tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

『 視霊者の夢 』の夢解釈 ! ~1

 このブログは、スウェーデンボルグ著 『 天界の秘義 』の「天地創造物語」と「エデンの園」を知るための解説をしていきます。

 

 そのプロローグとして、熱心なスウェーデンボルグ派のクリスチャンであった三重苦のヘレン・ケラー女史の「私の宗教」を紹介します。

   

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         『視霊者の夢』について

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  イマヌエル・カント(1724-1804) 

 

  1766年、スウェーデンボルグの名声を著しく失墜させた批判が、ドイツでイマヌエル・カントによって、『視霊者の夢』(Dreams of a Spirit-Seer)という表題で出版された。フォン・クノープロツホ嬢へ宛てた1763年の彼の手紙以来、幾年かのうちに、彼は『天界の秘義』を購入して読み、この書物を、そのどんな資料も感覚の資料ではないという理由で「ナンセンスにみちた4折判の8巻」と非難した。そして彼は、狂人だけが立証されえないような事柄を書きたくなるのだ、と主張した。彼は、ある友人への一書簡で、自分は「嘲笑されるより嘲笑するほうが」いっそうよいと思った、と述べ、自分の暴力的な攻撃を釈明した。そののちほどなくして、彼は彼自身の『純粋理性批判』(Critique of Pure Reason)(1781年)の仕事にとりかかったが、それはスウェーデンボルグのものとはまったく異なった基盤に立って、哲学の根本規則を提起するものであった。その攻撃は一方的なものであったけれども、スウェーデンボルグヘのカントの攻撃はきわめて影響力が大きかったため、一世代以上にわたって、どんなドイツの学者もスウェーデンボルグのことを好意的に語ったり、スウェーデンボルグをまともに理解したりすることは不可能になった。

 ※『視霊者の夢』は 講談社学術文庫 カント「視霊者の夢」

       岩波書店 カント全集〈3〉前批判期論集(3) 

 以下は 『 スウェーデンボルグの思想 』 科学から神秘世界へ 

                                                            高橋和夫 講談社現代新書より        

         カントによる千里眼批判
超能力者スウェーデンボルグ
 スウェーデンボルグの心霊的な能力は社会生活においてもしばしば発揮され、多くの逸話を生んだ。霊媒として故人の消息を家族に伝えるとか、ちょっとした未来予知とか、現在PSI(超常現象)として知られている出来事が、彼に関して報告されている。彼自身はこうした異常な出来事に好奇の目で関心を示す態度を、人間の健全な精神生活にとって有害かつ危険なものと考え、他人から頼まれ、それが正当な理由を持つ場合以外は、こうした超常能力を行使することはなかった。友人ロブサーム(友人の銀行家)があるときスウェーデンボルグに、一般の人々も他界と交流できるかどうかを尋ねた。その際スウェーデンボルグは、断固としてこう答えている。「こうした交流は狂気へ直通する道ですから、注意してください。というのは、人間に隠されている霊的な事柄を注視する状態において、人間は地獄の妄想から自らを引き離しておく方法を知らないうえ、そうした妄想は、人間が自分の把握を超えた天界の事柄をひとりよがりの思索によって発見しようとすると、その人間を混乱させてしまうからです。あなたは、不必要な探究によって自分を見失ってしまう神学生や、とりわけそうしたことをしたがる神学者たちが、どれほどしばしば理解力を損なうことになったかを、十分ご存知でしょう」。
 ストックホルム大火災を見通した千里眼スウェーデンボルグのPSI能力に深い関心を示した同時代者のひとりが、ドイツの哲学者、若きカントだった。批判哲学を確立し後世の哲学や神学に強力な影響を及ぼしたカントの、スウェーデンボルグヘの接近は興味深い問題なので、ここで取り上げてみたい。『天界の秘義』の出版完了後わずか二年して、スウェーデンボルグは第七次外国旅行に発ちロンドンへ行った。そこで一年間に五冊の著作(「ロンドン五部作」と言われる)を出版して、1759年に帰国した。「スウェーデンボルグ千里眼」として後世の語り種となった事件は、この帰国の途次に起こったのである。7月19日、土曜の夕方のことであった。スウェーデンボルグはイギリスから帆船に乗ってて、スウェーデン西海岸の都市イェーテボリに到着した。そして同市の商人だった友人、ウィリアム・カーステルの夕食会に招かれた。現在もサールグレン家として残っているカーステルの家には、ほかにも15人の客が招かれていた。食事中、スウェーデンボルグは極度に興奮し、顔面が蒼白となった。不安と焦燥に満ちた様子で、彼は幾度となく食卓を離れた。そして、騒然となった一同に向かって、「今、ストックホルムで大火災が猛威を振るっている」と、告げたのである。そして落ち着きを失ったまま再び外へ出て行き、戻って来ると、ひとりの友人に向かって言った。「あなたの家は灰になった。私の家も危険だ」その晩八時頃、もう一度外へ出て戻って来た彼は、大声で叫んだ。「ありがたい! 火は私の家から三軒目で消えた」
 同夜、来客のひとりが州知事にこの話をしたため、知事の依頼に応じて翌日、スウェーデンボルグは火事の詳細を話した。火事のあった二日後、通商局の使者がストックホルムからイェーテボリに到着した。両都市は約480キロメートルも離れていたが、この使者の火災報告とスウェーデンボルグの語った内容とは、薄気味悪いほど一致していたのである。

カントによる批判と評価
 ヨーロッパ中に知れ渡ったこの出来事に深い関心を抱いたカントは、かなり大がかりな調査を始めた。39歳のカントが、その後援者の娘クノープロッホ嬢宛の手紙でこの事件の詳細な調査報告をしたのは、大火の四年後である。彼はその中で、スウェーデンボルグ千里眼は「何よりも強力な証明力を持ち、およそ考えられる一切の疑念を一掃してしまうように思われる」(『視霊者の夢』B版収録のカントの手紙)と述べている。この手紙の中でカントはまた、スウェーデンボルグに手紙を書き、自分の質問事項にスウェーデンボルグが新刊書の中で答えるという約束をとりつけた、とも述べている。カントの依頼を受け実際にスウェーデンボルグに会っ友人の伝えるところによると、スウェーデンボルグは「理性的で、親切で、率直な」人物であったという。ところが二年経っても、スウェーデンボルグが新刊書の中でカントの質問に答えた形跡もなく(おそらく単純な失念と思われる)、またスウェーデンボルグの著作を送るという前述の友人の約束も果たされなかった。苛立ったカントは八巻もの分厚い『天界の秘義』を自ら買い込んで読み、1766年にスウェーデンボルグヘの批判書『視霊者の夢』の出版に踏み切ったのである。
カントの批判の痛烈さは、次のような言葉に反映している。「この著者の大著はナンセンスに満ち」「完全に空で理性の一滴も含まない」。実際、カント学者K・フィッシャーは『視霊者の夢』を評して、カントにとって形而上学スウェーデンボルグは「一撃でぴしゃりと殺されるべき二匹のハエ」だった、と述べている(『視霊者の夢』英訳版の序言)。
 しかしカントは、表面上はともかく、スウェーデンボルグの心霊能力や思想に対してのみならず、霊的な存在一般に対して終始、両面価値的な態度を見せている。すなわち、カント自身、超自然的なものをどう処理してよいか、まだ確信が持てなかったのである。だからこそカントは、スウェーデンボルグの「大著は理性の一滴も含まない。それにもかかわらず、その中には、同様の対象に関して理性の最も精細な思弁がなしうる思考との、驚くべき一致が見られる」(『視霊者の夢』B版)と述べざるをえなかったのである。この批判書において彼はまた、スウェーデンボルグ千里眼に関して、「真実であるという完全な証明が容易に与えられるに違いない種類」の出来事である、と明言している。 その思索の方法は異なるものの、カントの哲学とスウェーデンボルグの思想には、英知界と感性界(スウェーデンボルグでは霊界と自然界)という二世界の分立、時間と空間の観念性、霊魂の不死に関する思索、宗教における道徳性の強調などの点で、本質的に共通しでいる部分がある。
 カントは『視霊者の夢』出版の四年後、ケーニヒスベルク大学の教授になり、そののち10年以上の長い沈黙期間を経て『純粋理性批判』を出版し、不動の名声を確立した。この沈黙の期間の講義で彼が再びスウェーデンボルグに言及し、次のように評したことは注目に値しよう。
スウェーデンボルグの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と彼は述べている」(K・ペーリツ編『カントの形而上学講義』)。 

  

 「私の宗教」(ヘレン・ケラー著)

                                                       高橋和夫・鳥田 恵  共訳  未来社  [初版2013年]                                       

                                      訳 者 あ と が き       高 橋 和 夫
本書はヘレン・ケラー(Helen Adams Keller,1880-1968)「My Religion,1927」の全訳です。

 盲・聾・唖の三重苦を背負いながらもこれを克服したヘレン・ケラーと、彼女の家庭教師サリヴァン先生はあまりにも有名です。しかし、ヘレンが47歳の時に出版した「私の宗教」は、一般にはよく知られていません。また本書で紹介されているスウェーデンボルグも同様と思われます。そこで、本書の周辺的なことを少し述べてみます。ヘレン・ケラーは熱病のために2歳になる前に失明し、耳と発話の機能も失いました。彼女を連れて両親がワシントンに住むグレアム・ベルを訪ねたのは、ヘレンが6歳の時でした。グレアム・ベルは電話の発明者です。ベル家は代々、障害者教育に力を注ぎました。グレアムの祖父は吃音矯正法の創始者、父のメルグィル・ベルは聾唖教育に必要な「視話法(読唇法)」の発明者でした。グレアムは父の仕事を手伝い、視話法の普及に努めました。彼の電話機の発明は、ベル家の長年の聾唖教育の延長線上の出来事だったのです。グレアムが最初の電話機で送信に成功したのは1875年で、ヘレン・ケラーの誕生の五年前でした。当時グレアムはボストン大学の音声生理学の教授でした。
 そのグレアム・ベル博士がケラー家に家庭教師として紹介したのが、パーキンズ盲学校を卒業したばかりのサリヴァン先生です。彼女はこの時、20歳、以後50年もヘレンに影のように寄り添います。ベル博士との交流はその後もずっと続き、この交流はさらに、ヘレンがサリヴァンに次ぐ「第二の恩人」と書いたジョン・ヒッツ(John Hitz)氏へと繋がります。ヒッツは長年にわたってワシントン駐在のスイス総領事を務めたのち、ベル博士が設立したヴォルタ局の局長になりました。ヴォルタ局は聾者に関する情報の収集・配布をしたり、『ヴォルタ・レヴュー』という雑誌を発行する機関でした。ヒッツはスウェーデンボルグ派のキリスト教徒で、12歳のヘレンと出会ったときは、すでにかなりの高齢でした。その交流はヘレンの20代後半まで続きました。この人こそ、ヘレンが生涯にわたって信奉した「宗教」を教えた恩人なのです。このようにヘレン・ケラーの人生は、彼女を取り巻いた多くの人々の愛と善意に支えられていたのです。本書にも書かれていますが、暗闇と沈黙の世界に生き、飢えれば食物を本能的に求めるだけの少女の、「三重苦の聖女」「光の天使」への変身は、私たちに教育の力をまざまざと見せつけます。サリヴァン自身も、パーキンズ盲学校に入るまでは、孤児同然であり、視力も失いかけていました。彼女の生涯はヘレンに「私の幸福はサリヴァン先生の不幸の上に成り立っていた」と語らせるほど、悲劇的でさえあった献身の生涯だったように思います。その驚異的な努力によって、ヘレンは読み書きを覚え、話せるようになり、ハーバード大学(──その女子部であるラドクリフ女子大学)を優秀な成績で卒業しました。その後、88歳で世を去るまでどんな働きをしたかは周知のとおりです。本書はヘレン・ケラーがみずからの内面を率直かつ真摯に吐露した重要な著作であるにもかかわらず、日本ではほとんど知られておらず、数多くあるヘレンの伝記でもほとんど触れられていません。その理由は、ヘレンが本書の中で述べていますので省きますが、一言付け加えますと、サリヴァンでさえスウェーデンボルグを誤解し、狂人扱いしたことがあったと伝えられています。
 しかし私は、本書を読まないで、他の自伝その他だけではヘレンの内面のほんとうの姿はけっして知りえないと思います。確かにサリヴァン先生の尋常でない努力のおかげで、視覚と聴覚を除く他の感覚は鋭敏さを増し、同年齢の子供たちと較べても驚嘆すべき速さで言葉を習得してゆきました。感覚や理解力の発達という、知性的な側面の成長は奇跡的といえたでしょう。けれども、たんに知性ではなく霊性という側面、つまり心の奥深い領域における自覚の深まりとか、魂の成長はどうだったのでしょうか。ヘレンは本書でも他の自伝でも、サリヴァン先生が親しく教えてくれる自然を愛し、その美をたたえます。しかしヘレンには自然への関心以上の、存在の根源すなわち神へのもっと深い宗教的な問いがありました。それは誰もがいだく宗教的な懐疑や苦悩に関するもろもろの問いです。これらに対して納得のゆく答えが見出されないかぎり、彼女の魂に真の安らぎは訪れませんでした。
 無類の読書家だったヘレンは、本書の二年後に出版した自伝『流れの中ほど──私のその後の人生』において、「自分の生活を豊かにしてくれた、どうしてもあげずにおれない書物」として、第一に聖書を、そして次にスウェーデンボルグの『神の愛と知恵』をあげています。ヘレンはヒッツが点字にして贈ってくれたスウェーデンボルグの諸著作を手引きにして、点字の自分の聖書を、その点字が磨滅してしまうまで幾度となく読んだと言っています。こうして彼女は神の愛に触れ、ほんとうの信仰を得ることができました。これは彼女の霊性の開顕であり、暗黒と沈黙の世界は光と歓喜の世界へと変貌したのです。そしてここから、泉から水が湧き出すように、ヘレンの社会事業家・講演者・著述家……等々としてのあの力強い活動の原動力が生まれたのです。
ジョン・ヒッツ翁の高潔な人格とヘレンとのあいだで育まれた愛と友情、そしてヘレンの手を握ったまま突然死した永訣の日の記述は、読む者の涙をさそわずにはおきません。また、異端視され続けた天才科学者兼神秘家スウェーデンボルグを、世間の誤解と偏見から解き放つべく書かれた第三章を読めば、ヘレンがどれほど深くスウェーデンボルグに傾倒しているかがわかるでしょう。むろん、これをもっと端的に表現しているのが、巻頭の「スウェーデンボルグ」と題した詩だと思います。そこには「2000年来の真のキリスト教のもっとも偉大な戦士」とたたえた彼への熱い眼差しが見てとれます。訳者たちは長年このスウェーデンボルグの宗教思想を研究しています。ヘレン・ケラーが本書でおもに語っているのは、まさに彼自身の伝記的事実とその豊かな教えです。それゆえここで余計な解説を加える必要はないと考えます。読者はヘレンから直接メッセージを聞いてください。それは鮮烈なインパクトをもって私たちの魂の奥底に響いてきます。私たちの人生に勇気と希望を与えてくれる言葉です。 

 

  

      「私は、私の魂が霊の光の中に立ち『生と死はひとつのものだ』と叫ぶまで、確固とした思想をもってあらゆる視力を超えた視力につき従ってゆきます。」「大多数の人々にとって霊的な事象が漠然としていて遠いものであるのと同じように、障害をもつ私の感覚にとっては、自然界のほとんどすべての事象が漠然としていて遠いのです。私はスウェーデンボルグの教えを記載した点字の大著に手を深くさしこみ、霊界の秘密がつまったその教えを引き出します。内的感覚は──お望みなら"神秘的"感覚とよんでもいいのですが──見えざるもののヴィジョンを私に与えてくれます。」

 

※ ここでヘレン・ケラーが言う「あらゆる視力を超えた視力」「内的感覚=神秘的感覚」とは、目に見えない世界すなわち霊的世界を知覚する「視力」であり「感覚」である。スウェーデンボルグヘレン・ケラーもともにこの「あらゆる視力を超えた視力」をもって「天界」を視たのである。そして同時に「天界」を視る「視力」をもって人間世界を視たのだ。

  するとそこでは、人間は肉体を持つ一個の存在であるばかりか、肉体と知性と霊という「三重の層」からできている存在で、その本質に「神的人間」もしくは「神性」を宿した存在に視えてくる。「人が肉体で感じ取るあらゆる形というものは心象へと還元され、その心象は霊魂によって生命と意味を与えられる」。とすれば、世界は感覚と知性と霊の三重の了解の統合としてその人の前に立ち現れるのである。                                                                                                        序文 鎌田東二より

 

   私は口を開いて、たとえを語り、いにしえからの謎を語ろう。これはわれらがさきに聞いて知っていたこと、またわれらの祖先たちがわれらに語り伝えたことである。
                                                                                                     「詩編」第78編


詩編」のこのあとには、イスラエルの民のエジプトでの体験と、カナンの地への移住の旅の概要が記されています。この記録は歴史的な事実でありますが、ここではそれが、秘義を受けた者にしか充分には理解できないようなたとえ話である、と宣告されているのです。………このたとえ話は、物質主義と無知から脱出し、美しく肥沃なカナンの地が象徴するようなもっと幸せな人生をめざす、私たちの遅々とした困難な旅を完璧に描き出しているのです。 ………………
 スウェーデンボルグは、聖書が物質的世界の創造や文字通りの洪水のことを述べているとは思っていませんでした。また「創世記」のはじめの11章は、アダムやノアという名の個人についての記録であるとも思っていませんでした。彼の注意を引いたのは、まったく違う次元の主題だったのです。彼は、ヘブライ語を学んだり精神的な啓発を受けたりしたおかげで、「創世記」のはじめの数章が、人類発生からユダヤ民族の時代にいたるまでの人類の霊的生活を、古代の寓話的語り口で述べたものだと理解したのです。
「創世記」第1章には、はじめは暗く混沌としていた人間の心が、素朴な真理と幸福に満たされたエデンの状態へと発達するまでの、進化の諸段階が描かれている、と彼は指摘しています。このエデンの時代は利己主義が台頭してくるまで続き、その後、子供のような無邪気さはしだいに失われてゆきます。そしてついには、間違った考えが洪水のように世界に氾濫することになりました。………………   「私の宗教」より引用               

 

  次回より創世記の天地創造物語をヘブライ語原典を交えて解説していきます。スウェーデンボルグの聖句の翻訳は、霊的・内的意義のために、通常の翻訳された旧約聖書では、つまずきとなり理解出来ない個所があるためです。