tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

パリのノートルダム大聖堂の夢解釈! ~1

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 ゴシック大聖堂は、中世の人々にとって、単なるキリスト教の教会ではなく、伝統的に百科全書的知識で建設されています。ここは礼拝の場所であり、学校であり、図書館であり、美術館であり、劇場でした。聖堂前の公共広場では、受難劇や奇跡劇が演じられ、近くには市場や定期市が立って、人々が群がっていました。また時には大聖堂の中にまで商業活動や社会活動が入り込んでいました。大聖堂は主キリストの宮であったばかりでなく、町の人々の家でもあったのです。

 このパリのノートルダム大聖堂の西ファサード中央入口である「最後の審判の門」の中央仕切柱のキリスト像の足下の下にある腰石のレリーフ彫刻は学問(※1)の「自由七学芸」(※2)と哲学をテーマとして作成されています。
 パリのノートルダムでは、幾何学弁証法・薬学・天文学・文法学・音楽であり、修辞学と算術がなく薬学となっており、それに哲学が加わって構成されています。


 (※1)13世紀の諸聖堂の無数の芸術作品を研究するためには、しかるべき方法が必要である。この方法は、聖王ルドヴィクスの世紀の著名な百科全書家であるボーヴェのヴィンケンティウスが、それを私たちに提供してくれる。その時代の全知識を収録した、彼自ら「鏡」と呼んだ大著述の構成に従うことにしよう。この著書は四部に分かれる。つまり「自然の鏡」、「学問の鏡」、「道徳の鏡」および「歴史の鏡」である。

 「学問の鏡」は、宇宙の謎を解くドラマの物語、すなわち「人祖の堕落」の説話をもって始まる。人間は失墜した。そのあとは、救いのために贖罪者を待つのみである。しかし人間は、自分自身も、起ち上がり、学問によって恩寵の下る準備をすることができる。学問には生きた霊が宿っているのであって、七つの学芸のそれぞれに聖霊の七つの賜物(聖霊が人々の霊魂に対して下す七つの恵みで、知恵、聡明、熟慮、力、知識、信仰、神への畏れの七つを指す)が相応じている。この壮大な人間論を展開させたあと、ボーヴェのヴィンケンティウスは、知識の全域に目を向けるのである。彼は手芸をも忘れない。というのは先ず手仕事によって人間はその贖罪の業を始めるからである。

    以上の文は「エミール・マール著 ヨーロッパのキリスト教美術(上)」より

 

(※2)七つの自由学芸は文法、修辞学、論理学の三学芸であり、算術、幾何学天文学、音楽の四学科をいい、哲学はこの自由七学芸の上位に位置し、自由七学芸を統治すると考えられ、かつ哲学はさらに神学の予備軍として論理的思考を教えるものとされ、この自由七学芸を修めると中世の最高位にあった神学を学ぶことが許されていたという時代でした。
 それですから、学問関連のレリーフの中で、この「哲学」のレリーフがメインの位置にあることは自然なことなのです。

 ところで、自由七学芸の内容は、今日の名称が意味する範囲とは異なっています。文法はラテン文学の注釈、修辞学は教会の文書・法令の作成や歴史、幾何学は初等の地理学、天文は占星術、音楽は数理的研究などを含む等々です。

 ※ 中世には教育の普及も活発であり、大聖堂に付属していた聖堂学校の教科課程では、この自由七学芸の教育が行われており、教科書として6世紀のローマ人カッシオドルスの「聖俗修学便覧」やボエティウスの「哲学の慰め」、セヴィリアのイシドルスの「語源論」、ベネデクト派修道士の尊者ベーダの聖書注釈書や神学及び天文学に関する論文等がありました。

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 西ファサード中央入り口の「最後の審判の門」の中央仕切り柱の「美しき神」のキリスト像の下部の腰石部分に『学問』のレリーフがあります

 

     パリのノートルダム腰石の部分にある「学問」のレリーフ

 天文学 (女性がアストロラーべを持っている)      文法学 (女性が子供に文法を教えている)

 

  音 楽 (女性がベルを鳴らしている)                                     幾何学 (女性がコンパスを使用している)

 

   弁証法 (女性が演説をしている)                              薬 学 (薬草で薬を作っている)

 

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   哲 学(物質世界から精神的な世界を結ぶ梯子が彫られているとされる?)

            この精神的な世界を結ぶ梯子については、『夢解釈~8』で解説しています。

  「哲学」を除く各レリーフ天文学のみ円盤※1を持っているだけ)は、それぞれの動作からそのように当てはめて考えてもいいが、「哲学」のレリーフだけは、なぜこれが「哲学」を表すのか疑問となるでしょう。しかし、このレリーフを哲学とする根拠は、以下のボエティウス※2「哲学の慰め」の書物からきています。

 

 ※1 この円盤はアストロラーべという、古代の天文学者占星術者が用いた天体観測用の機器のレリーフです。ある種のアナログ計算機とも言えるもので、用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われていました。

 以下の左は円盤の拡大図で中心部に回転軸構造の花模様がみられます。右の写真は多用途のアストロラーベです。

 中の絵は、15世紀のドイツの天文学者レギオモンタヌスがアストロラーベを持っている肖像画です。(1493年 木版画

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 ※2 ボエティウス(480年頃~524年頃) ローマ貴族の家系に生まれ、幼くして孤児となり貴族シンマクスに養われる。アテナイに留学し、帰国後は「水晶と象牙で飾られた書斎」で研究生活を送る。この前後に恩人シンマクスの娘と結婚している。時のイタリア支配者、東ゴート王国テオドリック王に仕官し、貨幣制度の改革などに関わる。次第に高位に昇り、510年には西ローマ帝国執政官となる。522年には彼の息子2人も執政官となるほど王の信任を得ていたが、かつての執政官アルビヌスの反逆に与したという嫌疑でパヴィアに投獄され、処刑された。獄中で韻文混じりの散文で『哲学の慰め』を書き、慰めを古代哲学に求めている。(524年獄中で執筆)

 

  「哲学の慰め」 ボエティウス著  

『  第一巻
      ―略―

    一(章)

 私がひとり静かにこうした物思いにふけり、やるせない憤懣を尖筆で書きつけていると、きわめて気品のある身なりをした婦人が私の頭上に立っている気配がした。彼女の目はきらきらと輝き、常人の及ばぬ洞察力があるように思われた。彼女は年老いているようにも見えたが、その表情は生き生きとして若々しく、われわれの物差しでその年齢を計ることはできなかった。彼女の背丈はといえば、はっきりと見定めることはできない。というのも、時にはその背を人間並みに縮めていたし、時にはその頭は天にまで届きそうであったし、また時には、さらに高くそびえたその頭が天さえも突き抜けて人びとの好奇の視線から消え去っていたからである。熟練した技巧で織られた衣装は、細くて朽ちることのない糸で作られていた。彼女がそれを自分で織り上げたことは、後に彼女自身がわたしに教えてくれた。しかし、すべての芸術作品の輝きを失わせる時の流れが、その色を褪せさせ、その美しさを隠していた。その裾の縁飾りにはギリシャ文字のπ[ピー](1)が、上の縁飾りにはθ[テーター](2)が織り込まれていた。二つの文字の間には梯子に似た一連の段が表現されていて、それが下位の原理を上位の原理へと導くのであった。ところが、この衣服を幾人かの乱暴者が引き裂き、その切れはしを我勝ちに持ち去ってしまったのである。また彼女は右手に数冊の書物を、左手に王杖を持っていた。      

 ※ (1) プラクシスまたはプラクティケーで実践哲学を示し、
      (2) テオリアまたはテオレティケーで理論哲学を示す略号であるとされている。

     ―略―

   三(章)

 ちょうどこのように悲しみの霧が消えたので、私は空(くう)を見つめ、それからふと正気に返って、私を癒やそうとしている婦人の顔を認めた。そうして彼女に目を向けて瞳をこらしたとき、私はそれが私を育ててくれた哲学であることに気がついた。私は若いころから彼女の家で教えを受けてきた。          
                             -略-      』

 この本の「哲学の慰め」は西欧において中世以来、「聖書」「キリストにならいて」と並んで最も愛読された書物でした。(中世の修道院や大聖堂の蔵書目録・聖堂付属の学校の教科書などを、確認するとそこには、常にボエティウスの名前があるからです) 

 ですから、寺院を訪れ西玄関の中央の扉口のキリスト像のある中央柱の足下の腰石部で、ちょうど目の高さに位置する、この図像のレリーフを見つけたとき中世の人たちは、そこに「哲学の慰め」の「哲学」を理解していたのです。
   
 以下は「ゴシックの図像学」エミール・マール著より (中世宗教美術の大研究家)

 (図1) ラン(大聖堂)の彫像はこの記述とあらゆる点で合致している。彫刻家は自分の芸術と相容れない特徴を捨てているだけである。彼はボエティウスが見たとおりの「哲学」を、すなわち頭を雲の中に入れ、左手には王杖を、右手には書物を持っている姿を表現した。そして彼女の胸に立てかけられた梯子を描き込み、この哲学者の象徴主義を視覚化することさえも辞さなかった。 しかし彫刻ではこれ以上深入りするのは難しかった。芸術家がどうして衣の縁飾りにπとθを彫りつけなかったのか不思議であるが、おそらくこの二つの文字は衣に描き込まれていたが、時の経過とともに消えてしまったのだろう。中世の建築物は、古代の建築物と同様極彩色であり、ほとんどすべての彫像も彩色されていた。彫像はおそらく控えめに、しかし効果を正しく意識して彩色されていただろう。あのステンドグラスを見れば分かるように中世の画家たちは精妙なる彩色家であり、その効果を十分に認識していたのである。パリのノートルダムの扉口では、彩色された彫像が黄金の背景から浮き上がり、華麗なアンサンブルを形作っていた。十五世紀には、オリエント芸術の華麗さに慣れているはずのあるアルメニアの司教がそれを見て感嘆している。したがって、ボエティウスの章句にきわめて忠実に従ったランの芸術家が、あのπとθを描き忘れたはずはないのである。
 この二つのギリシャ文字は別の場所にも見いだすことができる。サンスの大聖堂では、中央入口の基壇にある「七自由学芸」の列の中心に、ヴィオレ・ル・デュック(3)がそれを「哲学」と見るべきか「神学」と見るべきか迷いながら模写した一つの像が浮彫りされている。

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  (図2)のサンス大聖堂のこの浮彫りをよく調べてみれば、すべての疑いは晴れ、ここでも「哲学」が主題になっていることが明らかとなる。彼女は一人の座った女性の姿で表現されている。そして、ボエティウスが記述したとおり、右手には書物を左手には王杖を持っていて、ひどく損なわれている頭には冠が載せられていた。その頭はランで見たのとは違って雲の中に隠れてはいないが、ボエティウスの著書の中でさえ「哲学」がいつも巨大な姿で現れるわけではないことを忘れてはならない。時に彼女は普通の背丈で現れる。この才能ある芸術家はむしろ、「哲学」を芸術として表現しやすい人間の規模に縮小する方を好んだのだ。そしてさらに、梯子を取り除くことでその美的感覚をも証明している。たぶん彼は浅い浮彫りではこのような細部は表現できないし、その細部が構図の緊密さと高貴さをひどく損なってしまうと考えたのであろう。しかし、それにもかかわらず、ボエティウスの思想に忠実であり、その本質を保とうと心を砕いた芸術家は、衣の上の縁飾りに一連のθを、裾の縁飾りに一連のπを彫りつけた。ヴィオレ・ル・デュックの素描の中にこの二つのギリシャ文字を見分けるのは容易である。彼は愚直なまでの正確さでこれらの文字を書き写したが、その意味を理解せず、ただの装飾としか見なさなかった。彼がπの連なりをギリシャの縁飾りの一種と取り違えたことは明らかである。
 それゆえ、ランとサンスの人物像が「哲学」を表現していること、それもボエティウスのテキストに基づいて表現していることは、もはや疑いを入れない事実と考えられる。

  ※ (3)   ヴィオレ・ル・デュック(1814-1879)

 パリのノートルダムその他多くの中世建築の修復に当たったほか、『11世紀より16世紀にいたるフランス建築の理論的辞典』等を著わす。しかし尖塔の一部などが造り変えられていたりして批判されてもいます。

 

 フルカネリは「大聖堂の秘密」の中でこの「哲学の女神」のレリーフをはじめから「錬金術」として解説しています。

  入口の開口部を二つにわける中央柱には、中世の学問をあらわす一連の寓意図像がならんでいる。教会前広場に面した貴賓席を占めるのは、頭が雲に達した女の像による「錬金術」である。女は玉座に坐り、左手に統治権を象徴する笏を、右手に閉じた本(秘教) と開いた本(顕教)の二冊をもっている。膝にはさんで胸にもたせ掛けた九段の梯子は、錬金作業において連続して起こる九つの作用のあいだに錬金術師が所持しなくてはならぬ忍耐をあらわす「賢者の梯子」である。ヴァロアは、「忍耐は哲学者の梯子であり、謙遜は哲学者の庭である。なぜなら傲りや欲をもたず根気よく続ける者は誰でも神の御憐れみを受けるからである。

 これが、ゴシック寺院という『沈黙の書』の哲学の章の題名であり、重々しい石の頁でできた玄奥の聖書の扉絵であり、キリスト教の大作業の正面に捺された世俗の大作業の印璽である。

 と表現し、著作全般にわたって錬金術の実践者を「哲学者」として解説していきます。

しかし、
 エミール・マール氏は[夢想家たちはパリのノートルダム大聖堂扉口に「哲学者の石」の秘密を読み取ることができると信じた]と述べて否定されています。

 [哲学の慰め]の「哲学の女神」は、右手に数冊の書物を持ち、左手には王杖を持っています。その王杖は権威の象徴であり、哲学が自由七学芸を統治するという象徴ではないでしょうか。また右手に持っている数冊の書物は、エレア派のゼノンの書物とかアカディミア派のプラトンの書物と思われます。(2冊ではなく数冊とあります。また開かれているとか閉じているとかは記されていません。)

 ランとサンス大聖堂のレリーフでは、手に持っている書物は、閉じた本と開いた本であり、旧約聖書新約聖書と言われています。それらに対して、パリのノートルダムレリーフでは、右手の閉じた方の本には、あえて鍵が掛けられて表現されています。フルカネリは、顕教密教の表現であるとして、その密教錬金術の奥義であるといいます。

 そのほか、女神は玉座にすわり、頭が雲まで届く大巨人として表現されています‥‥(大地母神?)‥‥‥‥。

 

ラン大聖堂の北の翼廊の石細工のバラ窓にも一連の「学問」の図像があります。

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ラン大聖堂─この聖堂はパリ・ノートル・ダム大聖堂にやや先立って1160年に起工され1230年に完成しています。「学問」の図像もやや早いか同時期です。

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これが、中央の「哲学」の図像です。頭上には雲があり、梯子もありますが、椅子がシンプルで、左右の持ち物の王杖と本を逆に持っています。 

【この図像をフルカネリのいうところの「錬金術」と解釈することは出来ないでしょう。!】

 

参考として  [「ゴシックの図像学(上)」 エミール・マール著より]  

 次に、フランス各地の大聖堂で目にすることのできる「自由学芸」のそれぞれの表現を検討し、芸術家たちがどれほどマルティアヌス・カペラの文章から着想を得ていたかを見てみよう。いくつかの写本挿絵や外国の建造物も、場合によっては貴重なディテールを提供してくれるであろう。
 「文法」はマルティアヌス・カペラが記述しているとおりの長いマントを着た崇高な女性である。しかし、この古代の修辞家が彼女に与えた数々の持ち物の中から、中世の芸術家たちが残したのはただ一つ、鞭だけであった。それは非常に賢明な行為であった。医者の鞄、メス、八つに区切られたヤスリなどの意味は、たしかにきわめて分かりにくかった。詩人よりも決断力があった彫刻家や画家たちは、きわめて良識的に、マルティアヌス・カペラの「七学芸」から余分な装身具を取り去り、本質的なものだけを残したのである。また、「文法」が与える教育の初歩的性格を際立だせようとした彫刻家や画家たちは、その足元に、本の上に身をかがめた二人の幼い子どもを表現した。
 「論理」は蛇を手にしている。この持ち物によって彼女は一目で見分けられる。例外はまれであり、その中で注目に価するものは一つしかない。シャルトルの古い扉口に刻まれたサソリを手に持つ「論理」である。あのアラン・ド・リールも、なぜかは分からないが、蛇をサソリに置き換えている。この二つの伝統は両方とも芸術の中に生きのびた。というのも、十五世紀にル・ピュイの大聖堂参事会室に「自由学芸」を描いた無名の画家も、ヴィラ・レンミの壁画にそれを描いたサンドロ・ボッティチェリも、「論理」の手にサソリを持たせているからである。
 「修辞」は非常に単純に構成された。十三世紀のある写本挿絵に描かれているものを除いて、彼女が兜や槍や楯を身に帯びて現われることはもうない。ランの大聖堂の「修辞」は右腕が壊れており、その手はもしかしたら剣を握っていたかもしれないが、ただ演説の身振りをしていただけの可能性の方が高い。最も頻繁に目にされるのは、そうした姿勢を取る彼女の姿なのである。ランのバラ窓でのように、彼女が書字板に何かを書いている場合もあるにはあるのだが。
 「算術」を、その額から発して数を増しながら果てしなく伸びてゆく、あの光線の束をもって表現することは不可能であった。その代わりに、マルティアヌス・カペラが記述したもう一つの特徴に芸術家たちは注意をとめた。彼女に特有な特徴の中で、彼らはその指の驚くべき敏捷さに注目したのである。オーセールのバラ窓やフライブルクの大聖堂の扉口に、両腕を伸ばし、両手を広げて指を動かしているように見える「算術」が表現されたのはそのためである。ランでは、そうした身振りでは分かりにくいと芸術家は思ったにちがいない。それゆえ、芸術家は「算術」の指の間に算盤の玉を置くことを思いついた。彼はそうすることで、「算術」がその指の上で非常に複雑な計算を行なうことをはっきりと示したのである。ランでは「算術」がそうした姿で二度も描かれている。西扉口と、北のバラ窓の中である。ランの彫刻家やステンドグラス作家ほど彼らの原典を巧妙に翻案した芸術家は少ない。他のどの場所でも、芸術家たちはせいぜい玉を並べたレールや数字の書き込まれた盤の前に坐る人物を表現しただけであった。
 「幾何」は、マルティアヌス・カペラによればきわめて分かりやすい持ち物を手にしている。図形を描くための石盤、「radius」という言葉の意味のとり方に応じてコンパスか定規、それと球体である。幾何と天文とを混同させかねない球体は別として、これらの持ち物はフランスのほとんどすべての大聖堂に見いだされる。サンスやシャルトルではコンパスは壊されてしまい、「幾何」がその図形を描く石盤だけが残つている。しかし、ランの大聖堂正面では「幾何」の像は無傷のままである。「radius」という言葉はどこでもコンパスの意味に解釈された。しかし、その二つの意味を両立させるために、時として「幾何」の片方の手にコンパスが、もう片方の手に定規が握られることがある。オーセールのステンドグラス、フライブルクの扉口、いくつかの写本の中にも、こうした表現を見ることができる。
 「天文」はもはや、マルティアヌス・カペラが彼女にまとわせた豪華さを失っている。彼女はもはや光の環も、黄金の翼も、ダイアモンドも持ってはいない。星の高さを測るのに用いるL字形の器具だけを、また時には天候の象徴である各種の金属で作られた書物だけを手にしている。サンス、ラン、ルーアンフライブルクでは、「天文」は一枚の円盤を天に向かって差し上げているが、普通そこには折れ曲がった線が刻まれている。オーセールのステンドグラスでは、彼女は書物を手に持っている。
 「音楽」だけは、マルティアヌス・カペラによって着想された七学芸の擬人化の中で唯一、その元の特徴をまったく残していない。見知らぬ楽器を演奏しながら詩人や神々の行列の先頭に立って進む異教の女神ハルモニアは、三つか四つの鐘をハンマーで打ち鳴らす一人の坐った女性に置き換えられた。中世においては「音楽」がそれ以外の持ち物を手にすることはほとんどない。十三世紀の諸『詩編集』では、ダビデ王が最も偉大な音楽家であり音楽の生きた化身であることを思い出させようとして、挿絵画家たちはその前に吊り下げられた鐘を二つのハンマーで打ち鳴らす王を描き出している。そこには中世に広く流布していた音楽の起源についてのある伝説の痕跡を見ることができる。ヴァンサン・ド・ボーヴエは、ペトルス・コメストルに従って、カインの末裔であるユバルが音の出る物体をさまざまな重量のハンマーで打つことによって音楽を発明したのだと述べたあと、「ギリシア人たちは誤ってこの発明をピタゴラスによるものとした」とつけ加えている。中世の芸術家たちによって「音楽」の手に握らされたハンマーは、このような起源を思い出させるためのものであったことは疑いない。 マルティアヌス・カペラのテキストがどれほど強い造形的影響力を持っていたかは、二世紀や三世紀もの間、飽きることなくそれが用いられ続けたことからも分かるだろう。中世は「七学芸」を七人の荘厳な乙女たちの姿でしか思い浮かべることができなかった。その例外はないのである。
 シャルトルの古い扉口では、マルティアヌス・カペラのテキストにさらに忠実な芸術家が、ある新しい着想をそこから得ている。この修辞家の書物の中では、諸学問のほとんどすべてが、それを発展させた偉大な大物たちの行列を伴って進んでいるが、シャルトルにおいて、「自由学芸」のそれぞれの擬人像の足元に、何かを書いたり瞑想したりしている座った男たちの姿が見られるのはそのためである。
 これらの人物は誰なのか、その名前を示すのは容易なことではない。というのも、マルティアヌス・カペラはそれぞれの学問のお供として1人ではなく数人の名を挙げているからである。とはいえ、中世に最も普及していた書物の助けを借り、また同じ時代や後の時代の遺物を参照することで、何らかの仮説を立てることは不可能ではない。
 「文法」の足元にいる人物はドナトゥスかプリスキアヌスであるにちがいない。中世は、ある時にはドナトゥスを、ある時にはプリスキアヌスを採用したが、たいていはこの二人を区別しなかった。セビリャのイシドルスは『語源論』の中で各学問の発明者の名を挙げているが、文法についてはドナトゥスを指名している。しかし、このシャルトルで『七学芸教程(Heptateuchon)』を書いた十二世紀の学僧ティエリは、ドナトゥスとプリスキアヌスを同列に置いている。彼はこの両者の著書を用いて文法を教えていたのである。フィレンツェでは、サンタ・マリア・ノヴェツラ教会のスペイン人礼拝堂内部を飾る十四世紀の壁画が、シャルトルでのように、七学芸の足元にその学芸に最も秀でた人物を表現しているが、ヴァザーリの言うところによれば、そこで「文法」の足元に坐っているのは文法家ドナトゥスなのである。
しかし、ル・ピュイの大聖堂参事会室の十五世紀の壁画は、まさにフィレンツェの壁画と同じように構想されているのであるが、「文法」の足元にいるのはプリスキアヌスであり、その名前がはっきりと記されているのである。それゆえ、ビュルトー修道院長のように、シャルトル「算術」の足元では教鞭を取っているというわけである。だが、彼の名前と置き換えることができるかもしれない名前がもう一つだけある。ボエティウスである。セビリャのイシドルスが数の学問に秀でた学者たちの一人に数えているボエティウスは、ティエリが二巻の書物によって算術論を説いていたシャルトルで、とりわけ熱心に学ばれていた。その上、シャールがまさにシャルトルのティエリの『七学芸教程』を用いて証明したように、不当にアラビアのと呼ばれている数字や順列の算術を中世に知らしめたのはボエティウスであった。それゆえ、ボエティウスは算術のミューズの足元に描かれる権利を、ピタゴラスと同じくらいに持っており、二人の中からどちらかを選ぶことはできないのである。
 このように、シャルトルでは、マルティアヌス・カペラによって考え出された構成がかなり忠実に守られている。『メルクリウスとフィロロギアの結婚』に書かれているように、各学問はその発明者やその研究において最高の栄誉を得た人物に伴われているのである。 クレルモンの大聖堂では、マルティアヌス・カペラの構想がかなり独創的な形で縮約されている。そこでは学問と学者が一つになっているのである。講座に坐ったアリストテレスキケロピタゴラスは、「七自由学芸」が手にしていたあの持ち物を持っている。しかし、この尊敬すべき人びとがこの世の存在ではないこと、彼らが象徴であり、すでに学問の尊厳性そのものと化していることを示すために、彼らの頭上には冠が載せられている。

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上の図は、シャルトルの学問のレリーフの一部です。左から論理、音楽、天文となっています。下段はその学問に連なる人物たちで、左からアリストテレスピタゴラスプトレマイオスと言われています。


  自分の定義する錬金術は、次のように考えています。
 錬金術は、科学に先立つ科学であった。化学と物理学は錬金術から発展したものであるが、錬金術は自然界の事柄だけではなく、形而上学的なことがらもふくみ、客観だけでなく主観もふくんでいたという点で近代科学とは異なっている。
また、錬金術という言葉をきいて、蒸留器をもった学者が鉛を金に変えるという賢者の石、あるいはラピスを探し求める姿を想像するのはいささか子供っぽいことなのだ。それは錬金術の目的の一つではあるが、ほとんどの錬金術師は、ガラス瓶やはく製のワニや奇形の魚やかまど等はなく、その実践は、瞑想であり、呼吸法であり、祈りであり、魂の成長への精神的変容の方法なのです。 

 

 次回は、 ボエティウス著 「哲学の慰め」の『囚人の前に現れた女神が哲学であったと気がつく場面までの文です。』