tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

夢は霊によって・・・12

【コラム】11‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥       

                                       蒸 留 水 健 康 法

   

 地球の水循環の雲となる水蒸気は、元々は純水の蒸留水ですね・・・・・・。

 生物界におけるエネルギー代謝は、光合成を行う植物の独立栄養生物とその独立栄養生物が同化した有機物を栄養として取り入れる従属栄養生物に分けられます。人は従属栄養生物で在り、独立栄養生物とその食物連鎖の流れの中で栄養をとり、生きていくのです。では、無機物のミネラルの場合はどうでしょうか? ミネラルを栄養として取り入れるには、地中の鉱物性ミネラルを穀物や野菜・果物などの植物が、根から吸収したミネラルを、光合成によって吸収・分解した植物性ミネラルとしたものが利用効率は良いのです。ですから、私たちは、穀物や野菜、海藻、果物を食べることでミネラルを体内に吸収利用するのです。この植物性ミネラルは鉱物性ミネラルの約1000分の1の大きさであり、これがまた吸収率の違いを生んでいます。また植物性ミネラルはミネラルをバランスよく含んでいますから、ミネラルを補給するだけでなく、かつ体内の有害ミネラルを排出する作用もあります。これに対し、鉱物性ミネラルは、岩・石灰岩・牡蠣の殻・塩などを粉砕、加工することによって作られますが、粒子が大きいため体内にはあまり吸収されません。ですからミネラルウォーターのミネラルも同じであり、吸収されたとしても栄養バランスが悪いため過剰摂取となったり、身体に悪影響を及ぼしたりします。かつ市販されているミネラルの多くは鉱物性ミネラルがほとんどです。

 自然の循環・摂理を見てみると雪解け水は、鉱物ミネラルも含まれない純水に近いものですが、(都会では空中の浮遊物を含んでおり、問題ですが、自然環境の綺麗な山の上とかでは綺麗な純水に近い水分であり、この純水に近い雪解け水は、植物の種実に対しても吸収も良く発芽率の効率性にも貢献します、それで春の芽吹きの季節に、新春の豊かな生命力の芽生えへとつながります。芽吹いた植物はその後は、地中からの鉱物性ミネラルの水分を取り入れ、かつ光合成を行い有機物を合成し、そして従属栄養生物への食物連鎖へとつながり生態系が維持されていくのです。
そこで、人の飲食する水は何が最良かということです。それは、純水です。水は軟水・硬水・純水・超純水とに大まかに区分できます。今まで述べたように水に含まれる鉱物性ミネラルは人体には効率よく利用されませんし、過剰の場合は悪影響さえあります。スポーツ選手が海外に遠征するとき、海外はほとんどが硬水の場合が多いため、下痢をしてしまいます。これは身体には異物であるから反応しているためです。慣れると身体でそれなりの代謝となって落ち着きますが! 
結論として、ミネラルは、植物から取り入れるもので、ミネラルウォーターなど鉱物ミネラルでは有益に利用されないということです。(但し食塩は、生命発生の段階でその環境にありましたから、他のミネラルより効率よく利用されるようです!。)
手軽には、家庭用蒸留水製造装置の純水がベターのようです。(大メーカーが取り扱いしないのはその利益率が少ないからです。水道直結の高額の機器もありますが!)
 この純水は自然のサイクルに合わせたものですから。三回ほど蒸留したものは、より吸収がよくデトックス作用もいいようです。但し十回以上蒸留すると、これはもう超純水となり、飲用ではなく、皮膚も荒らす薬品となり、精密機器やICチップなどの洗浄用途となります。手軽には、スーパーでRO水の純水がありますので、これを利用するといいでしょう。ところでネットでは、水博士といわれる藤○博士と言われる方が、純水と超純水とを一緒にして、純水も身体に悪く薄めて利用するようになどと述べていますが、この方はフランスの硬水を推薦する人でもありますから、呆れてしまいますね。
 かつネットで言われている水に関する常識も間違って伝えられています、それは浄水器やミネラルウォーターを売る為のメーカーによってです。「水で死ぬ」「水道水を飲むとガンになる」とか、過激なほど水道水に対して恐怖心を煽っていたり、浄水器を付けなさいというものや、または、ミネラル不足のためにミネラルウォーターを飲用しなさいというものです。

 健康法として、身体にいい水の取り方は、純水が良いということです。ミネラルは穀物や野菜・果物からとるということです。より詳しく知りたい方は、ネットで蒸留水を推奨した『「ブラウン・ランドーン博士』と検索するとその理論体系が解りますよ!!!。  

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥11【コラム】      

      『聖言の講解』(アドヴァーサリア)より
            スウェーデンボルグ夢日記から 鈴木泰之訳  たま出版

 夢は霊によって引き起こされること(注1)
 1893 特に夢について、ここで述べておきたいことは、人の夢がもっぱら霊によって引き起こされ、神メシアの霊によって引き起こされる夢は将来の出来事そしてまた真理を明らかにし、それ以外の全部の夢は神メシアの霊でない霊によって引き起こされている、ということである。人が欺かれてしまう夢は悪霊によって、そうして悪魔の一味によって引き起こされるが、このことは生きた声により、たいていの場合は無数の表象による。これらの表象に無知な者は表象的な夢が何を意味するのは決して分からない。天界の事物の表象は地上で行なわれているのと同じ事物、特に見られる事物によって、このように自然界の事物によって生み出される。しばしば、それらがあまりに複合されているので、人が何種類かの表象を知らないのなら、そのもつれをほぐすのはほとんど不可能である。そうした性質のものであることは、ヨセフの夢〔創世記37章〕、おなじくパロの夢〔同39章〕から非常に明らかである。これは預言書の中でも明らかであり、そこでは夢が多く語られており、人がすっかり目覚めているときの幻だけでなく、そしてこれは同様の表象である夢とまさにそっくりなのであるが、あたかも白日の下にあるように、完全に生命へと働きかける。それらは眠りの前後の目覚めのときにも起こり、またさらに違うふうにも起こる。さらにまた、ある霊が他の人に一人の人間として実際に現われる(注2)といった現実の表象もある。しかし、このことは私には私が別の状態にいるときに〔霊界で〕起こったのである。ある人にとって、霊たちの夢はたんに幻覚であり、ほとんど意味のないまがいものであり、そうしたものをつかみ取ってしまうのは気質や過去の観念によってもたらされる。(注3)
 1894 詳細が今述べたようなものであったことを、私自身が証明できる。そして、それらについてほんの少しの疑問点もない。それで、神メシアの神的慈悲によって、それらはまったく違和感のないほどに、私に頻繁に起こったのである。それらはまた夢によっても親しみあるものとなり、またこのことは最初に私が夢の意味をある程度学んでいる数年の間に起こったことであった。その他の啓示も、またさらにもっと他のこともあった。例えば、私の目の前で手紙が書かれ、読まれた。等々。しかし、こうした事柄をこれ以上述べるのはまだ許されていない。
 1895 特に夢について、すでに述べたように、それらは霊によってもたらされる(1893)。
これは私に明らかになったことである、私がこれを知っているからである。
 疑いの余地なく。いや、頻繁に私は、目の前に現われ夢をもたらした霊たちと語り、こうしてこれ以外の源泉から夢が流入してくるものでないことを十分に知らされた。しかし、前述(1893)のように、夢を引き起こすのを許された霊たちと同じく──このことはメシアお一人しだいである──夢には二つの、いや、三つの種類がある。(注4)

 原注(1)この標題は著者の『メモラビリア(霊界日記)』の「索引」から取られたものである。
(このことに注釈が必要だと思います。『霊界日記』とは英訳者の付けた名前であり、スウェーデンボルグ本人は『メモラビリア(記憶すべき事柄)』と呼んでおり、これは霊的な経験を日付をつけて記したものですが、初めのうちは『聖言の講解』の本文中に字下がり記事として霊たちとの接触を記録しておきました。ここで引用した文もそのうちの一つです。その後「メモラビリア索引」を作成したので、その索引には現在の『霊界日記』と「聖言の講解の中の霊的経験」が含まれことになりました。訳者)
 (2)(次の文が消されている)人がこれらのものを見るだけでなく、触覚や聴覚で認めることが起こるとき。
 (3)自筆原稿には、「ある人にとって……もたらされる」の文章は追加するかのように欄外に書かれている。
 (4)1893~95番は、「メモラビリア索引」の中で「夢」の項目に含まれている。

※ これらの表象に無知な者は表象的な夢が何を意味するのは決して分からない。天界の事物の表象は地上で行なわれているのと同じ事物、特に自然界の事物によって生み出される。しばしば、それらがあまりに複合されているので、人が何種類かの表象を知らないのなら、そのもつれをほぐすのはほとんど不可能である。 
 ここで、思い出すのが、ブログ〔パリ・ノートルダム大聖堂の夢解釈!11コラム⑤その2〕のことで、予言の夢を見る方達の理解の仕方でした。表象されたことの理解を師より受けていない方であり、自己判断による理解であったからで、2、3割は正確と言われる事柄でしたが、残りの事柄については、トンデモな事柄であり、周りの人達を迷わす情報でした。夢が表象であり、その夢は見た事柄がそのままでないと言うことです。その表象の夢をどのように解釈するかと言うことでした。そうであることを迷わず学んで、正しく理解するには本人の謙虚さと人の意見を受け入れる素直さが必然だと思われます。

 (笑い話ですが! 前世のリーデングをしていて、牛が象徴され、あなたの前世は牛であったとか、聖書が象徴として現れたので、あなたは聖書で在ったと言われ、有料であり、それを言われた本人が憤慨していました!)←この個所は後日削除しますので・・・・。

 ですが、これらの霊感のある方達は、皆さん、自己顕示欲の強い方達ばかりで、正しく象徴を理解してくれるには難しいですからね・・・!。そんなことには拘わらず知らない方がいいですから・・・・!。

             新   教   会  機関誌      鳥 田 四 郎 主筆より引用    

       

本『創世記霊解』は、もっとも忠実な客観的紹介でなく、私自身の主観的理解に

     よる紹介で自由な解釈をしている所も多いと思いますから、あらかじめご了承下さい。       

        『 創 世 記 霊 解 (4) 』                         

   

        堕 罪【紳の言より人間の言へ】(3・1─8)
        霊の糧は何処よりか(1─3) 
 1 エホバ紳の造りたまいし野の生物の中に 蛇最も狡猾し 蛇女に言けるは、神 真に汝ら園の諸の樹の果は食うべからずと言いたまいしや 2 女 蛇に言けるは、我ら 園の樹の果を食うことを得 3しかれど園の中央にある 樹の果実をば、神 汝ら之を食うべからず、叉之に、さわるべからず おそらくは汝ら死なんと言給へり
【野の生物】 原文は「野の獣」で、「外なる人」の凡ての情動
【蛇】 蛇は人間の感覚的方面を表徴し、多くは悪しき意味に用いられて人間を真理から遠ざける皮相的感覚的知性や感覚的情動を表すが、善き意味においては感覚的知性の用意周到さを表す(マタイ10・16)。また感覚上の論拠により信仰問題の秘儀を論ずることを「蛇の毒」と云う(詩14・3、58・4)。人は往々かくして真の信仰を失い霊的死を招くに至るからである。
【女】 「人間有」(創世記2・22)「女」で、活かされて清められた人間有を象徴している。
【園の樹の果を食う】「食し得る樹の果」とは啓示より受ける信仰の善と真であり、禁じられている「善悪を知る樹の果」とは之に反し、主によらずして自己に発している感覚的知識による信仰ならざる信仰で〔(生命の樹と反対に、主によらぬ自己による感覚的知識の信仰(創世記2・9)〕で、「食する」とは「受け容れる」ことである。「之にさわるべからず」とは、かかる態度は心の衷に想うことさえ悪とすること。
霊 義 最古代教会の人々の霊性は第2章前半に録されている天的人の状態において最高頂に在ったが、その後第18節以下に録されあるごとく、自己愛と世愛とに原因する「人間有」即ち神に対立する自己を立てんとの欲求生ずるに及んで、一段と低下した。しかし主の憐憫により、彼らはなおも潔められた人間有にあり得たから、主の前に幼児の如き無垢にとまり得て「裸体にて恥じざりき」の状態に在り得たのである。併しこの霊性の低下は、天的人の転落第一歩となったことは、第3章に入って明かとなった。
第1章の記録による堕罪前、彼らはすでにその霊性低下の様に在ったことは、以下の聖言による事実によっても明かである。即ち、第2章9節において「園の真中に」在ったのは「生命の樹」であったのが、本章3節による女の言によれば「善悪を知る樹」となって居るのである。第2章9節の註に在る如く「生命の樹」は主より来る愛と信仰を、「善悪を知る樹」は之と反対に自己による感覚的知識による信仰を、そして「園の真中」は心の最内部を意味する(邦訳聖書では一つは単に「園の中に」と訳され、他は「園の真中に」とされているが原語は同じで共に「園の真中に」の意味である)から、これにより、彼らの内なる心を支配していたものは、内的なものより外的感覚的なものに、しかし第3節によれば、「神 汝ら……べからず……と言い給えり」と神による戒禁命令を守り、悪と闘いいる点、危機に在るとは云え、未だ堕罪には至らなかったのである。
 1節より3節までの大意はそれ故以下の如くなる。即ち、神と共にのみ歩むことを喜ぶ「独り居る」生活に満足せずして、主によって潔められこそすれ、自已愛と世愛とをその真相とする「女」なる「人間有」の霊的弱点に向って巧みに囁きかけたサタンの声とそれに対する人間有の態度である。蛇のささやきの第一声は、「霊的糧は何処よる摂るべきか」の問題について、従来の啓示信仰のみによる態度は、ここに更めて考え直し見る必要はないかとの誘いである。これに対する人間有の答えは、一応は伝来の啓示信仰による内なる声に自らの立場を保持して、感覚的記憶的知識による信仰論を罪と認めるものであった即ち、感覚的なるものに大たる魅力を覚えつつも、神による戒禁命令を未だ信じおる点、堕罪にまでは至っていなかったのである。   
  (2)人の言を選択す(4─6)
4 蛇女に言けるは、汝等かならず死る事あらじ 5 神汝等が之を食う日には、汝等の目開け、汝等の紳の如くなりて善悪を知るに至るを知りたまうなりと 6女樹を見ば食に良く、目に麗しく、かつ智慧からんが為に慕わしき樹なるによりて、遂にその果実を取りて食い、また之を、已と共なる夫に与えければ彼食せり。
【目開け】目は理解力を表すから、真理を悟ること
【神の如くなる】神は彼を信ずる者を導き給う。それ故「人が神の如くなる」とは、人が神に導かれないで自らによって自らを導く状態。
【己と共なる夫に与えければ彼食せり】」「女」は人間の心の愛の方面を表すのに対して、「夫」はその知性の方面を表す。「食う」とは受容れること。それ故全体の意味する処は、人間の愛が先ず悪を受容れ、次でその知性が之を受容れたことを表す。
霊 義 人がその霊性低下し堕落するのは、主に向けられていた彼の愛が、自己とこの世に向けられるようになるからであって、愛が先ず誘惑され、次で知性がその愛の働きかけにより之を承認し、或はそれを正当化する為の理由や口実を設け、しかして之を行為に表す必要ある場合は、知性が之を達成する方法手段を案出するのが普通である。
 一応は感覚的知識による信仰論を否定する立場に立った人間の愛には既に昔日の天的人の霊性から人間有を愛する状態にまで低下している今、蛇の第二の言は極めて甘美に響いた。「神汝等が之を食う日には汝等の目開け汝ら神の如くなりて善悪を知るに至るを知り給うなり」との言は、先ず神に対する疑惑心を起さしめ、次でそれが、従来の神による封建的隷属状態から自らを解放し、真実を知り、自己によって自由に生きる喜びを満喫せしめることを約束するかの如くに響いた。女は魅せられた如くに禁断の樹に近づいて行った。人間の愛は感覚的知識即ちこの世の哲学や人間による神学に想をはせた。そしてかくなせばなす程、彼の人間有、即ち彼の自己愛と世愛とを満足せしめるものなるかの如くに思えて来た。遂に彼は「触るべからず」とさえ厳禁されていた人間所産の神学を受容れたが、それは人間の理性によっても受容れられ、確認せられる処となった。

 (3)人の言の与えるもの【道徳的善】(7―8)
 7 これにおいて独等の目、共に開けて彼等その裸体なるを知り、即ち無花果樹の葉を綴りて、衣を作れり 8 彼ら園の中に日の清涼き時分、歩みたまうエホバ神の声を聞しかば、アダムとその妻即ちエホバ神の面を避て園の樹の間に身を隠せり。
【裸体なるを知る】 「裸体」とは善と真を欠き、ために悪に在る状態を意味することは、以下の聖言によっても知られる(黙3・18、16・15、エゼキエル16・22、23・29)。2章終りの「裸体にて恥じず」は、本来は悪なる人間有に主が注入し給うた無垢の故に、主に受け入れられ得る状態を表すが、「裸体なるを知る」とはその反対に、悪に在る自らを認めることを意味する。
【「無花巣樹の葉を綴りて衣を作れり】 「葡萄の樹」は霊的善を、無花果樹は自然的善を表す。主がマタイ21・19において無花果樹を呪い給うたのは、霊的善は勿論、自然的善をさえ欠いている教会を呪い給うことを教えられたもの。全体の意味は、今や霊的善を失った彼らが、自然的道徳的善を以って僅かに自らを被うこと。
【日の清き時分】 教会に未だ神の囁きを覚知し得る状態が残されていたことを示す。
【園の中に歩みたまうエホバ神の声】 心中に往来する信仰の良心的声
【園の中の間に身を隠す】 「樹」は2・9の註(第五号六頁)にある如く「覚知」を表すが、それは極めて微々たるものであったことは、「樹」が単数で表わされていることによって知られる。自然的善の覚知によって心中に囁き給う神の声に対し、自らを守り弁護しようと努めたことが全体の意味である。
霊 義 天的人の状態から霊的人の状態に低下したとは云え、未だ無垢に留まり得た彼らではあったが、今や神の言よりも人の言を選択し之を受け入れた彼らは、ここに完全に無垢なる状態を失って残るぱ醜悪な人間有のみとなった。自らの真相を知った彼らは、その醜さを覆うために自然的善である道徳を身に纏った。しかしあえて信仰に生きた当時の神の言による反省が全く心中から失われたのではなかった。特に、「日の清冷き頃」彼らの心中に静に反省を促し給う神の御声を感ずるとき、貧弱ではあるが、彼らにとって唯一の砦である自然的道徳的善で自らを(鎧)うのだった。