tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

『 視霊者の夢 』の夢解釈 ! ~6

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スウェーデンボルグの教説普及のための鳥田四郎主筆の戦後の機関誌です。

 

 これまでは、『創世記霊解』 (1)と(2)を元に「天地創造の物語」の7日間を足早に概略して来ましたが、ここで一旦中止して、なぜこの様な特異な解釈が出来るのかをわかりやすくするために、個々の聖句を「天界の秘義」に基づいて細かく解説することにより、疑問が払拭されると思われますので、最初の章から解説していきます。  

            マタイ5・17-20

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 として、一点一画を詳細に解説しているのですから。!!。

 

 「天界の秘儀」は、スウェーデンボルグが1749年、61歳のときにロンドンでラテン語で執筆、出版したものです。宗教的著作の最初のものであり、匿名で出版されています。
 1745年、57歳の頃、霊眼を開かれて、霊界に入れられ、そこで見もし、聞きもした霊界の事物を通して明らかにされた聖言の解釈です。

 「天界の秘儀」 第一巻 創世記  第一章 
        
     出典は「天界の秘儀」 第一巻ラテン原典訳 アルカナ出版より引用)

                ※(1日目のみ……読書を勧めます。)   

 

 ※ 本著作では、キリスト教としての大前提として、以下のように「主」の定義をしてから著作されています。)

14.「主 Dominus 」という呼称は、今後はただ、世の救い主、イエス・キリストだけを指します。他の名称を付け加えないで、そのまま「主」と呼ばれます。主の名称は、全宇宙で認められ、礼拝の対象になります。天においても地においても、いっさいの権能は主にあるからです。それは主のご命令でもあります。「あなたがたは、わたしを主と呼んでいる。それは正しい。わたしはたしかにその通りである」(ヨハネ13・13)。ご復活のあと、弟子たちは、主と呼んでいます。
15.全天界にわたって、主以外に、父は認められません。ご自身の言われたように、主と父は一つだからです。「わたしは、道であり、真理であり、〈いのち〉である。・・・ピリポが、『父を見せてください』と言うと、イエスは、『これほど長くあなた方といっしょにいたのに、まだわたしが分からないのか。ピリポよ、わたしを見る者は、父を見る。あなたは、父を見せてほしいと言うが、それはどうしてだろう。わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを信じないのか・・・。わたしが父の中におり、父がわたしの中にいることを信じなさい』、と言われた」(ヨハネ14・6,8-11)。


16. 第1節:はじめに神は、天と地とを創造された。
最古代は、「はじめ principium 」と言われています。預言者たちは、随所に「古代の日々」または「永遠の日々」と言いました。「はじめ」とは、人が再生に向かって出発する最初の時機を指します.再生にあたって、人は新しく生まれ、〈いのち〉を受けます。再生そのものが、人間の新しい創造と言われるのはそのためです。預言書では、随所に「創造するcreare」「形成するformare」「造り上げるfacere」と言われます。これには多少の相違があっても、再生させることです。イザヤは、次のように言います。
 「わたしの名前で呼ばれるすべてを、わたしはわが栄光のために創造し、形成し、造り上げた」と(イザヤ43・7)
 したがって、創造者のみ名以外に、主を指して、あがない主、母胎からの形成者、造り上げる者、と言われます。
 同じくイザヤ書には、「わたしは、エホバであり、あなた方の聖者であり、イスラエルの創造者であり、あなた方の王である」(イザヤ43・15)とあります。
 ダビデは、記していますo「創造された民は、エホバJahを誉め称えるであろう」(詩篇102・18)。
 「あなたの霊を送れば、創造される。そしてあなたは、地の面を新たにされる」(詩篇104・30)。
 「天」とは、内部人間を指します。「地」は、再生前の人間で、外部人間を指します。これは、後述する内容からも分かります。

17. 第2節:地はうつろで、むなしく、闇が淵の面にあり、神の霊が水の表面を動いていた。再生前の人間は、「うつろで、むなしい地」と言われます。あるいは善も真理も植え付けられていない「土 humus 」です。「うつろ vacuum 」は善のない状態、「むなしいinane」は真理のない状態です。したがって「闇」です。つまり主への信仰については、全〈無感覚で無知です。霊的・天的〈いのち〉についてもそうです。このような人間を、主は預言者エレミヤをとおして、次のように描写されます。
 「わが愚鈍なる民は、わたしを知らない。かれらは愚かな息子たちで、理解力がない。悪を行うことには知恵があり、善を行うことを知らない。地を眺め見よ。見よ、うつろでむなしい。天に目を向けても、天からの光はない」(エレミヤ4・22,23,25)。

18.「淵の面」とは、そのような人間の貪欲、およびそれに由来する偽りを言います。全部が貪欲と偽りに根ざし、それに漬かっています。光はなく、淵のようで、混沌とした状態です。このような人を、〈みことば〉では随所に、深淵または海の深みと言います。人が再生する前は、このように潤いがなく、荒廃した状態です。
 イザヤ書には、次のようにあります。
 「古代の日々、とこしえに古い時代にあったように、目を覚まして奮い立て。・・・あなたは、あがなわれた者たちが通れるよう、海の水、巨大な淵の水を乾かし、海の深みに道をつけたではないか。・・・エホバにあがなわれた者として戻れ」(イザヤ51・9-11)。 天から見下ろすと、人はそのように見えます。ちょうど生命の欠けた黒い塊のようです。預言書には、再生前の状態について記したところがたくさんありますが、これは通常、人間の荒廃状態を指します。実のところ、人が何が真理かを知り、善に感動するようになるまで、妨害するもの、抵抗するものは、取り除かれねばなりません。新しい人がみごもる前に、古い人は死ぬことになっています。

19.「神の霊」とは、主の慈しみmisericordiaを指し、それに「動いていた」という述語がきます。それはメンドリが卵を温めるように、主は人間を覆い温められます。卵とは、〈みことば〉に散見される「残果 reliquiae 」です。真理と善の認識もそうです。これも外部のものが荒廃に帰せられないかぎり、昼間の光を見ません。このような認識を「水の表面」と言っています。

20.  第3節:神は「光あれ」と言われた。すると光があった。まず人は、ある種の善と真理が、上にあるのを知り始めます。外部だけの人は、善とは何か、真理とは何か、全然知りません。自己愛と世間愛からくるものがすべて善であり、その愛にかなうものが真理だと思います。そのような善はむしろ悪であり、そのような真理はむしろ偽りであることが分かりません。
 人が新しい人としてはらまれると、その善は善でないのを知り始めます。一層の光に達すると、主の存在を知り、主こそ善そのもの、真理そのものと知り始めます。主の存在を知る必要性について、主ご自身がヨハネ福音書で言われます。「あなた方がもし、わたしがありてある者であることquod Ego sim を信じないなら、あなた方は自分の罪の中に死ぬであろう」(ヨハネ8・24)。
  したがって、主は善・〈いのち〉そのもの、真理・光そのものです。主によらなければ、善および真理は何一つ存在しません。同じくヨハネは記しています。
  「はじめに〈みことば〉があった。〈みことば〉は神のもとにあったo神は〈みことば〉であった。・・すべては〈みことば〉によって造られた。造られたもので、それによらないで造られたものは一つもなかった。その中に〈いのち〉があった。〈いのち〉は人の光であった。光は暗闇の中に現れた。・・・その方は真理の光であって、この世に来るすべての人を照らされる」(ヨハネ1・1,3,4,9)。

21. 第4.5節:神は光を見て、善しとされた。神はその光と暗闇とのあいだを分けられた。神は光を昼と名づけ、暗闇を夜と名づけられた。
 「光」は、善であるといわれます。なぜなら、善そのものである主から来るからです。「暗闇」とは、大が新しくはらまれ、生まれる前の状態です。暗闇の出現は、あたかも光のようでしたが、それは悪が善のように、偽りが光のように見えたためです。しかしそれは暗闇です。つまり人のエゴpropriaが残っています。すべて主に由来するものは、光であり、「昼間」に対比されます。すべて人のエゴに関するものは、闇であり、「夜」に対比されます。

22. 第5節:夕となり、また朝となった。第一日である。
  夕とは何か、朝とは何かは、すでに知られています。「夕」は、影であり、偽り、不信仰ですから、先行する状態のすべてです。「朝」は、光であり、真理、信仰の認識ですから、後続する状態のすべてです。一般的に「夕」とは、人間のエゴに関するすべてを意味します。「朝」は、主に属することがらです。ダビデが言っています。
 「エホバの霊がわたしに言われる。エホバの言葉がわたしの舌の上にある。イスラエルの神は言われた。イスラエルの岩は、わたしに言われた。・・・エホバは、太陽が昇り、雲のない朝、輝かしい雨によって、地から青草が出るときの朝の光のようである」(サムエル下23・2-4)。
 「夕方」は、信仰がない状態、「朝」は、信仰のある状態です。そのため主のこの世への到来は、「朝」と言われます。ただ主が来られた当時は、信仰のない状態でしたから、ダニエル書にあるように、「夕」と呼ばれます。「聖なる方が、わたしに向かって言われた、朝が来て、夕方まで、二千三百回ある、と」(ダエエル8・14,26)。
 同じように、〈みことば〉では主の到来は、すべて「朝」として受け取られます。新しい創造という表現にもそれがあります。
23「その時」の代わりに、「日」が使われます。これは〈みことば〉では、ごく普通です。イザヤ書には次のようにあります。
 「エホバの日は近い。・・・さあ、エホバの日がやってきた。・・・わたしは天を揺り動かそう。すると地は、その場所から揺れ動く。・・・わたしの燃える怒りの日に、・・・その日はもうすぐやってくるが、その日が延期されることはない」(イザヤ13・6,9,13,22)。同じくイザヤ書にあります。
 「いにしえの日々には、かれのいにしえがある。・・・その日には、ツロは七十年間忘れられる。一人の王の日にちなんで」(イザヤ23・7,15)。
 「日」は、特定の時だけでなく、そのときの状態を意味します、これはエレミヤ書にもあります。
 「われわれは災いだ。日は避けて行った。夕方の陰が広がったからである」(エレミヤ6・4)。
同じくエレミヤ書にあります。
 「あなた方は、日にかんするわたしの契約、夜にかんするわたしの契約を無効にした。そのとき、日は存在しなくなり、夜が存在する」(エレミヤ33・20,25)
同じく、
 「昔そうであったように、われらの日々を新しくしてください」(哀歌5・21)。

 

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