼らであったが、今や人間自体のうちに於ても何らかの善きものが原因しまた存在し得るとの妄想が生起し来り、神と共に生き、神のみに導かれんとするよりも、自已によって生きんとの欲求が生じ、そしてやがては次章に見るがごとき「神の如くならん」との傲慢の萌芽を見るに至ったのである。神はここに於いて彼らの堕罪への危険を認め給うた。ただし人間に自由を与えてい給う神は人間の欲求するところが仮令悪へのそれであっても、無下には之を禁圧し給わず、一応これを許容しつつも別途の手段においてその危険を除去または軽減し給う柔和なる慈父にて在りし給う。そして今、神によって採られた第一手段は彼ら天的人の享受し得る善への情動(野の獣)と真理についての知識を与え、これによって彼らが楽しましめられ、また反省させられることであった。ただし一度欲求され初めた人間有は、彼らの欲望を満足せしめるためには、彼らには余りに消極的施策とされた。それ故ここに「然れどアダムには之に適う助者みえざりき」とあるのである。
  (二)人間有への欲求と主の憐憫による 
     第二処置(21一22)
21 ここに於いてエホバ神アダムを深く眠らしめ、眠りし時その肋骨の一つを取り、肉をもてそこをふさぎたまへり 22 エホバ神アダムより取りたる肋骨を以て女をつくり、之をアダムの所に連れきたりたまへり。
【熟睡】霊的迷いの状態で、人間有に在ると思惟する状態である。(イザヤ29・10、エレミヤ51・57)
【肋骨・肉】 「骨」は「肉」に対する語で、古代人には肉は生命あるものを意味していたのに対して、骨は生命なき悪しきものを意味していたことはエゼキエル書の枯れ骨の谷の異象(37・115)その他(イザヤ58・11、66・14)においても知られる。そして胸は人の愛を象徴するものであり、肋骨は胸部にある骨であるから悪に在る愛、即ち人間有を意味する。
【女】「肋骨」が神によって未だ活かされていない人間有を象徴するものであるのに対して、「女」は活かされて潔められた人間有を象徴している。
【之をアダムの所に携れきたりたまへり】神が人間有を許容し給うたこと。
霊 義  一度人間有への欲求を抱くに至ったアダム教会の人々には、慈父なる神のとり給うた前記の措置は余りも消極的な姑息的なものとしか思えなかったであろう。ここにおいて神は保留し置き給うた残る処置、即ち人間有を彼らに許容して彼らの欲求を満し給いつつも、彼らの堕罪を防ぎ給うたのである。元来、それ自体において生命を有しそれ自体において存在し得るものは神の外の何物でもあり得ない。ただし愛なる神は人間を機械として、または僕としてこれを創り給わず、自主意識に立つ「子」として創り給うたのである。この与えられた特権の自主意識の故に人間は動もすれば、自らに於て生き、動き、考え、語るものと考え勝ちである。ただし、被造物なる人間は創造者なる神を離れては、生きることは勿論、一つの想念をもいだき得ないのである。この事実を正しく把握して、すべてにおいて神に依頼み、神に導かれようとするのが天的人の姿である。しかるに今や人間有への欲求生じ、彼らは自らに導かれようとした。神は人間のこの欲求を一応許し給いつつも、その人間有を潔め給うた。それ故「アダムを熟く睡らしめ」、悪そのものなる人間有を象徴する肋骨を取去って、神によって潔められた人間有を之に代えて与え給うたことを意味するべく、一面においは「肉をもってそこを塞ぎ」なる表現を用いると共に、他面[肋骨を以て女をつくり、これをアダムの所に携れきたりたまえり]との表現を用い給うたのである。何となれば「女」は潔められた人間有を意味するからである。
    (三)潔められたる人間有(23─25)
23  アダム言けるはこれこそわが骨の骨、わが肉の肉なれ、これは男より取たる者なれば、これを女と名附くべしと 24  この故に人はその父母を離れて、その妻に合い二人一体となるべし、25  アダムとその妻は二人共に裸体にして恥じざりき。
【男】 「内なる人」を意味する。そして内なる人は直接神よりの生命に与っているものであるから、「男」は智者・賢人をも意味する(イザヤ41・28、エレミヤ5・1)。
【わが骨の骨、わが肉の肉】 「外なる人の人間有」を意味する。そして外なる人は内なる人と結合された関係にあるものであるから、血族関係をも表す(創29・14、士師9・2等)          
【父母を離れ】 「父母」は生み出すものであり、外なる人を生み出すものは内なる人であるから、「父母」は「内なる人」を意味する。この内なる人を退ぞくこと。
【その妻に合い二人一体となる 】内なる人が外なる人の中に入り、外なる人において結合し、かくしてすべては、内なる人と外なる人とが明確に区分して意識された状態の霊的位置から低下して、人間有と結合したことを意味する。
【裸体にて恥じず】 人間有に主が注入し給うた無垢(innocence)の故に、主に受納される状態に在ること>
霊 義 子供は幼少期においては母親の保護とその指導の下に生きることを喜ぶが、少年期から青年斯と進むにつれて両親の指導下に生きるよりも、自己の自覚に立って自らを導く生活を喜ぶようになる。しかし天の父なる神に対しては人間は永久に幼児の態度を堅持しなければならない。
 しかるにアダム教会の人々は、直接の神の指導下にある内なる人の天的生活を喜ばずして、間接的な神の指導下に在る外なる人の状態、即ち自己に導かれる人間有を欲求し、かくしてその霊的生活は一段と低下するに至った。
 しかして彼らは今や、欲求してみまなかった人間有に生きることを得て、先の日の内的矛盾は解消して満足せしめられた。しかも憐憫に富み給う主は彼らの人間有を潔め給い、霊的美徳の最たる無垢を注人し給うた。それ故彼らの人間有は失楽園以後の堕罪せるそれではなく、あたかも神と共に在り得るものであったのである。幼児は天使の如く罪より潔められてはいない。しかも彼らのわがままで利己的性格をも却って魅力あらしめ、天使の面影を彷彿せしめるものは「裸体にて恥じざりき」と表現される如き無垢と、その母親に対する信頼の態度に在る。父母を離れて結合される男女間の結婚愛も相互に主に在る信仰と愛によってなされるとき、最も美しい天的なものとなり、これに反するときは最も醜悪なものとなる。