tanasuexの部屋

〈宗教の生命は、善をなすことである〉

パリのノートルダム大聖堂の夢解釈! ~2

「哲学の慰め」 ボエティウス

※ 囚人の前に現れた女神が哲学であったと気がつく場面までの文です。

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投獄されたボエティウス

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生徒に教えるボエティウス

 追 記

図1

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 この図1の老婆は魔女ではありません。彼女は古代神話の運命の三女神のひとりで、人生という衣服の材料となる糸をつむいでいるのである。このように古代には、運命の女神には3人いて、それぞれが人間の生に深くかかわると思われていた。神秘のヴィジョンで興味深いのは、このしわくちゃ婆さんが、三つの世界の中央に描かれている点である。彼女は立方体の石ないし岩の上に立っているが、立方体というのは(岩もそうだが)物質性、物質界のシンボルのひとつである。
 図の老婆は、生いしげる花やクロイチゴ、つる植物、シダといったものに囲まれている。オカルトのシンボリズムでは、こういう植物のからまりあいは、エーテル体層に関連する。「エーテル」という語はラテン語のアエテルに由来し、「精髄」──古代人が星の霊体、地球の生命力だと考えた秘密の第五元素──という語とほぼ同義語である。よく考えればわかるように、成長中の植物で生命力を象徴するとは、まったく文句のつけようがない。じっさい中世の美術家は、エーテル体層(そこでは時間もまた異なる)で起こるとされることを示したくなると、背景の部分によく、渦巻き形や植物のような茂みを描きまくったのだった。図2の彫刻の詳細図や図3錬金術のシンボリズムには、その実例がうかがわれる。
 また老婆は、ただ象徴的な茂みのまん中にたたずんでいるだけではなく、球体を肩にしょってもいる。しかし、この球体には宇宙は図解されていないため天界を象徴するためのものではない。この半円には、擬人化された三日月のほかに、星(「ソロモンの封印」の形をしている)がいくつも散りばめられている。さらに絵の一番右上では、炎がひらめいている。そしてその炎は、内側の雹(ひょう)というか流星めいた物体もろとも画面に突入している。この火と月からなる高レベェルの世界をアストラルという。「アストラル」という語は、ラテン語で「星」を意味するアステルに由来する。月球に星がいくつも描きこまれているのも、まずまちがいなくこれが理由だろう。中世の美術家は、描く対象がアストラル界の上部にあることを示したくなると、よく背景を純金にしたり、星を描いたりしたのである。主題の「アストラル性」を示している。 

 

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図4

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 図4は、一名「存在の階梯」なるものを示したオカルト関係の絵図である。それを見ると、はしご状のものが示されている。そしてそれは、物質界の最下層から上に伸びていって、天界(ここでは城で象徴されている)に達しているが、この図のばあい、どの段も一段下の段よりも高いレヴェルを象徴している。たとえば絵の左側にいる男は、一番下の段に足を乗せている。そこにはラテン語でラピスLapisとあるが、これは「石」という意味だ。ここまでくればもうわかるように、この段は図1の老婆と関連している。なぜなら、彼女も石に乗っていたではないか。
 二段めには、フラマFlamaとある。これは「炎」という意味で、火とはじつは、地球の属性の最高の表われだという旧来の概念に由来する───中世の物質観によると、火というのはじつは、急激に純化された土の一種なのだ。図1の右手にある炎のひらめきには、こうした火がうかがわれる。 
つぎの段には、プランPlantaとある。これは、英語の「植物」とつながりがあるが、ラテン語のプランタは、成長と繁殖という考えも内包している。これはあきらかに、図1のあふれんばかりの植物に対応する───それは、つぎなる存在段階=エーテル体のシンボルなのである。
 つぎの段には、ブルトウスBrutusとあるが、これは「動物のような」という意味だ───ここからは、一本の線がライオンにむかって伸びている。百獣の王は、この段階の生物として格好のシンボルだという証拠である。むろんこれは、感情からなるアストラル界に対応している。
つぎの段を見るとようやく、「人間」を意味するホモHomoという語が出てくる。ここでのシンボリズムは、人間というのはある意味で、鉱物界や動植物界のきわみだという真理を示している。
 では、つぎの段はなんだろう? そこにはケルムCelumとある。「天国」という意味だ───その先には、天使と神(デウスDeus)の世界がある。ケルムと記された段は、星が散りばめられた雲と一直線につながっている。すでに第1章でふれたように、オカルティストは、人間の思考のみなもとを星辰界に結びつけ、思考というものを、人間にも利用できるものの、なにか人間にまさるものだと見ているのだ。
 デウス(神)と記された段は、上の宮殿に通じている。
 図4のこうした要素は、どれをとっても図1のシンボリズムに通じている。もっとも、わたしたちにはそれを識別できる力はないけれども。たとえば天使の世界は、古くから月に関連づけられている。したがって、図1の絵のてっぺんにある月の顔は、そこが天使のいる天球だというしるしなのだ。またケルム=天国も、運命の老婆の頭上にかがやく星で象徴されている。さらに図1をよく見れば、図4の階段が、老婆が傾きかげんにもつ糸巻き棒で象徴されていることがすぐわかるだろう。この糸巻き棒は、とても大きい。どう見ても、なにか肝心かなめのものを象徴するつもりなのだ。図4の階段と同じように、糸巻き棒は石を起点としているし、これまた図4の階段と同じように、城に似たとても妙ちきりんな形で終わっている。つまり、図1の老婆───おわかりのとおり、運命の三女神のひとり───は、図4で足もとにある不活性で生命のない石と、頭上の城が象徴する「神の都」のあいだにたたずむ人間にあたるものなのだ。

 このように図4のオカルトのシンボリズムを心ゆくまで見わたせば、これまでの調査の限界をはるかに超えられるだろう。そこで、あるひとつのシンボリズムのライン=ライオンをめぐるシンボリズムを集中的に、もっと注意ぶかく調べなくてはならない。すでに見たように、このライオンは、人間の生きた感情と、それにゆかりのアストラル体層を表わす。まさにこの層の範躊で、人間は暮らしている。まるで目に見えない海のなかにいるように───魚が水中で暮らすのとほとんど同じように。オカルティストによると、アストラル界は、たしかに常人の生前には見えない。しかし、死後には見えるようになるという。脱ぎすてられた手袋みたいに肉体を置きざりにして、人間の霊はアストラル界にはいりこむ。
・・・・・・
 アストラル界を見る力は、凡人にはないけれど、特別な眼力があったり、透視のトレーニングを積んだりすれば、あっさり見られるのだろう、と。アストラル界のことを微にいり細をうがち説いた、オカルティズムやスピリチュアリズムの膨大な数におよぶ文献を読破すれば、この確信はいっそう強まる。オカルティストによれば、アストラル界には、えもいわれず美しい部分もあるが、ぎゃくにとても醜い部分もあるという───それもそのはず、アストラル界には、レヴェルの上下があるのだ。‥‥‥ただしアストラル界はレヴェルの上下を問わず、どちらも色とりどりといわれているので、この世界を見た人間で画才のある者が、おもに色でそれを表現しようとしてきたのも当然といえよう。興味あふれるオカルト関係の絵や彫刻の中には、その結果として生まれた作品もある。またじつは、宗教のシンボリズムに利用される図像のなかにも、神秘的な概念にもとづくものがあるのだが、このアストラル界を描いたものくらい、オカルティズムとの固いきずなを誇る宗教美術の分野はほかにない。さらにキリスト教で一、二を争う深遠な信条によると、下等なアストラル体の手に負えない力は、キリストの愛によって救済されたり馴らされたりするかもしれないという。すでに見たように、キリスト教美術のばあい、(下等なアストラル体ならではの)手に負えない感情をヘビで象徴しようとした作品もあるが、他方、炎のシンボルを使った作品もある。この炎のシンボリズムの裏にあるのは、こういう荒々しい火の舌は、制御されたりすると、星のやわらかな輝きになるという考えだ。・・・・・・・・

以上、引用は [オカルトの図像学](フレッド・ゲティングズ著)青土社より

 

 「 哲 学 の 慰 め 」 

                                ボエティウス著(480~524年頃)[524年獄中で執筆]

『  第 一 巻

   1

 かって晴れがましい思いで詩を作った私が、
 ああ、うなだれて嘆きの歌を
 始めなければならない。見よ、詩の女神らも
 しおしおと私に書くべきことを教え、
 物悲しい歌に私の頬は熱い涙で濡れる。
 これらの女神だけはどんな恐怖にもめげず、
 私の旅の道づれになってくれた。
 幸福に潑剌と過した青春の日の栄誉に、
 今は悲しい老いの身の不遇も慰められる。
 災いにせかれて思いのほか早く老いが迫り、
 苦悩のためにめっきり年を取ったせいなのだ。
 早くも頭は白髪におおわれ、疲れ果てた
 体の皮膚はものうげにふるえる。人の身に
 死が楽しい年頃には訪れず、悲しむ者には
 しばしば招かれてくるとしたら、幸いである。
 ああ、死は哀れな人々の叫びに耳をふさぎ、
 涙ぐむ目を閉ざすことを冷酷にもこばむ。
 あてにならぬ運命のささやかな恵みを
 受けている間に、いつしか私は
 不幸の淵にほとんど首までつかっていた。
 運命のつくり顔が渋面に変わった今となっては、
 恥をさらして命を長らえるのは気が重い。
 転落した者は安定した地位を
 占めていなかったのに、友よ、君たちはなぜ
 いくたびとなく私の幸福をたたえたのか。

  一

 私がひとり静かにこうした物思いにふけり、やるせない憤懣を尖筆で書きつけていると、きわめて気品のある身なりをした婦人が私の頭上に立っている気配がした。彼女の目はきらきらと輝き、常人の及ばぬ洞察力があるように思われた。彼女は年老いているようにも見えたが、その表情は生き生きとして若々しく、われわれの物差しでその年齢を計ることはできなかった。彼女の背丈はといえば、はっきりと見定めることはできない。というのも、時にはその背を人間並みに縮めていたし、時にはその頭は天にまで届きそうであったし、また時には、さらに高くそびえたその頭が天さえも突き抜けて人びとの好奇の視線から消え去っていたからである。熟練した技巧で織られた衣装は、細くて朽ちることのない糸で作られていた。彼女がそれを自分で織り上げたことは、後に彼女自身がわたしに教えてくれた。しかし、すべての芸術作品の輝きを失わせる時の流れが、その色を褪せさせ、その美しさを隠していた。その裾の縁飾りにはギリシャ文字のπ[ピー](1)が、上の縁飾りにはθ[テーター](2)が織り込まれていた。二つの文字の間には梯子に似た一連の段が表現されていて、それが下位の原理を上位の原理へと導くのであった。ところが、この衣服を幾人かの乱暴者が引き裂き、その切れはしを我勝ちに持ち去ってしまったのである。また彼女は右手に数冊の書物を、左手に王杖を持っていた。
 彼女は詩の女神たちが私の寝台の側に立って、私の涙に慰めの言葉をかけているのを見ると、さっと気色ばみ、目をいからせて腹立たしげにこう言った。
「誰に許されてこの女芸人どもはこの病人の側にきたのだろう。この女たちはこの人の苦痛を薬で和らげないばかりか、かえって甘い毒を盛って強くしている。それと言うのも、
この女たちは感情の無益な棘で理性の実りの多い種子を刺し殺し、人間の精神を病気から解放しないで、それに慣れさせるからである。とは言っても、もしお前たちの阿諛が、いつもしているように、誰か俗悪な人間を惑わしているのであれば、私はそれほど不愉快には思わないであろう。もちろん、私の仕事はそんなことでは少しも妨げられない。だが、人もあろうに、このエレア派と(プラトンの)アカデミア派の研究をつんだこの人を惑わすとは。甘い言葉で破滅に誘う魔女たちよ、立ち去るがよい。この人をいたわって元通りにすることは、私の女神たちに任せるがよい」
 こうした言葉でたしなめられると、女神たちの群れは深くうなだれ、恥ずかしさで顔を赤らめながらすごすごと立ち去った。しかし、流れる涙で目もかすみ、これほど堂々とした権威をもつこの婦人がいったい誰なのか、見分けがつかなかった私は、胸もつぶれる思いでじっと目を伏せ、彼女はこれからどうするだろうかと期待に息をひそめた。すると彼女は近づいてきて私の寝台の端に腰をおろし、悲嘆に暮れて悩ましげにうなだれている私の顔を眺め、次の詩句で私の心の動揺を嘆いた。

   2

 ああ、地上に嵐が吹きすさび
 いたたまれぬ不安が果てしもなく広がるたびに、
 あなたは愚かにも深淵に沈み
 身に具わる光を見捨てて
 外の闇に消えて行こうとする。
 あなたはかつて大空を自由に
 疾風のように駆けめぐっては
 薔薇色に輝く太陽の光を眺め
 澄み渡った月の光に見入り、
 そうして満点の星がさまざまな円を描いて
 さすらいつつ回帰することを
 誇らしげに数によって把握した。
 それどころか、いつもあなたはどうして烈風が
 海の面を波立たせ、
 どんな霊が天体を廻転させるか、
 またなぜ東の空に赤々と昇る太陽が
 西海の波間に沈み、
 何が春の季節をのどかにして
 大地を薔薇の花で飾り、
 誰が実りの秋を年ごとに
 豊かな葡萄の房であふれさせるか、──
 こうしたことの理由を尋ねて
 隠れた自然のさまざまな原因を明らかにした。
 今あなたは精神の光も消え
 首を重い鎖でしめつけられて横たわり
 あまりの重さに顔をうつむけ
 ああ、なすすべもなく汚れた大地を見つめている。
   

「しかし今は嘆くよりも、薬を与えるときである」と彼女は言った。それから彼女は私を見すえてこう言った。「あなたがかつて私の乳で育てられ、私の食物で養われて、男らしい強い精神を身につけるようになった人ですか。私はあなたに、投げ捨ててしまわないかぎり、打ち破られない堅牢な造りであなたの身を守るような武器を、渡しておいたではありませんか。あなたは私を覚えていますか。どうして黙っているのですか。恥かしくて、それともひどく驚いたために、口がきけなくなったのですか。恥ずかしいくらいならよいのですが、しかし、あなたはひどく驚いたために、ものも言えなくなったらしい」
 私が返事をしないばかりでなく、まるで唖のように口がきけないのを見ると、彼女は私の胸にやさしく手をおいて言った。
「心配はいらない。この人は裏切られた人々にありがちな昏睡病にかかっている。この人は少しのあいだ自分のことを忘れているが、私に気がつけば、すぐに正気に返るであろう。それができるように、私は俗事に煩わされているこの人の目を少しふいてあげよう」
こう言うと、彼女は涙を浮かべている私の目を衣服を折りまげて拭ってくれた。

   3

 すると夜は追われ闇を私から去って
 目はもとのように見えるようになった。
 あたかも北西の疾風に雲がむらがり起り
 空に嵐をはらむ雨雲が立ちこめ、
 日は隠れて天上にはまだ星影もないのに
 夜のとばりが地上におりるとき、
 トラキアの洞窟から送られた北風が
 とばりを吹き払って閉ざされた昼を解き放つと、
 たちまち太陽が現れて光を放ち
 驚嘆する人々の目にまぶしい光を注ぐように。

 ちょうどこのように悲しみの霧が消えたので、私は空(くう)を見つめ、それからふと正気に返って、私を癒やそうとしている婦人の顔を認めた。そうして彼女に目を向けて瞳をこらしたとき、私はそれが私を育ててくれた哲学であることに気がついた。私は若いころから彼女の家で教えを受けてきた。私は尋ねた。
「あらゆる特性の教師よ、どうしてあなたは天上から私が流されているこんな淋しい所へ降りてこられたのですか。あなたも私とともに告発されて、無実の罪を着せられたのですか」
 彼女はこう答えた。
「私が教え子のあなたを見捨てたり、私の名前が妬まれているために、あなたに負わされている重荷の苦しみを、共にしなかったりするものですか。罪のない人を供もつけずに旅立たせることは、哲学には許されないことでした。言うまでもないことですが、私が罪を着せられることを恐れたり、そんなことに、まるで目新しい出来事でもあるかのように、身ぶるいしたりするものですか。いったいあなたは道義が頽廃して知恵が危険にさらされるのは、今度が初めてだと思いますか。私たちは我がプラトンの時代より古い人々の頃にも、愚かな人々の無分別としばしば戦わなかったでしょうか。プラトンの在世中にも師のソクラテスは、私の助けで不当な死を甘受して勝利を得たではありませんか。その後ソクラテスの遺産をエピクロス派とストア派の暴徒やその他の連中が、自派のために勝手に奪いさることを企て、そうして反対し抵抗する私をまるで戦利品の一部のようにさらって行こうとしたとき、彼らは私の手織りの衣服を引き裂き、ちぎり取った衣服の切れはしを手にして、私をすっかり自分のものにしたかのように信じて引き揚げて行きました。その切れはしには私が身につけていたものの痕跡がいくらか残っていたので、彼らは私と親しくしていると思われましたが、軽率なふるまいを咎められ、一般民衆の誤解のために破滅を招いた者も少なくありません。          
 あなたはアナクサゴラスの逃避も、ソクラテスの毒殺も、ゼノンの拷問も、これらはよその国の出来事であるから、知らないとしても、しかしカニウスやセネカやソラヌスのような人たちのことなら、その思い出はあまり古いことではないし、またかなり有名であるから、知っているはずです。これらの人々が災難に陥れられたのは、私の流儀を教えこまれたために、邪悪な人々の好みとひどく違っているように見えたからにほかなりません。それですから、あなたは私たちがこの人生の海原で、四方から吹き付ける嵐に揉まれても、少しも驚くには及びません。こういう嵐のそもそもの起こりは、私たちがきわめて邪悪な人々の機嫌を損ずることにあります。邪悪な人々は大軍をなしているけれども、恐るるに足りません。彼らは指導者によって統率されず、気違いじみた誤謬に盲滅法に引き廻されているからにすぎないからです。もし彼らがいつか私たちに向かって陣を布き、勢いに乗じて襲ってくるならば、私たちの指導者は部下の軍勢を砦に集めます。彼らのほうは役に立たない品物の掠奪に没頭します。ところが、私たちはつまらぬものを手当たり次第に奪い合う彼らを見下ろして嘲笑します。私たちは塁壁に守られていますから、彼らがいくら狂暴に騒ぎ立てても安全です。うろたえた愚かな連中が、この塁壁に迫ることは許されていません。

 晴れ晴れとした気持ちで生涯を送り
 尊大な運命をひざまずかせ、
 時運の盛衰をひたと見つめて
 顔色一つ変えなかった人は誰でも、
 荒れ狂う波の逆巻く
 大海の怒号や脅威にも、
 炉の裂けるたびにもうもうと炎を吐く
 ヴェスヴィオの火山にも屈服しないし、いつも
 高くそびえる塔をつんざく
 稲妻の閃光にも動かされないであろう。
 なぜ人々は哀れにもかっと激昂する
 残忍な暴君をこれほど恐れるのか。
 何事も望まずまた恐れなければ
 あなたは逆上する者の怒りを制するであろう。
 しかし、気おくれしてふるえたり 思うに任せぬ
 はかないものを求めたりする人はすべて、
 楯を投げ捨てて鮮烈を離れ
 鎖につながれて引きずられることになる。

        ── 略 ──

……………だから、あなたがたは悪徳に逆らい、徳性を養い、心を正しい希望へ高め、つつましい祈りを天に捧げなさい。あなたがたが偽ろうとしないかぎり、あなたがたは誠実への大きな必然性を負わされています。あなたがたは万物を見通す裁き主の目の前で行動しているからです。      《これが、この書の最後の文です》         』                          
                              引用 「哲学の慰め」 ボエティウス著 訳 渡辺義雄

 

  この本の「哲学の慰め」は西欧において中世以来、「聖書」「キリストにならいて」と並んで最も愛読された書物でした。( 中世の修道院や大聖堂の蔵書目録を確認するとそこには、常にボエティウスの名前があるからです。[ かつ、時の大学の教科書としても利用されていました ] ) 

 神に関する言及はあるものの、厳密にはキリスト教的ではなく、イエス・キリストキリスト教に対する言及もありません。しかし、中世におけるキリスト教徒たちは異教の哲学等に対して、敵意をもって取り扱うことはなく、キリスト教と矛盾しない場合にそれらを受け入れ、キリスト教に役立つものとして学んでいました。

 そして、神は永遠にして全知全能であるだけでなく、全ての善性の起源として表されており、これがパリのノートルダム大聖堂の西正面の入口に「哲学の女神」として表現されていることは、百科全書的であり、かつこのゴシック大聖堂という本質であるように思われます。

 

次回は、パリのノートルダム大聖堂の彫像としてある「錬金術師」の内容です。