『 視霊者の夢 』の夢解釈 ! ~6
スウェーデンボルグの教説普及のための鳥田四郎主筆の戦後の機関誌です。
これまでは、『創世記霊解』 (1)と(2)を元に「天地創造の物語」の7日間を足早に概略して来ましたが、ここで一旦中止して、なぜこの様な特異な解釈が出来るのかをわかりやすくするために、個々の聖句を「天界の秘義」に基づいて細かく解説することにより、疑問が払拭されると思われますので、最初の章から解説していきます。
として、一点一画を詳細に解説しているのですから。!!。
「天界の秘儀」は、スウェーデンボルグが1749年、61歳のときにロンドンでラテン語で執筆、出版したものです。宗教的著作の最初のものであり、匿名で出版されています。
1745年、57歳の頃、霊眼を開かれて、霊界に入れられ、そこで見もし、聞きもした霊界の事物を通して明らかにされた聖言の解釈です。
「天界の秘儀」 第一巻 創世記 第一章
出典は「天界の秘儀」 第一巻ラテン原典訳 アルカナ出版より引用)
※(1日目のみ……読書を勧めます。)
※ 本著作では、キリスト教としての大前提として、以下のように「主」の定義をしてから著作されています。)
14.「主 Dominus 」という呼称は、今後はただ、世の救い主、イエス・キリストだけを指します。他の名称を付け加えないで、そのまま「主」と呼ばれます。主の名称は、全宇宙で認められ、礼拝の対象になります。天においても地においても、いっさいの権能は主にあるからです。それは主のご命令でもあります。「あなたがたは、わたしを主と呼んでいる。それは正しい。わたしはたしかにその通りである」(ヨハネ13・13)。ご復活のあと、弟子たちは、主と呼んでいます。
15.全天界にわたって、主以外に、父は認められません。ご自身の言われたように、主と父は一つだからです。「わたしは、道であり、真理であり、〈いのち〉である。・・・ピリポが、『父を見せてください』と言うと、イエスは、『これほど長くあなた方といっしょにいたのに、まだわたしが分からないのか。ピリポよ、わたしを見る者は、父を見る。あなたは、父を見せてほしいと言うが、それはどうしてだろう。わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを信じないのか・・・。わたしが父の中におり、父がわたしの中にいることを信じなさい』、と言われた」(ヨハネ14・6,8-11)。
16. 第1節:はじめに神は、天と地とを創造された。
最古代は、「はじめ principium 」と言われています。預言者たちは、随所に「古代の日々」または「永遠の日々」と言いました。「はじめ」とは、人が再生に向かって出発する最初の時機を指します.再生にあたって、人は新しく生まれ、〈いのち〉を受けます。再生そのものが、人間の新しい創造と言われるのはそのためです。預言書では、随所に「創造するcreare」「形成するformare」「造り上げるfacere」と言われます。これには多少の相違があっても、再生させることです。イザヤは、次のように言います。
「わたしの名前で呼ばれるすべてを、わたしはわが栄光のために創造し、形成し、造り上げた」と(イザヤ43・7)
したがって、創造者のみ名以外に、主を指して、あがない主、母胎からの形成者、造り上げる者、と言われます。
同じくイザヤ書には、「わたしは、エホバであり、あなた方の聖者であり、イスラエルの創造者であり、あなた方の王である」(イザヤ43・15)とあります。
ダビデは、記していますo「創造された民は、エホバJahを誉め称えるであろう」(詩篇102・18)。
「あなたの霊を送れば、創造される。そしてあなたは、地の面を新たにされる」(詩篇104・30)。
「天」とは、内部人間を指します。「地」は、再生前の人間で、外部人間を指します。これは、後述する内容からも分かります。17. 第2節:地はうつろで、むなしく、闇が淵の面にあり、神の霊が水の表面を動いていた。再生前の人間は、「うつろで、むなしい地」と言われます。あるいは善も真理も植え付けられていない「土 humus 」です。「うつろ vacuum 」は善のない状態、「むなしいinane」は真理のない状態です。したがって「闇」です。つまり主への信仰については、全〈無感覚で無知です。霊的・天的〈いのち〉についてもそうです。このような人間を、主は預言者エレミヤをとおして、次のように描写されます。
「わが愚鈍なる民は、わたしを知らない。かれらは愚かな息子たちで、理解力がない。悪を行うことには知恵があり、善を行うことを知らない。地を眺め見よ。見よ、うつろでむなしい。天に目を向けても、天からの光はない」(エレミヤ4・22,23,25)。18.「淵の面」とは、そのような人間の貪欲、およびそれに由来する偽りを言います。全部が貪欲と偽りに根ざし、それに漬かっています。光はなく、淵のようで、混沌とした状態です。このような人を、〈みことば〉では随所に、深淵または海の深みと言います。人が再生する前は、このように潤いがなく、荒廃した状態です。
イザヤ書には、次のようにあります。
「古代の日々、とこしえに古い時代にあったように、目を覚まして奮い立て。・・・あなたは、あがなわれた者たちが通れるよう、海の水、巨大な淵の水を乾かし、海の深みに道をつけたではないか。・・・エホバにあがなわれた者として戻れ」(イザヤ51・9-11)。 天から見下ろすと、人はそのように見えます。ちょうど生命の欠けた黒い塊のようです。預言書には、再生前の状態について記したところがたくさんありますが、これは通常、人間の荒廃状態を指します。実のところ、人が何が真理かを知り、善に感動するようになるまで、妨害するもの、抵抗するものは、取り除かれねばなりません。新しい人がみごもる前に、古い人は死ぬことになっています。19.「神の霊」とは、主の慈しみmisericordiaを指し、それに「動いていた」という述語がきます。それはメンドリが卵を温めるように、主は人間を覆い温められます。卵とは、〈みことば〉に散見される「残果 reliquiae 」です。真理と善の認識もそうです。これも外部のものが荒廃に帰せられないかぎり、昼間の光を見ません。このような認識を「水の表面」と言っています。
20. 第3節:神は「光あれ」と言われた。すると光があった。まず人は、ある種の善と真理が、上にあるのを知り始めます。外部だけの人は、善とは何か、真理とは何か、全然知りません。自己愛と世間愛からくるものがすべて善であり、その愛にかなうものが真理だと思います。そのような善はむしろ悪であり、そのような真理はむしろ偽りであることが分かりません。
人が新しい人としてはらまれると、その善は善でないのを知り始めます。一層の光に達すると、主の存在を知り、主こそ善そのもの、真理そのものと知り始めます。主の存在を知る必要性について、主ご自身がヨハネ福音書で言われます。「あなた方がもし、わたしがありてある者であることquod Ego sim を信じないなら、あなた方は自分の罪の中に死ぬであろう」(ヨハネ8・24)。
したがって、主は善・〈いのち〉そのもの、真理・光そのものです。主によらなければ、善および真理は何一つ存在しません。同じくヨハネは記しています。
「はじめに〈みことば〉があった。〈みことば〉は神のもとにあったo神は〈みことば〉であった。・・すべては〈みことば〉によって造られた。造られたもので、それによらないで造られたものは一つもなかった。その中に〈いのち〉があった。〈いのち〉は人の光であった。光は暗闇の中に現れた。・・・その方は真理の光であって、この世に来るすべての人を照らされる」(ヨハネ1・1,3,4,9)。21. 第4.5節:神は光を見て、善しとされた。神はその光と暗闇とのあいだを分けられた。神は光を昼と名づけ、暗闇を夜と名づけられた。
「光」は、善であるといわれます。なぜなら、善そのものである主から来るからです。「暗闇」とは、大が新しくはらまれ、生まれる前の状態です。暗闇の出現は、あたかも光のようでしたが、それは悪が善のように、偽りが光のように見えたためです。しかしそれは暗闇です。つまり人のエゴpropriaが残っています。すべて主に由来するものは、光であり、「昼間」に対比されます。すべて人のエゴに関するものは、闇であり、「夜」に対比されます。22. 第5節:夕となり、また朝となった。第一日である。
夕とは何か、朝とは何かは、すでに知られています。「夕」は、影であり、偽り、不信仰ですから、先行する状態のすべてです。「朝」は、光であり、真理、信仰の認識ですから、後続する状態のすべてです。一般的に「夕」とは、人間のエゴに関するすべてを意味します。「朝」は、主に属することがらです。ダビデが言っています。
「エホバの霊がわたしに言われる。エホバの言葉がわたしの舌の上にある。イスラエルの神は言われた。イスラエルの岩は、わたしに言われた。・・・エホバは、太陽が昇り、雲のない朝、輝かしい雨によって、地から青草が出るときの朝の光のようである」(サムエル下23・2-4)。
「夕方」は、信仰がない状態、「朝」は、信仰のある状態です。そのため主のこの世への到来は、「朝」と言われます。ただ主が来られた当時は、信仰のない状態でしたから、ダニエル書にあるように、「夕」と呼ばれます。「聖なる方が、わたしに向かって言われた、朝が来て、夕方まで、二千三百回ある、と」(ダエエル8・14,26)。
同じように、〈みことば〉では主の到来は、すべて「朝」として受け取られます。新しい創造という表現にもそれがあります。
23「その時」の代わりに、「日」が使われます。これは〈みことば〉では、ごく普通です。イザヤ書には次のようにあります。
「エホバの日は近い。・・・さあ、エホバの日がやってきた。・・・わたしは天を揺り動かそう。すると地は、その場所から揺れ動く。・・・わたしの燃える怒りの日に、・・・その日はもうすぐやってくるが、その日が延期されることはない」(イザヤ13・6,9,13,22)。同じくイザヤ書にあります。
「いにしえの日々には、かれのいにしえがある。・・・その日には、ツロは七十年間忘れられる。一人の王の日にちなんで」(イザヤ23・7,15)。
「日」は、特定の時だけでなく、そのときの状態を意味します、これはエレミヤ書にもあります。
「われわれは災いだ。日は避けて行った。夕方の陰が広がったからである」(エレミヤ6・4)。
同じくエレミヤ書にあります。
「あなた方は、日にかんするわたしの契約、夜にかんするわたしの契約を無効にした。そのとき、日は存在しなくなり、夜が存在する」(エレミヤ33・20,25)
同じく、
「昔そうであったように、われらの日々を新しくしてください」(哀歌5・21)。
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